第26話 さようなら

 一度は目覚めたノクスも完全復帰とは言いがたく、ベッドから起き上がれない日々は続いた。その間アリシアは甲斐甲斐しく世話を焼き、今では一人でスープくらいは作れるようになっていた。とはいえアレンジがまだ苦手なので、今日の夕飯も簡単な野菜スープだ。


「そろそろ違う味にした方がいいかしら」


 スープの鍋をかき混ぜるアリシアの肩には、レオナルドが座っていた。火加減はウィルが調節しているので、熱すぎずちょうどいい温度が保たれている。


「お嬢の作ったものなら、それだけでノクス殿は喜ぶかと。もはや最高級の回復薬ポーションにも匹敵するくらいですぞ! 私をひとかけら入れると、その効果も更に倍増するかもしれませんな!」

「あら、そう? それじゃあ、少しいいかしら?」


 アリシアに掴まれてカッティングボードの上に乗せられたレオナルドが、見てわかるほどに青ざめていく。くねくねと逃げるように蠢く姿は、以前市場で見た海産物のようだ。


「あ……いや、ちょっと……本気ですか? わかっていると思いますが、じょ、冗談ですぞ?」

「……ふふ。そんなのわかってるわよ。ノクスならこうするかなって思って、ちょっといたずらしちゃった。ごめんね」

「おおおお嬢~! お嬢までノクス殿の辛辣さに感化されないでください。お嬢とノクス殿は飴と鞭くらいでちょうどいいんですから」

「……あ。レオナルドさん、いま、いいこと言った。ノクスさん、鞭使いだから……ナイス、だね」


 ノクスが倒れてから気分はずっと落ち込んでたが、今はこうしてレオナルドたちと他愛ない会話で笑い合えている。

 穏やかな日常だ。この緩やかな時間を大事な人たちと当たり前に過ごせることに、アリシアは心の底から感謝した。


「モドッタ」


 ノクスの部屋に飾った薔薇の水替えが終わったのか、メアリーが厨房に戻ってきた。ノクスが目覚めた夜から、部屋に薔薇を飾る役目はいつの間にかメアリーの担当になっている。

 ノクスとの時間が取れるので薔薇の水替えもアリシアがやりたかったのだが、メアリーは頑なに自分がやりたいと言って聞かなかった。最終的にはレオナルドたちにも言いくるめられ、結局アリシアが折れる形となったのだった。


「フレッド、キテル」

「こんな時間に? ノクスの部屋にいるの?」

「ソウ。ナンカ、ムズカシイカオ、シテタ」


 夢魔から得た情報は既にノクスに伝えてある。ヴァンパイアの城にいるかもしれないセドリックのことについて、今後アリシアたちがどう動いていくのか。その辺りの話し合いはまだできていないが、それはノクスの体調が完全に戻ってからにして欲しいと思った。


「私、ちょっと行ってくるわ。ウィル、火加減お願いね」


 スープはウィルとメアリーに任せれば大丈夫だろう。カッティングボードの上でレオナルドが「お嬢」と呼んだ気がするが、アリシアの意識はもうノクスの部屋へと向いていた。

 廊下の窓から外を見れば、日の沈んだ空には深い夕闇が迫りつつあった。



 ***



 フレッドが部屋に入った時、ノクスはいつも通り執事服に身を包んで窓際に佇んでいた。

 顔色はまだ青白かったが、眼鏡の奥のネイビーブルーはいつもの鋭さを取り戻している。いや、そう取り繕っているようにフレッドは感じた。


「……体は?」

「おかげさまで。あなたにも迷惑をかけました」

「そうか。アリシアも心配してたからな」


 会話が途切れる。居心地の悪い沈黙に、フレッドは乱雑に髪を掻き上げた。

 互いが相手の出方を窺っている。そんな気配がありありと伝わった。フレッドが何をしにここへ来たのかも、きっとノクスは既に理解しているはずだ。それなのにいつもと変わらず飄々と――あるいは諦観のまなざしで、淡い笑みさえ浮かべてみせる。そんなノクスの姿に、わけもなくイラついた。


「らしくありませんね。敵を前にためらうなど」

「……っ、お前は! ……お前は、何者なんだ。ノクス」

「あなたにはどう見えましたか?」


 言葉遊びをしているわけではない。ノクスを見れば、その表情がいつもと違うことくらいフレッドにだってわかった。

 どちらとも、明確な答えを口にできない。口にしたくない。その葛藤がノクスにもあるのだと信じられるから、答えを突き付けて彼を更に追い詰めるようなことはしたくなかった。


「……親父さんらしき人間が、ヴァンパイアの城に捕らわれている」


 あえて話題を逸らしてみれば、ノクスも特に戸惑う様子なく自然と会話を続けてきた。


「えぇ。お嬢様から聞きました。捕らわれているのは、セドリック様で間違いないでしょう」

「なぜそう言い切れる」

「支配の指輪。最後の材料は、おそらくヴァンパイアの血です。異界の王たるヴァンパイアの血を指輪に加えることで、魔物すべてを支配する指輪が完成する。あなたと一緒に出かけた際、ちょうど幸か不幸か目の前に異界への扉が開いたのでしょう。セドリック様はその好機を逃すまいと、自ら異界へ飛び込んだ――と、そう推測しました」

「確かに、親父さんならそれくらいの無茶はしそうだが……」

「優しそうに見えて、やることは大胆な方でしたからね」


 ノクスと普通に話せていることに、フレッドは心のどこかでホッとしていた。喉の奥に引っかかった小骨みたいなもやもやは未だ胸の中に燻ってはいるものの、ノクスの真相を知るのはセドリックが戻ってからでも遅くはない。

 少なくともノクスはセドリックを救おうとしているし、アリシアのことだって常に過剰なくらいに守ろうとしていた。


 敵ではないのだ。だからフレッドはあえて何も聞かず、腰のホルダーから銃を抜くこともしない。ノクスが何者なのか、明らかにしなければ知らないことと同じだ。拙いながらも譲歩できるギリギリのところで、そう自分に言い聞かせたのに。


 それなのに、その一線を越えたのはノクスのほうだった。


「ヴァンパイアの血など、この体にいくらでも流れているのに……私にそうしろと言わないのは、本当にセドリック様らしいですね」

「……っ、ノクス! お前、何でっ……何で言うんだよ!」

「潮時なんですよ、私が。これ以上ここにいては、きっといつか……お嬢様をむりやり傷つけてしまうでしょう」

「だからって、今じゃないだろ! 親父さんが戻れば、きっと何とかしてくれるはずだ。親父さんはお前のこと、最初から知っていたんだろう!?」

「そうですね。異界から逃げ出した私がダンピールだと知っていてなお、セドリック様はこの屋敷に保護してくださいました。恩義は一生かかっても返せるものではありません」


 眼鏡を外したノクスが、深く息を吐いて瞼を閉じる。

 再び、ゆっくりと開かれた瞼の奥。フレッドをまっすぐに見つめ返したノクスの瞳は、鮮血を思わせる深紅に塗り替えられていた。


「だからこそ、私はもうここにはいられない」


 深紅の邪眼に見つめられ、フレッドの体が硬直する。命や尊厳を奪うようなものではなく、ただほんのわずかな間だけ体の自由を奪うものだ。そのやわい拘束にノクスが何をしようとしているのかを知り、フレッドが焦ったように目を見開いた。


「ノクスっ。術を解け!」

「お嬢様をお願いします。あなたに頼むのはこの上なく癪ですが、あなた以外に頼める人もいませんから」

「あいつが惚れてるのはお前だ!」

「私では、しあわせにできません」

「ノクス!」


 フレッドから一瞬目を逸らしたノクスが、扉のほうに向かって軽く手を振りあげる。ひとりでに開いた扉の向こう――そこにいたのは、驚愕の表情を浮かべたアリシアだった。


「ノ……クス。一体なんの話を……しているの」

「聞こえた通りですよ。私はヴァンパイアと人間の間に生まれた半端者、ダンピールです。小さい頃に異界から逃げ出した私を、セドリック様に救っていただきました。セドリック様がヴァンパイアの城にいるのなら、私が役に立つかもしれません」


 動けないフレッドを通り過ぎて、ノクスがアリシアへと近付く。その瞳が赤いことに驚いた瞬間、アリシアは体の自由が利かないことを知った。

 呼吸はできる。瞬きも、声も出せる。なのに、今にも泣きそうな顔をしているノクスに手を伸ばすことができない。

 真正面に立っているのに。手が動けば、すぐにでも捕まえられる距離にいるのに。


「ノクス……」

「お嬢様」


 いつものようにささやいて。

 アリシアの髪を、一房そっと手に取った。


「いままでありがとうございました」


 肌に、くちびるに触れられない代わりに、ノクスは手に取ったアリシアの髪にそっとくちづけを落として――笑った。


 くるりとノクスが踵を返すと、まるで夜へ誘うかのようにひとりでに窓が開く。少し強い風が吹き込んで、薄いカーテンが大きく翻った。

 開け放たれた窓の向こう。夜闇にひっそりと浮かぶのは、あまりにも細く儚い三日月。少しの衝撃でぽっきりと折れてしまいそうな三日月は、まるで今のノクスの後ろ姿のようだ。


「ノクス……待って。どこへ行くの」


 止めなくては。

 あんなにかなしい顔をしたノクスを、一人で行かせてはいけない。

 激しく焦燥するのに、アリシアの足はそこから一歩も前に動けない。


「ノクス……っ。いや……いやよ! 行かないでっ」


 必死に叫ぶと、風に煽られたカーテンの向こうでノクスがゆっくりと振り返った。

 そして――。


「さようなら」


 最後にそう告げると、ノクスは窓から外へ身を投げ出して、そのまま夜の向こうへ消えていってしまった。


「ノクス!」


 アリシアの悲痛な叫びに呼応するかのように、白いカーテンが翻る。無遠慮に部屋を掻き乱す夜風に揺れて、花瓶の薔薇が赤い花びらを涙のように散らした。




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