第23話 ノクスがいいわ

 ベッドの上でアリシアが気怠げに身じろぎした。その瞼はまだ閉じられたままで、幸いにもノクスの真の姿を見られることは免れた。

 ホッと短く息を吐いて安心する。着衣の乱れもなく、白い頬には涙のあともない。無事であることに心から安堵して、抱きしめたい衝動を必死に抑えた手でアリシアの肩にそっと触れる。薄いネグリジェを通して伝わる華奢な肩の感触に、思わずほんの少しだけ指先に力がこもった。


「お嬢様」


 掴んだ肩をわずかに揺らすと、睫毛を震わせてアリシアがゆっくりと瞼を開く。


「……ん、ノク……ス?」

「気分は悪くありませんか?」


 窓が吹き飛んだ際に魅了の香も一緒に室外へ流れ出ていったが、それまでアリシアがどれくらいの量を吸い込んでいるのかノクスにはわからない。元凶の夢魔を倒し、魅了の香の効果も次第に薄れていくはずだとわかっていても、アリシアの無事をちゃんとこの目で確認するまでは安心できなかった。


「きぶ……ん? 気分……すごく、いい」


 視点の定まらない瞳はとろんと揺れていて、魅了の香がまだ作用していることが窺えた。ノクスを見て艶っぽく笑う表情はアリシアに似つかわしくなくて、そんなあからさまな誘惑にすら負けそうになる自分が嫌になる。

 少し距離を取ろうと肩を掴んだ手を離せば、ゆっくりと体を起こしたアリシアが拗ねたように頬を膨らませてノクスに抱きついてきた。


「離れていかないで。……ノクスが、いい。触れられるなら……捧げるなら、ノクスがいいわ」


 魅了の香に惑わされた睦言だと頭ではわかっていても、ノクスの心臓はおろか指先までもがおかしいくらいに震えてしまう。胸元に頬をすり寄せ、細い腕を背中に回して抱きついたアリシアの力は儚く、ノクスが立ち上がるだけでその柔い拘束は難なくほどかれるだろう。

 けれど、ノクスは動くことができなかった。指先も、瞬きも、呼吸すら時を止めて、自分に抱きつくアリシアを見つめていた。


 ほんの少し、力を入れるだけでいい。

 立ち上がるか、抱きしめるか。

 天秤をどちらかに傾けるだけで、この気が狂いそうな時間から解放される。


『私たちはもう家族よ、ノクス。だから不安なことがあったら何でも言ってね』


 きつく閉ざした瞼の裏に、ノクスの心を癒やしてくれたアリシアの無邪気な笑みが浮かび上がる。幼い頃から変わらない、ずっとノクスのそばにある、あたたかな光。

 触れて、手にして、誰にも見られないように自身の腕の中に閉じ込めてしまいたい。そんな浅ましい思いをひた隠して、執事の仮面を被ることで今の今まで取り繕ってきた。


 本当はもう、ずっと前からわかっていたことだ。


 触れたい。触れて、抱きしめて、自分だけのものにしてしまいたい。

 けれどノクスがノクスであるがゆえに、どうしても越えられない壁が目の前に高く聳え立っている。


 ノクスとアリシアでは、生きる世界が違う。

 アリシアは光で、ノクスは穢れた闇だ。

 闇が光を乞うなどと、そんな愚かな願いを抱いていいはずがないのに――。


「ノクス。……大好き」


 葛藤も願いも欲望も、すべてを吹き飛ばして、ただ真正面からぶつけられた思いにノクスの箍が外れた。


「……アリシア……っ」


 華奢な体を折れるほどに抱きしめて、金の髪が乱れるほっそりとした首筋に顔を埋める。

 唇に触れるやわい肌。あたたかな熱。あまいにおい。肌をぷつりと裂く感触を想像して、ノクスの全身におぞましい快感の波が押し寄せた。


 触れたい。

 直に、触れたい。

 もっと奥まで、もう後戻りができないくらいに、強く痕を残してしまいたい。

 アリシアに、ノクスという熱を。どれほど強く、思いを募らせていたのかを。すべて、余すことなく伝えたい。押し付けたい。受け止めて欲しい。


 理性と本能の狭間でギリギリに揺れながら、ノクスがわずかにアリシアから身を退いた。縋るようになおも身を寄せようとしたアリシアの頭を両側から強く掴んで、薄く色付くそのくちびるを貪る勢いで塞ごうと――した。



 ***



「……ん……」


 目覚めてからずいぶんと長く微睡んでいたような気がする。けれど意識はまだぼんやりとしていて、視界は夜の闇に包まれている。少し肌寒いのは、夜風が忍び込んでいるからだろうか。そう思ったところで、違和感に気付いた。

 バルコニーに通じるガラスの扉が、全部粉々に割れている。緩やかにはためくカーテンの隙間から差し込んだ月明かりに照らされて、床の上に何か黒い塊が倒れているのが見えた。

 びくりと体を震わせた瞬間、仰向けに寝ていたアリシアの上からシーツとは違う何かがずり落ちた。


「ノクス!?」


 アリシアの上に倒れ込んでいたらしいノクスは、何度呼びかけても目を覚ますことはなかった。額にはうっすらと汗が滲んでおり、かすかに聞こえる呼吸は荒く、苦しそうだ。


 部屋の現状を見るに、屋敷へ侵入した何者かをノクスが撃退してくれたのだろうと想像がついた。アリシアは何が起こったのかをまったく覚えていないのだが、気を失っていたとかそういうことなのだろうか。

 割れた窓ガラスの惨状から、戦いは激しかったはずだ。ノクスに目立った外傷はないが、もしかしたら毒か何か目に見えない攻撃を受けているのかもしれない。


 とりあえず回復水でも何でもいい。治癒効果のあるものを持ってこようとアリシアがベッドから立ち上がった時、開け放たれた扉の向こうから騒がしい靴音が響いてきた。


「アリシアっ!」


 息も絶え絶えに顔をのぞかせたのはフレッドだった。フレッドは室内の様子を一瞥すると、最後にベッドの上に倒れたままのノクスを見て目を瞠った。


「フレッド。よかった。一体なにがあったの!?」

「それはこっちが聞きたいくらいだ」


 アリシア自身もこの現状をわかっていないようで、倒れたノクスにただおろおろとするばかりだ。ノクスの状態を手早く診てみたが、外傷はないものの次第に熱が上がっているようだった。

 夢魔の男を倒すために無理をしすぎたのかもしれない。何か度の越えた力を使ったのかも……。そう思ったところで、フレッドは自分の思考にぞっとする。


 人間離れしたノクスの身体能力を目の当たりにして、フレッドは無意識にノクスを「自分とは違うもの」として見ていたことに気付いたのだった。


「フレッド。ノクスは……大丈夫なの?」

「あ……あぁ、どうだろうな。傷は負っていないから、倒れたのはたぶん内側の負担が大きかったんじゃ」


 自分でも変なことを口走った自覚はある。けれどそれ以外に的確な言葉をフレッドは見つけられない。


「内側? 毒とか、そういうんじゃない?」

「夢魔が使うのは魅了の香で毒じゃない。もしかしたら魅了の香を強く嗅がされて、精神が狂わされてるのかもしれないな」

「狂うって……」

「魅了の香が原因なら、その元凶はそこに倒れてるし、効果が薄れるのは時間の問題だ。そんなに心配はない」

「それじゃあ、私も少しぼんやりしてるのは……その魅了の香のせいなのかしら」

「お前はノクスが戦うところを見ていないのか?」

「うん。目覚めたらもう魔物は死んでいて、ノクスが倒れてたから」

「そうか……」


 結局なにがあったのかを語れるのはノクスしかいない。

 体の内側から刃で貫かれた夢魔は、ノクスの武器では与えられない致命傷で死んでいる。今まで見たこともない死に様だ。

 それに屋根を駆け抜けていくノクスの身体能力の高さは、人の持つそれを遥かに超えている。


 ノクスは誰にも言えない秘密を抱えている。

 その秘密を暴くことにためらいがないとは言えないが、それがアリシアを傷つけるものならば優先順位は自ずと決まる。たとえ恨まれることになっても、フレッドはアリシアを守るほうを選ぶ。

 腰のホルダーにしまった銃にそっと触れて、フレッドは死人のように白い顔をしたノクスを難しい表情で見下ろしていた。




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