リュカと奇妙な祓魔依頼
桂真琴
Episode1 Bonniy and Clyde
1-1
『恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる』――イザヤ書41章 10節
◇
リビングルームに紅蓮の焔が広がっていく。
獣の舌の様に部屋を舐めていく炎の中、黒い影がゆらゆらと蠢いていた。
「隠れてもぉ、無駄だぁ」
歌うようなその不気味な声に、ソファの影にいた幼女は声を上げそうになる。
「声を出しちゃダメ」
幼子の口元を優しくふさいだその手は震えている。我が子を抱きしめ、母親は周囲に視線を走らせる。
汗が額を伝う。母親は焦っていた。一刻も早く外へ逃げなくては。
なんとか悪魔に見つからずに脱出できないだろうか。
「悪魔はお耳やおめめが悪いの。だから静かにしていれば……」
「ぶっぶー、ハズレっ♪」
突如、四本の腕を広げた黒い異形が視界に現れた。
「きゃあああああ!! 来ないで!! 来ないでぇっ!!」
我が子を抱えて黒い異形から必死に距離を取ろうと後じさる。しかしそれを嘲笑うかのように異形はソファを軽々と蹴り倒し、母娘ににじり寄った。
「お耳やおめめが悪いのはぁ、低級悪魔の話でぇ、俺様のような上級悪魔はふつーにどっちも利いちゃうわけっ」
火が付いたように幼子が泣き出した。
そんな我が子を抱えて母親は走ろうとした。しかしその襟首を凄まじい力がつかみ上げる。
「ぐえっ、けほっ」
操り人形のように掴まれた母親の手から幼子がすべり落ちた。
「ママぁ!」
「逃げるのよ……ぐっ」
苦しさに足をばたつかせる母親を軽々と目の高さまで吊り上げ、悪魔は解けた歯の並ぶ口でニタリと嗤った。
「人間はほんとうにバカだなあ。バカがうつりそうで嫌だけどぉ、人間のメスって美味いんだよねえ。こーんなちっこいヤツでも」
走ろうとした幼女に、異常に長いもう片方の腕を伸ばしてつまみ上げる。
「おまえら
キッチンから火の手がごう、と大きく回ってくる。その地獄のような光景に幼女は声の限りに泣き叫んだ。
「ママぁこわいよう! うえーん」
「うるせえなあ。切り裂いて楽しもうと思ったのに。めんどうだからお前から喰うわ」
「やめてっ! やめてえええ!」
母親は絶叫して悪魔の腕をつかもうとするが、四本ある腕の一本がその喉を押さえこんだ。
「ぐうっ、うう」
「うるせえな、おとなしく隣で見てろ。騒がずともすぐにお前も喰ってやる」
大きな顎が開き、悲鳴を上げる幼女を一呑みにしようとした――ときだった。
焔の中を、閃光が走った。
同時に、地の底から這いあがってくるような低い旋律が静かに、しかし強く響く。
「In nómine gládii et rosae mundábo et exorcífic
刹那、悪魔の巨影に大きな衝撃が走る。
舌なめずりをしていた口から思わず呻きが漏れた。
「う?! な、なんだぁ?」
おかしい。なぜ自分は地面をこんなに近く見ているのか――。
じゃり、と床を踏む靴音を見上げると、男が一人立っている。
「クソ野郎があっ、俺様のエサを横取りするなっ」
「クソにクソとか言われたくない。それより周りをよく見ろよ。食事どころじゃないと思うが?」
「なっ、き、貴様、その
神父の姿を認めた瞬間、激痛に絶叫がほとばしった。
「おかひいっ、俺様は悪魔だぞっ、痛みなんぞ感じるはずが――」
次の瞬間、悪魔は気付く。俺様が見ているのは俺様の足だ。
両断された胴体から逃げた腰から下が、黒い僧衣姿の男に蹴り倒されて足の下に敷かれている。
そしてこのちくちくとする痛みはなんだ。
なんだなんだなんだなんだなんだなんだなんだなんなんだぁあ!!!
「け、結界じゃねえかああああ!!」
周囲を取り囲むように床に描かれた、奇妙な光線。
それは悪魔が最も警戒するべき破滅の印。
「やっと気付いたのか。マジでバカはおまえだな」
呆れたように言った神父の手には銀色の棒が握られ、そこから青白い光線の刃が伸びている。
「そう、か……き、聞いたことがあるぞ」
神父の持っている剣。
その刃は鋼ではなく、人間の小賢しい知恵で作られた光線だという。
「我らをやすやすと断ち切ることのできる剣……あのクソ忌々しい人間どもとの戦で同胞を壊滅的状況に追いやった忌まわしい剣を持つ神父がいると……」
「忌まわしい剣じゃない。『聖剣』だ」
閃いた光芒が次の瞬間、地面を這いつくばっていた悪魔の上半身を貫いている。
「ぐああああああああ!!!」
すさまじい咆哮と同時に悪魔の心臓は十字に貫かれていた。
《Spero te poenitere et pro pecca
神父が再び聖句を紡いだ瞬間、悪魔は黒灰となって宙に散っていった。
「……地獄で罪を償わんことを」
神父は一振りで光線を収めて『聖剣』をホルダーに収納し、振り返る。
黄昏色の双眸が微笑むと、ショックで震えの止まらない母娘に視線を合わせた。
「立てますか」
「は、はい、神父様」
母親はよろけながらも気丈に立ちあがる。神父はその肩を支え、幼子を黒いカソックで包むと、火の手の回る家の中から素早く外へ飛び出した。
住宅街の道にはサイレンの光が明滅している。
消防車と救急隊車両、通報を受けて駆け付けたJSAFの車両だ。
迷彩服姿のJSAF隊員が付近住民を避難させている。
神父は幼子を下ろし、母親の手に渡した。
「向こうにJSAFや救急隊が来ています。保護してもらってください」
「あの……助けていただき、本当にありがとうございました……!」
母親は声をつまらせて頭を下げた。じっと見上げてくる幼子に、神父は頷く。
「さ、あの車の所に行くといい。優しいおじさんたちが助けてくれるから」
「……お、お兄ちゃんと、一緒にいたらダメ?」
そう言ってじっと見上げてくる幼子に、神父は困ったように笑った。
「ダメ」
「どうして?」
一拍考えて、黄昏色の双眸がふ、と細まる。
「お兄ちゃんは、向こう側には行けないんだ。――罪人だから」
「つみびと?」
神父は微笑んでカソックを羽織り、踵を返した。
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