第25話 薔薇を摘んできてくれませんか

 懐かしくせつない子供時代の夢から目を覚ますと、オレンジ色のやわらかな明かりに照らされた室内が目に入った。

 ノクスの部屋だ。サイドテーブルに置かれたランプの炎が、チリチリとオイルを焼く音が静かな部屋にひっそりと沈んでいく。


 どれくらい眠っていたのだろう。体は重く、怠い。人の身には余る、強大な魔力をむりやり引き出したのだ。ヴァンパイアとしての半分を棄て去って生きてきたノクスにとって、急激な力の負荷は体に大きな負担となった。耐えきれず昏睡したのも当然と言えば当然だ。幸いにもアリシアに触れる前に倒れたようで、そこだけは感謝すべきかと思うのに、ノクスの胸の奥は言葉にできない靄が薄く澱んで晴れることはなかった。


 目元を手のひらで覆うと、眼鏡が外されていることに気付く。

 不本意に発動した邪眼の力を弱められるよう、眼鏡のレンズには特別な魔晶石が使われている。ノクスがロウンズ邸に引き取られてからまもなく、セドリックが作ってくれたものだ。力の安定しない子供時代ならともかく、自分の意思で制御できる今ではもう必要のないもの。それでもノクスは、眼鏡を外すことができなかった。

 薄いレンズ一枚。けれどそれは執事の仮面と同じく、ノクスが人間であるために必要な道具のひとつになってしまった。


 そうやって自身を守り、枷を増やすことで、ノクスは人間として在ろうとした。


「ノクス……?」


 いつの間にか部屋の扉が開いていて、廊下の明かりを逆光にしてアリシアが立っていた。扉の開いた気配にも気付かないほど弱っているのだろうかと自嘲して、ノクスはゆっくりとベッドから体を起こした。


「申し訳ありません。ご心配をおかけしました」

「よかった……っ。体は? 痛いところはない? 起きなくていいから……っ、横になってて!」


 矢継ぎ早にそう言ってベッドまで駆け寄ってきたアリシアが、ノクスをベッドに押し戻そうと腕をぎゅっと掴んできた。その手がかすかに震えている。久しぶりに見たアリシアは少しやつれていて、十分に休めていないことが手に取るようにわかった。青い瞳はうっすらと潤んでいて、ノクスの無事に心から安堵しているようだった。

 その清らかな涙は、ノクスのために流されたものだ。そう思えば、こんな状況下でも背徳的なよろこびを感じてしまい、ノクスの心はまた少しだけ闇にとぷりと沈んでしまった。


「本当によかった。このまま目覚めないんじゃないかと……」

「夢魔の放つ毒香に当てられたようです」


 嘘をつくのには慣れている。白々しくもそう告げると、案の定アリシアは素直にノクスの言葉を信じてくれた。


「魅了の香のこと? フレッドもそんなこと言ってたわ。私もたぶん嗅いだと思うんだけど、よく覚えていないの。ノクスが倒れるくらいだから、相当強い効果のある香りだったのね」

「……そうですね」

「今はもう平気? フレッドは精神に作用するとか何とか言ってたけど……何かしてほしいこととかない? お水飲む? 回復水も用意してるし、お腹が空いてるなら夕飯のスープも残ってるわ。メアリーと一緒に作ったから、味はたぶん大丈夫」


 ノクスが目覚めて、アリシアも気が緩んでいるのだろう。途切れることなく喋り続けるアリシアが愛おしくて、ノクスは無意識に声を漏らして儚く笑った。


「少し落ち着いてください。私なら、もう大丈夫ですよ」

「でも……まだ顔色がよくないわ」

「目覚めたばかりですから仕方ありません」

「ねえ、本当に大丈夫? 何か欲しいものはない?」


 欲しいものと問われて、一瞬だけアリシアを見つめてしまった。けれどすぐに瞼を閉じて、自戒するように息を吐く。


「――薔薇を」

「え?」

「裏庭の薔薇を摘んできてくれませんか」


 アリシアが一瞬、不思議そうに目を瞬いた。けれどノクスからお願いされたことがうれしかったのか、二つ返事で部屋を飛び出していく。

 アリシアが去っただけで、部屋の中の闇が濃さを増した。ランプの炎は変わらず燃えているし、ノクスが目覚めた時と部屋の暗さは何も変わらない。なのに一人きりのこの部屋はまるですべての光が失われたかのように、一切の希望さえ掴めない深淵の漆黒に染め上げられていった。



 ***



「ノクス殿」


 しばらくして、ノックと共に部屋に入ってきたのはレオナルドたちだった。

 薔薇を生けた花瓶を持つメアリーの肩にはレオナルドが座っていて、二人の足元を照らすウィルが先導してノクスのそばまでやってくる。サイドテーブルにメアリーが花瓶を置くと、彼女の肩からレオナルドがベッドの上にぴょんっと飛び移ってきた。


「ノクス殿、大丈夫ですか?」

「あなたたちも無事で何よりです」


 レオナルドたちも魅了の香で倒れていた。上位の魔物の力は彼らには強すぎたようだが、それでも今はいつも通りに動けているようでホッとする。変わらない彼らの姿を見ていると、鬱々とした気持ちが自然と和らいでいくのを感じた。


「お嬢にはスープの火加減を見てもらうよう、お願いしました。代わりに薔薇は私たちが」

「ありがとうございます」

「ですので……メアリー」

「ハーイ!」


 唐突なかけ声がしたかと思うと、メアリーが花瓶から一本の薔薇を抜いてレオナルドに手渡した。そして今度はその薔薇を、レオナルドがノクスへと差し出してくる。


「何の真似ですか?」

「魅了の香に倒れたあと、私たちはフレッド殿が到着する前に目を覚ましたのです。魔物同士、効果が薄れるのも早かったようで」


 レオナルドが言わんとすることを悟り、ノクスの体がかすかに硬直した。瞠目どうもくしたネイビーブルーは動揺を隠しきれずに、ただレオナルドをじっと凝視するしかできない。

 レオナルドは薔薇を差し出したまま、ノクスをまっすぐに見上げていた。


「ノクス殿。すみません。私たちはノクス殿が必死に守ってきた秘密を、覗き見る形で知ってしまいました」


 ノクスが喉を鳴らし、何か声を発する前に、レオナルドがくわっと目を見開いて叫ぶように言葉を続けた。


「ですが! ですが、ノクス殿! あなたが何者であろうと、私たちの気持ちは変わりません! ノクス殿はノクス殿です。多少言葉がキツく、視線も刺々しいですが、私たちを受け入れてくださったノクス殿が本当はお優しい殿方だと言うことを、私たちは身をもって知っています」

「シッテル、シッテル!」

「最初は怖いって言って……ごめんなさい。今はそんなに、怖く、ないから……ね」

「そうです、ノクス殿。私たちはっ! ノクス殿がっ! 大好きですっ!」


 思いの丈をぶちまけて薔薇を捧げる彼らの姿は、まるで愛の告白合戦みたいな珍場面だ。けれどその一生懸命な姿と少しずれた励まし方に、ノクスの体から怯えた緊張が溶けるようにほどけていく。


 ふっと、口元が緩んだ。

 ずいぶんと久しぶりに、砕けた笑い声をこぼしたかもしれない。


 なぜか恥じらう乙女のように頬を染めたレオナルドの手から薔薇を受け取り、ノクスは彼らの見ている前で――そっと赤い花びらをんだ。


 今まで誰にも見せることのなかった、ヴァンパイアとしての姿をさらけ出す。

 彼らになら見られてもいいと、そう思う自分にほんの少し驚きを隠しきれないまま。けれども心はさっきよりもずいぶんと穏やかで。


 薔薇をむ。

 そんな自分の姿をノクスは初めて許せたような気がした。




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