第30話 握手

 はじめましてと差し伸べられた右手が握手を求めているのだと、理解するまでに瞬きほどの時間がかかった。日常生活で握手を求められることは殆どない。大体会釈で済ませるのが常だった。

 少し気後れしながらも左手を出した。差し出された右手は白く滑らかで、お世辞にもきれいとは言えない手で触れることにためらいを覚えた。

 きゅ、と少しだけ彼女の手に力が込められる。握り返すのがいいのか、それともこのままにしておいたほうがいいのか、智昭が優柔不断に陥っている間に彼女の手は離れていった。

「そう緊張されなくても大丈夫ですよ」

 お座りください、と二人がけのソファを勧められる。ふわりとした座り心地のソファはやはり落ち着かない。

 黒いワンピースをまとった彼女は、智昭が座ったのを見てから向かいの椅子に腰掛けた。両者の間にはローテーブルがひとつあり、先程茶器と茶菓子が運ばれてきた。

「単刀直入に申し上げます。おめでとうございます。合格です」

 にっこり笑う女性はそう告げて、ティーカップの紅茶を飲み干した。コトリとソーサーにカップを戻す所作も洗練されている。

「え、っと、本当ですか? まだ何もお話していませんが……」

「握手をすれば大体のことがわかりますので。しかしながら……ずいぶんと「縁」がおありの方のようで」

 その言葉には気遣いが透けていた。智昭は「えぇ、まぁ……」と言葉を濁すより他になかった。


 昔から、「この世ならざるものに好かれる」体質だった。実際に見えもするけれど、不思議と声は一切聞こえてこない。無声映画さながらに、何かを訴えかける霊が眼前に飛び出してきたり、視界の片隅に佇んでいるのだ。

 気にしないように意識することは、できなくもない。けれど、この世ならざる彼らが自分の後ろに行列を作っていたことが、たかだか二十年ばかりの年月のうちに幾度もあった。

 この世ならざるものに退去願うには、彼らの「未練」を取り除くのが一番だと聞く。それでも、智昭は彼らの声が聞こえない。

 これまでずっとどうにもできず、年に一度近くの寺社仏閣に参り、自分に憑く者たちに退去願っていた。

 そんな折に、彼女の噂を聞いたのだ。曰く、この世ならざる能力と縁を切れる力を持つ者がいる、と。


「あなたが望むのならば、私はその「縁」と「目」を頂きましょう。謝礼はきっちりお渡しします」

「……僕のその、「縁」と「目」? を手に入れて、あなたはどうされるんですか?」

 思わず、そう訪ねていた。実際にできるのか否かを尋ねるのが先かとは思ったが、彼女が「できない」とは、不思議と思えなかった。

 問われた彼女はぱちくりと一度目を瞬かせて、少し表情を和らげる。

「私は、声しか聞こえないのです。だから、見て感じられる力がほしかった」

 彼女は霊の声を聞き取る力を、智昭は霊を見る力を有している。どちらかだけでは成り立たないものを、完全に至るように。それを彼女は望んでいた。

「あなたがもし要らないと言うなら、その力を私に頂きたいんです」

 彼女は右手を差し出してきた。他意のない純然な依頼。智昭は彼女の手をじっと見つめた。

「……ひとつ、提案があるのですが」

「?」

「僕に、あなたの仕事を手伝わせてくれませんか?」

 正直、霊を見る能力など必要ないと思っていた。ここで彼女に引き渡して、自由に生きていきたいとも思っていた。

 けれど、彼女を目の前にして欲が出た。

 自分がこの能力を授かったのは、なにか理由があったのではないか。もっと言うならば、彼女の手助けをするためなのではないか、と。


 彼女はいくらか目を瞬かせた後、こっくりとうなずいた。

「私ひとりでは立ち行かないことも、あなたと一緒ならばうまくいくこともあるでしょう」

 改めて、よろしくと。彼女はその右手を差し出した。

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