1-7


 崩れかけた鉄筋の巨大な廃墟は、ところどころに白いクリームのかかった失敗作のケーキのように見えた。

 クリームに見えるのは小さな花を鈴なりに咲かせたつただ。

 その蔦が廃墟をびっしりと覆っている。『ゲヘナ開門』前の平和な時代なら、芸術的モニュメントにも見えただろう。

 しかし今、その巨大な建物は人々の現実だ。悪魔から身を守るコロニーとして、中央自動車道に寄り添うように建っていた。


「スイカズラだわ」

 レナは小さい花に目を細めた。

 かつて暮らしていた、スイカズラの絡まるコロニーを思い出す。クロウとレナにとって出会いと始まりの場所を。


『聖戦』の後、ゲヘナの門が閉じた後でも悪魔エイリアンはこの世界のあちこちに残り、ヒトが襲われ喰われることは珍しくなかった。


 レナも、当時家族と住んでいた住宅地が悪魔に襲われ、両親や弟を喰われ、逃げ惑う人々の流れに流され、命からがら廃墟へ逃げこんだ。

 そこはやはり大型ショッピングモールだった場所で、悪魔に襲撃された後、廃墟と化していたところへ都市部から人々が避難してきている場所だった。誰が種を撒いたのか、スイカズラで覆われるようになった廃墟は悪魔から身を守るのに適していた。


 しかし、そこも地獄だった。

 すでにコロニーとなりつつあったその場所は人も多く、弱肉強食の仕組みができつつあったのだ。

 集団に暴行されかけたところを助けてくれたのが、クロウだった。

 クロウもまた、悪魔に家族を喰われ、職も失い、生活する場所を求めて郊外に流れてきたのだった。


 それから二人で身を寄せ合うようにして生きてきた。


『ねえクロウ。ずっと一緒よ。あたしを置いていかないでね』

『当たり前だろう。おまえを置いていったりはしない。ずっと一緒だ』

 貧しくても笑って。手を取り合って。クロウとなら、どこまでも行ける。そう思って。そう信じて。そう願って。


 昔のことを思い出し、レナは自然と笑みをこぼした。



「ねえクロウ、スイカズラが――」

「早く店を探せ!」


 怒声にレナの肩がびくっと上がる。


「売人はこのフロアにいるはずなんだっ」


 不機嫌気な低い声が呟き、続いてクロウは水をがぶがぶ飲んだ。空になった2リットル容器がレナの足元に転がってくる。今日も、これで何本目の水だろうか。『悪魔の吐息』の副作用でひどく喉が渇くらしいのだが、手持ちの水はもう尽きかけている。

 水を調達しようにも、すでに現金も電子マネーも底を尽きていた。

 一刻も早くドラッグを売って、換金しなくては。


「……わかったわ」


 レナは固く頷き、じゃり、と薄暗いフロアに足を踏み入れる。


 このコロニーもかつてショッピングモールだったようだ。各フロアは広く、店の棚や壁などの残骸が多い。こういうコロニーは人も多く、かつ外側からやってきた者は例外なく洗礼を受けるのが常だ。


 その洗礼を警戒して、レナは銃を握りしめ辺りをうかがった。


「静かね」

 レナは首を傾げる。しばらくフロアを進んだが、人っ子一人いない。


――いや。


 人はいる。気配はする。物陰から息を殺してこちらを見ている。

 しかし、出てこない。

 普通なら、外から来た者は襲われ、弱ければそこで身ぐるみ剝がされる。金目の物は取られる。殺されたり犯されたりはしない。それはいわば、そのコロニーに侵入する者が受ける洗礼儀式だからだ。


(クロウを怖れて出てこないの……?)


 クロウの様子は、もはや誰が見ても明らかに異常だった。


 大きく見開いたままの目は血走り、噛みしめた唇からは血が出て、人相が変わっている。滝のような汗をかき、肩で息をして、銃やナイフを身体のあちこちに携帯しているのを隠そうとしない。


(クロウを怖れて……そうかもしれない)


 安堵あんどすると同時に、逃亡中に押し殺してきた不安が頭をもたげる。


 クロウは大丈夫だろうか。あのドラッグを使うのを止めれば、元に戻るのだろうか。もしこのままだったら――。


(このままだったら……?)


「おいっ、誰かいるんだろう! 出てこい! 知ってんだっ、ここは雑貨屋なんだろうっ」

 上ずった怒鳴り声に思考が中断された。

 クロウが壊れかけたカウンターに向かって怒鳴っている。レナも慌てて走っていった。


 そこは飲食店だったのか、食品サンプルが入ったショーケースがあった。ガラスの割れたそのケースの中にはクレープやアイスクリームやサイダー類のレプリカがほこりをかぶって並んでいる。


 そのショーケースとカウンターの間に人が一人通れるほどの隙間があった。

「出てきやがれっ」とクロウがその隙間に向かって叫んだとき、ひょっこりカウンターに人影が現れた。


「あいにく、今は仕入れがないんだ」


 男の声だ。若そうだ。カウンターの向こうにいる影は、頭から黒い布を被っているのと場の暗さで顔が見えない。


「買いに来たんじゃない。仕入れさせてやる」

「へえ? 何を?」

「良質な『喉薬』だ」

「『喉薬』ねえ。吸入型か?」

「ああ。即効性は保証する」

「今じゃ吸入型はありふれてるからなあ。どの程度のブツだ?」


 クロウは残忍そうに口の端を上げた。この売人、ナメやがって。少し痛め付けて、ブツの効果を思い知らせてやる。吠えづらかかせてついでに売値も吊り上げてやる。

 ポケットから吸入器を出したクロウの腕にレナがすがった。


「クロウもうやめて! 身体が壊れてしまうわ!」

「うるせえっ」

「きゃあっ」

 振り払ったその力は常人の力ではなく、レナは人形のように床へ吹き飛ばされた。


「……そんな怪力が出せるなら、おクスリ追加はしない方が身のためだと思うが?」

「なんだと?!」


 刹那、カウンター越しに男の手がクロウの手首を素早く握った。


「極度の震えはクスリの中毒だな。が、この骨の柔らかさはヒトのものじゃない」

「離しやがれっ」


 クロウは絶叫し身をよじる。

 以外にも力の強い男の手の中で、クロウの手首がぐるん、と粘土細工のように回った。手首が回るなんて有り得ない。


「あんた、たぶんもうヤバいよ」

「うるせぇええええええっ!」

 目を血走らせ、飛沫をまき散らした悪鬼のごとく、クロウは銃の引き金に手を掛けたが――


「ぐわっ?!」


 刹那、クロウの銃は撃ち弾かれ、宙を舞って床を滑る。

 同時に吸入器から噴霧された赤い霧をクロウが吸いこむのが見えた。


「くそっ、吸引しちまったか!」


 撃った男は舌打ちしてカウンターを飛び越える。

 男が頭に被っていた布を素早く羽織ったとき、すでに変化は始まっていた。


「ぐ、ぐぐわわわわ……」

 床に膝をついたクロウの背中が、液体が沸騰するようにボコボコと波打っている。


「クロウ! どうしたの?!」

「やめろ! 近付くな!」


 男がレナを制したとき、クロウの背中や尻の衣服が音を立てて裂け、異様な黒い物体がうねりながら飛び出した。


「羽と……尻尾」


 グロテスクな生き物のようにくねるそれを、レナは呆然と見た。

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