第15話 私……寝ちゃってた?
風に揺れる葉擦れの音も、フクロウの鳴き声も、ほんのわずかな物音にすらびくりと肩を震わせる。
敵はすべて倒したはずなのに、アリシアたちを包む空気は未だねっとりと重いままだ。その原因はワーウルフの今際の言葉にあることは明白だった。
「ノクス……いまの」
「お嬢様には関係のないことです。気にせずともよいかと」
「関係ないってことはないだろ。コイツ、しっかりアリシアを指差してただろうが」
そう口を挟んできたフレッドを一瞥したノクスが、面倒くさそうに舌打ちする。
「聞こえてんぞ。舌打ちするってことは、俺たちに聞かれたくないことなのかよ」
「新たな魔物が現れるとも限らない森の中で悠長に話すことでもないと言っているのです。今はこの森を出るほうが重要なのでは?」
「それはそうだが……」
「お嬢様も、それでいいですね?」
訊ねておきながら返答など最初から聞く気がないのか、ノクスは既に森の出口を目指して歩き始めてしまった。当然ノクスに抱えられたアリシアも帰路につくわけで、一人残されるわけにもいかないとフレッドも後に続けば、結果的に薔薇の花嫁の話題は一旦保留というかたちになった。
ティーヴの森を抜けて馬車に乗り込むと、途端に緊張の糸が切れてしまい、アリシアは急激な眠気に襲われた。ずっと気を張り詰めていたし、ワーウルフにも攫われて体も心も自分が思う以上に疲弊していたのだろう。馬車が動き出して数分もしないうちに、アリシアの意識は深い眠りの底へと沈んでいった。
***
「……シア」
真綿に包まれているようなやさしいぬくもりに、アリシアの意識までもがとろけていくようだった。頭のどこかで起きなくてはと思っているのに、体を包む熱があまりにも心地良くて、ふわふわ、ゆらゆら、穏やかな夢の空間をあてどなく漂っている。
アリシアと、そう名前を呼んでいるのは誰だろう。
知っている声のはずなのに、名を呼ばれるのはずいぶんと久しぶりだ。
けれど、嫌ではない。
鼓膜をあまやかに揺らす声音にはどこか艶めいた響きも孕んでいるようで、心地よさの向こうにほんの少しだけ落ち着きなくドキドキと胸が鳴った。
もっと呼んでほしい。
その声で、以前のように名前を呼んでほしい。
アリシアと、そう呼んでくれたなら……今よりもその先へ近付くことを許されるような気がから。
「……シア。……ロ……」
「うぅ、ん……。ノ、ク……ス?」
「ノクス、チガウ。メアリー。モウ、アサ。イイカゲン、オキロ」
体を揺り起こされ、微睡む視界にメアリーの姿がぼんやりと映る。窓から差し込む朝日を背に逆光となったメアリーの頭蓋骨はさすがに寝覚めの心臓には悪い。けれどもビクッと大きく震えたおかげで、頭に居座っていた眠気はいっぺんに吹き飛んだ。
「おはよう、メアリー」
「モーニン。カラダ、ドウ?」
訊ねられた意図を理解すると同時に、アリシアはガバッとベッドから飛び起きた。
記憶が一気に巻き戻る。フレッドを助けにいくために向かったティーヴの森。ワーウルフに襲われた時の恐怖と体の痛みまでもが鮮明によみがえるのに、ティーヴの森を出たあとの記憶がぶっつりと途切れている。
「私……寝ちゃってた?」
「グースカ」
服も体も汚れてぼろぼろだったはずなのに、今のアリシアは清潔なネグリジェに着替えている。更に言えば全身の傷も綺麗に手当がされていた。
アリシアは馬車に乗ってすぐに眠ってしまったのだから、当然着替えや怪我の処置についての記憶は一切ないのだが、ならばそれらは一体誰がやってくれたのだろう。
唯一の同性――といっていいのか微妙なところではあるが、メアリーが着替えや手当てをしてくれたと考えるのが妥当だが、それを改めて確かめる勇気はない。もし否定されてしまったら、残る選択肢はひとつしかないのだ。それならばいっそあやふやにしていた方がまだマシというものである。
そう思っていたのに、軽いノックのあとノクス本人が顔を出したので、アリシアは短い悲鳴を上げて咄嗟にシーツを頭まで被ってしまった。
「何ですか、人をお化けみたいに」
「そ、そういうつもりじゃないんだけど……何て言うか、今はちょっと見ないで欲しいというか」
「もうじゅうぶん見たので問題はないかと」
「えっ!?」
思わずシーツの隙間から顔をのぞかせると、そこにはいつもと変わらない涼やかな表情のノクスが立っている。「何を」、「じゅうぶんに」見たのかはわからないが、それを問い詰めることなどできるはずもなく、アリシアは唇を尖らせたままノクスから目を逸らした。
「体の調子はいかがですか? 問題がなければ、食堂へ。朝食を用意してあります」
体の調子と言われて、ネグリジェの下の肌がムズムズする。ノクスが退室したあとも、アリシアは自分の体に残る手当のあとを見ては羞恥に息をとめてしまった。
メアリーに手伝ってもらって身支度を整えたアリシアは、食堂でノクスが用意してくれた朝食を食べたあと、すぐにレオナルドの様子を窺いに厨房へとやってきた。
厨房ではメアリーとウィルが自分たちの朝食を作っているところだった。アリシアと同じ朝食のクロワッサンとベーコン、半熟のスクランブルエッグにサラダとスープ、デザートのフルーツ入りヨーグルトがテーブルに並んでいる。それを全部クロワッサンに挟めようとしていたので、せめてスープとデザートは分けて食べるようにやんわりと助言した。
「レオナルドはどこ?」
「ウラニワ」
「水に浸すよりは土に埋めたほうが回復が早いって王様が言ってたから、ノクスさんが埋めてたよ」
ウィルの言う王様とは猫の王ケット・シーのことだろう。そういえば今朝は姿が見えないが、報酬のマタタビは無事にもらえたのだろうか。
「そう。ちょっと様子を見てくるわ」
「ミズ、マイテキテ」
そう言ってメアリーがティーポットを渡してきた。中には水色の魔晶石が、水と一緒に入っている。
この魔晶石は確か回復の力を宿しているものだ。大きさは小粒というより、道具を作ったあとに出る屑石で商品としての価値はない。けれど力は微量に残されているので、水にしばらく浸せば簡易の回復水ができるのだ。
こういう屑石の使い道をメアリーたち魔物が知る由もない。ならばこの回腹水はノクスが準備したものだろう。そう思うとアリシアは何だか胸の奥がほわんとあたたかくなるのを感じた。
裏庭に出ると、濃厚な薔薇のにおいが鼻腔を刺激した。
一面に咲き誇る真紅の薔薇に紛れて、裏庭の入口に近い場所に見覚えのある三枚の葉っぱが生えているのが見える。
「レオナルド」
そっと声をかけてみたが、眠っているのだろうか、レオナルドは顔を出すことはなかった。このまま本当に雑草になるのかと心配にもなったが、とりあえず今は回復を信じて水をかけてやることにした。
「早く元気になってね」
回復水を浴びて、彼の自称髪の毛がピンッと伸びる。相変わらず土に埋もれたままだったが、葉っぱが無意識にでも動いているのでひとまず安心することはできた。
回復水と、裏庭の土壌に混ぜている薔薇を枯らせない魔晶石の力が、うまくレオナルドに作用してくれることを祈って、アリシアはポットの水をゆっくりと労るようにかけてやった。
少し強めの風が吹いて、裏庭の薔薇が一斉に揺れる。はらりと舞い散る赤い花びらを見た瞬間、アリシアの記憶のなかでワーウルフの不気味な笑みがよみがえった。
爛々と輝く赤い目をアリシアへ向けて、死に際に呟いたのは――。
「……薔薇の花嫁」
昨夜聞こうと思っていたのに、疲労に負けて眠ってしまった挙げ句、今の今まで忘れてしまっていた。ノクスも特に言及することがなかったから、このままうやむやにする気なのだろう。
そうはさせないと屋敷へ踵を返すと、アリシアの思いと同調でもするかのように来訪者を告げるベルの音がして、フレッドの声が響き渡った。
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