第24話 自分自身を愛せるようになりなさい

 ノクスが倒れてから三日が過ぎた。

 医者は過労とだけ診断し、目覚めたら飲ませるようにといくつかの薬を置いていくだけだった。フレッドも毎日様子を見に訪れたが、未だにノクスは目を覚まさない。

 不安ばかりが膨れ上がって、アリシアはノクスのそばから離れることができなかった。セドリックの仕事部屋にあった回復系の魔法具を手当たり次第かき集め、順番にひとつずつ試していく。効果がなくても、何度でもくり返した。


「お嬢。少し休まれては? ノクス殿のことは、私とウィルにお任せください」

「レオナルド」

「何かあれば、すぐにお嬢を呼びますゆえ」


 レオナルドたちも騒動の夜に気を失ってしまったことを悔いていて、倒れたノクスをひどく心配していた。


「でも……」

「ノクスさんが起きた時、今度はお姉ちゃんが倒れちゃったら……きっと心配すると思う、から」

「ウィルの言うとおりですぞ。大丈夫。ノクス殿がお嬢を置いていくことなど絶対にありえません」

「……そうね。少し、仮眠してくるわ」


 昨夜もろくに眠っていない。窓から差し込む昼の日差しがまぶしくて、立ち上がったアリシアは少しだけふらついてしまった。心配して駆け寄ったレオナルドたちに大丈夫だと笑顔を向けて部屋を出ると、廊下の向こうからフレッドが歩いてくるところだった。


「アリシア。ノクスはまだ目覚めないのか?」

「うん。今はレオナルドたちが見ててくれてるの」

「お前も顔色が悪いぞ。少し寝てろ。起きるまで俺もここにいてやるから」

「ごめんね、フレッド。本当はお父様のこともちゃんと話し合いたいんだけど……今は何も考えられなくて」


 フレッドが夢魔から得た情報で、アリシアはセドリックがヴァンパイアの城にいるかもしれないことを知った。もたらされた情報が本当かどうか、本当ならこれからどうするかなどを話し合いたいところなのだが、今のアリシアはノクスのことで頭がいっぱいで他のことを考える余裕がない。フレッドもそのことを理解して、今は静かにアリシアを見守ってくれていた。


「気にすんな。俺もあいつが起きたら、聞きたいことが山ほどあるんだ。さっさと起きてもらわねぇとな」

「そう、ね」


 昏々と眠り続けるノクスの、まるで人形のように生気のない顔を思い出して、アリシアは不吉な予感を振り払うように頭を横に振った。



 ***



「ノクス」


 名前を呼ばれて振り返ると、自分を救ってくれた大きな手が頭をやさしく撫でてくれた。彼の向こうに、太陽みたいにまぶしい笑顔を振りまく少女がいる。ふわりと揺れる金の髪はきらきら綺麗に輝いて、まるで光の粉を振りまく妖精のようだ。

 青い瞳は穢れがなく、どこまでも澄み切っている。その瞳に見つめられると過去を暴かれるようで、実は初めは少し苦手だった。


「ノクス、おいで。今日からここが君の家だよ」


 見上げたロウンズ邸は光の下にあって、ノクスがこれまで生きてきた世界とはまるで違う。

 清らかな空気。やさしいぬくもり。あたたかく、穏やかな時間。

 穢れた存在だと蔑まれ、虐げられてきたノクスにとって、セドリックがもたらした新しい世界は驚きの連続だった。


 誰もノクスをなぶらない。

 鎖で繋がれることも、鞭でぶたれることも、無理を強いられることもない。

 与えられた部屋は明るく清潔で、食事は温かく、体を休めるベッドはやわらかくて――まるで記憶にない母の腕に包まれているかのようだった。


 セドリックはノクスに生きる場所を与えてくれた。

 そしてアリシアは――生きる目的をくれた。


「ノクスは小さいから、転ばないように私が手を繋いでてあげるわね」


 屋敷を案内すると言ったアリシアがノクスの手を握った時の、あのやさしい熱を今でも忘れることはない。アリシアに手を引かれ歩き出したその一歩が、ノクスのはじまりだ。


 ノクスはここで生きる。

 暗闇のなか、一人きりで怯え、声を殺して泣いていた世界を捨てて、光ある世界で優しい人たちと共に生きていくことを誓った。

 彼らのために、できることは何でもやろう。彼らに降りかかる災難はすべてこの身で引き受けよう。ノクスを救ってくれた彼らが、常に笑顔であるように。しあわせであるように。ノクスに光ある道を示してくれた彼らのためになら、この命も体もすべてを捧げることができる。


 ノクスを永遠に捕らえ続けていた明けない夜は、ようやく終わりを迎えた。



 ――はずだった。




「ノクス! やめなさいっ」


 怪我をしたアリシアを前に自制が効かず、襲いかかった夜があった。幸いにもそばにセドリックがいたことで大事にはいたらなかったが、その出来事はノクスの心に深い後悔の楔を沈ませた。

 そもそも純血ではないノクスは、吸血行為をせずとも生きていける。それなのに我を忘れるほどに魔物と化したノクスを見て、セドリックはアリシアの血に原因があるのではないかと疑問を持った。


 アリシアが薔薇の花嫁であることがわかったのはこの頃だった。そして同時にノクスが執事としての仮面を被ったのも、この事件を発端としている。


「薔薇を?」

「もう二度とこんなことをしないように……薔薇を植えてください」


 セドリックは最後まで血の薔薇を作ることを渋った。薔薇を作れば、ノクスが自分たちとは違う存在だと認めてしまうことになるから。

 どこまでも優しいひとだ。けれどや優しいひとだからこそ、ノクスの願いを聞き入れてくれた。


 それからしばらく経って、ロウンズ邸の裏庭には枯れない真紅の薔薇が咲き乱れるようになった。


「この裏庭があることでノクスが安心できるのならそれでいい。けれど忘れてはいけないよ。何があろうと君はもう私たちの家族だ。つらいことを一人で抱え込んではいけない。私も、そしてアリシアも、君を大事に思っている。だから君も……いつか自分自身を愛せるようになりなさい。私たちは決して君を手放すことはしないから」


 安心していいと、そう諭すように抱きしめられた。

 襲われた記憶のないアリシアも、セドリックの真似をしてノクスにしがみ付いてくる。その儚い力が今のノクスにはひどく恐ろしい。また傷つけてしまうかもしれないと、我を忘れて襲いかかってしまうかもしれないと――自分の中にある穢れた血を、もう覚えていないくらい何度も呪った。


 そんな血も含めて愛しなさいと諭したセドリックの言葉を、ノクスは未だに叶えることができていない。


 穢れた血だ。

 ノクスを闇に縛り付ける、呪われた血でしかない。


 どんなに望んでも、愛したひとたちと同じになれないのだから。そんな血を、どうやって愛せというのだろう。

 人の住むこちら側では、ノクスの体に流れる血は異端で狩られる側だ。誰も彼もが恐れる恐怖の象徴。きっとアリシアだって、本当のノクスを受け入れてはくれないだろう。


 アリシア。

 ノクスの光。


 彼女のまぶしい笑顔に導かれ、光ある世界を進んできたつもりだった。

 けれどアリシアが歳を重ね美しくなればなるほど、ノクスの中に仄暗い闇が生まれていく。


 アリシアのそばに立つのは、自分ではないのだと。自分でいてはいけないのだと。

 そう言い聞かせながら、そばに立ちうる人間を思えば嫉妬に身を焦がし、自分の中に流れる血を呪う。


 ――自分自身を愛せるようになりなさい。


 いつか、本当に愛せるようになるのだろうか。

 何の負い目もなく、アリシアの隣に立てる日が来るのだろうか。


 ヴァンパイアの血を引く半端者。

 ダンピールであるこの体が、生きていていい場所はどこにあるのだろう。



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