第4章 ダンピールの花嫁

第27話 あなたをあきらめない

 ノクスがロウンズ邸から去って数日が経った。

 レオナルドたちが居着くようになってずいぶんと明るくなった屋敷も、今では廃墟と化したようにしんと静まり返っている。外は太陽の光が燦々と降り注いでいるのに、屋敷の中は暗く湿った闇が沈殿しているようだ。

 ノクスがいないだけで、屋敷の時間が止まってしまった。そう感じてしまうほどに、毎日の時間がひどくゆっくりと過ぎていく。夜になって眠ってしまえれば何も考えなくてすむのに、時計の針は昼の時間もさしていない。


 一日が、長い。

 そのぶんノクスのいない現実を、嫌というほど突き付けられた。



 ***



 ノクスの部屋は、あの日のままだ。とはいっても元々が綺麗に整頓されていて、ベッドのシーツにほんの少し残った皺がノクスの痕跡をかろうじて繋ぎ止めている。


 目を閉じれば、あの日のことが鮮明にアリシアの脳裏によみがえった。

 ノクスが語ったこと。彼の赤い瞳。翻るカーテンの音や、肌に突き刺す夜風の冷たさまで、今しがた経験したかのようにアリシアの胸を深く鋭く抉ってくる。


 ヴァンパイアと人間のあいだに生まれた者、ダンピール。

 人間を蔑むヴァンパイアの中にも、人を愛する者がいたのだろうか。それともいたずらに命を与えられてしまったのか。

 どちらにしろ、ヴァンパイアの中ではノクスの存在は異端だっただろう。きっとアリシアが想像できないくらいの苦痛を与えられていたに違いない。

 ノクスがこの屋敷に来た時、痩せ細った彼の体にはたくさんの傷跡が残されていた。痩せた体も、むごい傷跡も、他人を怖がるうつろな瞳も、きっと……そういうことだったのだ。


 子供の頃のノクスを思い出せば、アリシアの眼裏まなうらに涙が滲む。

 どんなにつらかっただろう。

 どんなに怖かっただろう。

 この屋敷に来たノクスにアリシアがしてやれたことは、もっとたくさんあったかもしれない。頼ってばかりで、守られてばかりで……アリシアはノクスに甘えることしかしてこなかった。


 だからアリシアの前から去ってしまったのだろうか。忠告も聞かずに魔物退治の真似をして、危険な魔物を呼び寄せて、そのたびに守られて……。もう本当に愛想を尽かされてしまったのかもしれない。

 そんなふうに、思考がどんどんと悪い方へ傾いていく。


「……ノクス」


 声に出して名前を呼ぶと、胸の奥がつんっと軋んだ。


 戻ってきて。

 どこにもいかないで。

 ノクスの帰る場所はここであってほしい。ここにいてほしい。


 今まで守られていたぶん、今度はアリシアがノクスを守る。守りたい。戦う力なんて何も持ってはいないけれど、ノクスがもうあんなふうに悲しい顔をしないですむように、彼の心を少しでも癒やせることができるのなら……自分にできることはなんでもやろう。


 そっと、ノクスのベッドに横たわる。

 沈んだ体を抱きしめるように、シーツに残るノクスの香りがアリシアを静かに包んだ。



 ***



「お嬢」


 耳元でささやかれた美声にアリシアはゆっくりと目を覚ました。ノクスのベッドに転がったまま、いつの間にかうたた寝していたようだ。

 顔のすぐ前にはレオナルドがいる。枕元に転がっているのは小さな青い石かと思ったが、どうやらそれは元気のないウィルのようだ。ベッドのそばにはメアリーも立っていて、心配そうにアリシアを覗き込んでいた。


「私……寝てた?」

「少しだけ。もうすぐお昼ですぞ」


 ノクスの部屋に来たのは昼前だったから、一時間くらいは眠っていたのだろうか。それでも一日はまだ半分も残っている。


「そんなに動いてないからお腹も空いていないわ」

「ダメです。食べておかないといざという時に体が動きません」

「……ノクスみたいなこと、言うのね」

「お嬢……」


 体を起こしても、立ち上がる元気はなかった。ベッドに座ったまましばらくぼうっとしていると、レオナルドがアリシアの膝の上によじ登ってきた。その体を両手で持ち上げて、アリシアはレオナルドの小さな体を胸にきゅっと抱きしめる。


「ねぇ……。ノクスはどうして行っちゃったの? 私のこと、嫌いになった? ……もう……戻ってこない、の……?」


 ぽたりと、レオナルドの葉っぱに涙の粒がこぼれ落ちた。こんなところで泣かれても困るのはレオナルドたちなのに、一度堰を切った涙はもう止まることをしらずに後から後から溢れてくる。

 そばでウィルも一緒に泣いていた。

 メアリーは歯をカタカタ鳴らせて小刻みに震えていた。


「お嬢。……すみません」


 腕に抱きしめたレオナルドが、覚悟を決めた声で呟く。もぞもぞと動く気配に腕の力を緩めれば、アリシアの手の中からレオナルドが抜け出した。

 レオナルドまで離れてしまうのか。そう不安になったアリシアの両頬に、突然ぺちん……と、小さな衝撃が走った。


 涙に濡れた青い瞳が、驚きに見開かれる。

 レオナルドは逃げたのではない。彼はまだアリシアの手の上に、ちゃんといた。短い両手を必死に伸ばして、涙でぐしょぐしょになったアリシアの頬を両側から包むように軽く叩いてきたのだ。


「お嬢、しっかりなさい! ノクス殿と一番長く一緒にいたあなたなら、わかるはずです!」

「……レオ」

「ノクス殿は常にお嬢のことを一番に考えていたはずです。ならば今回姿を消した理由も、きっとお嬢のためを思ってのこと。お嬢を嫌うなどありえません!」

「でも……でも、私は……そばにいてほしかったわ」

「ノクス殿がダンピールでも、ですか?」


 アリシアの自由を奪った、あの赤い瞳を思い出す。血のように赤い瞳に驚きはしたけれど、あの時アリシアはノクスのことを怖いとは思わなかった。


「そう……よ。ノクスがダンピールとか、そんなの関係ない。一人で悩まないで、私にだって相談してほしかった。だって……だって、ノクスは家族で……私は……ノクスのことが……だいすき、なんだもの」


 正直ノクスがダンピールであることよりも、アリシアの前から去ってしまった事実のほうがつらかった。

 アリシアにとって大事なのはノクス自身だ。それを伝える時間までも、あの夜ノクスはアリシアの体の自由と一緒に奪ってしまった。


「私たちも、ノクス殿が大好きです」

「レオナルド……」

「そう本人にも伝えましたが、どうやらまだまだ生ぬるかったようですな」


 アリシアの手の上で、レオナルドは腰に手を当ててふんぞり返っている。めずらしく険しい顔をしていて、何だか少し怒っているようにも見えた。


「こうなれば何が何でもノクス殿を連れ戻して、私たちの愛をその体にとくと刻み込んでやるしかありませんな!」

「シバリツケル?」

「火傷もあり、かも……」


 いつもは弱気なウィルの口からも不穏な単語が飛び出して、アリシアは目を丸くしてしまった。やり場のない怒りや後悔を、みんなその胸に抱えている。アリシアと同じだ。


「お嬢。お嬢はノクス殿に言いたいことはありますか?」

「……もちろん、あるわ。たくさんある」


 アリシアの返答に、レオナルドがにやりと笑う。


「ならばやるべきことはただひとつ! ノクス殿を探して、屋敷へ引きずり戻してやりましょう!」

「でもどうやって?」

「お忘れですか? お嬢」


 ひどく魔物らしい笑みを浮かべて、レオナルドがメアリーから何かを受け取った。


「マタタビに屈服した猫の王。ケット・シーの野良猫ネットワークの力を借りるのです!」


 自信満々にマタタビの枝を掲げるレオナルドに合わせて、窓の外で「にゃぁん」と猫の鳴き声がした。

 アリシアが落ち込んで泣いている間、レオナルドたちはノクス捜索に向けて既に動き出していたのだ。こんなにも小さく、魔力も少ない下位の魔物なのに、塞ぎ込んでいたアリシアよりも何倍も強くて頼もしい。


 レオナルドたちを前にすると、アリシアは泣いてばかりの自分がひどく恥ずかしく思えてきた。そんなアリシアを彼らは見限ることなく、逆に手を引いて導こうとさえしてくれる。


 愛おしい。

 なんて愛おしい仲間だ。

 アリシアを信じて手を差し伸べてくれた彼らを、もうこれ以上失望させたくない。


 頬に残る涙を手の甲で乱暴に拭い去り、アリシアはノクスの匂いが残るベッドから立ち上がった。


 残り香だけで満足なんてできるわけがない。

 ノクスに触れたい。

 声を聞きたい。

 抱きしめて、その熱を全身に感じたい。

 ノクスのすべてを、この手に取り戻したい。


「みんな、ありがとう」


 レオナルド、メアリー、ウィル。三人を順番に見つめて、アリシアは胸の奥に溜まっていたおりを吐き捨てるように深く息を吐いた。


「ノクスを連れ戻しましょう!」


 アリシアの手に、しっとりした根っこと硬い骨の指と熱を感じない青い炎が重なった。みんなが揃って見つめ合い、頷き合う。


 窓の外は変わらず太陽の光が燦々と降り注いでいる。まるで進むべき道に光しかないように、迷いなく、強く、アリシアを励ましてくれているかのようだ。


「ノクス。私は絶対に、あなたをあきらめない」


 そう強く誓いを胸にして、アリシアは唇をキュッと噛み締めた。

 もう泣かない。もう迷わない。ノクスを連れ戻すまで、悲しみの涙はこぼさない。


 ノクスが出て行った窓を開け放ち、屋敷に溜まっていた暗い空気を入れ換える。見上げる青空はどこまでも爽やかで――アリシアは久しぶりに笑った。





 

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