第22話 消えろ

 ガラスが割れたような、甲高い音に目を覚ました。

 何事かと驚いて飛び起きたが、耳をそばだてても特に物音は何もしない。さっきの甲高い音も夢だったのかと思ったが、それにしてはアリシアの心臓は痛いくらいに早鐘を打っている。


「レオナルド? メアリー?」


 何か異変があれば彼らも気付くはずだ。そう思って声をかけてみたが、彼らが眠る部屋は離れており、アリシアの声が届くことはまずない。だから返事がないということは、彼らが今も眠っているという証拠だ。

 異変は何もなさそうだ。音が聞こえたのも、きっと何か恐ろしい夢でも見たのだろう。そう結論づけて再びベッドに横になろうとしたアリシアの視界で、闇がわずかに揺らめいた。


「無事ですか?」


 静かに響いた声は、ノクスのものだった。何やらひどく慌ててきたのか、いつもきっちりと着込んでいる執事服ではなく、白いシャツだけを一枚羽織っている。その前ボタンはほぼ開いており、目のやり場に困るほどなまめかしい素肌がさらされていた。


「ノクス。どうしたの、その格好……。フレッドと一緒に出かけてたんじゃ……」


 もしかして怪我をして戻ってきたのだろうか。服がはだけているのは治療後なのかもしれないと、慌ててベッドから抜け出そうとすると、なぜかその体をノクスに押し戻されてしまった。

 アリシアの体に伝わるノクスの力は、少し乱暴で性急だ。


「ノクス……っ!?」


 掴まれた手首ごとベッドに縫い付けられて、体の上にノクスが覆い被されば完全に自由を奪われる。

 普通であれば、襲われるかもしれない恐怖に怯える状況だ。けれど相手がノクスというだけで、アリシアの胸には恐怖とは違う別の鼓動が鳴り響いた。

 先日、薔薇の花嫁と純潔の話題が出たばかりだったことも関係しているのかもしれない。


 一度は真っ向から否定され、アリシア自身も深く傷ついたが、やはりノクスにはそう言わざるを得ない何かがあったのだろう。でなければ、今こんなにも情欲に濡れたまなざしでアリシアを見つめることはしない。


 アリシアも心の底ではノクスになら……と、結ばれることを夢見てもいた。

 けれど何かが違う。

 体を押さえつける力は強いばかりで、アリシアを気遣う気配がまるでない。向けられる視線は飢えた獣のように貪欲に暗く輝いて、アリシアを欲求のはけ口としてしか見てないようだった。


「ノクス……ちょっと、待って……!」

「待てません」


 片手で頬を撫でられて、背筋がぞくりとする。そのままノクスの指先は顎を掠めて首筋を伝い、鎖骨をなぞるついでにネグリジェの襟元を焦らすように下げていく。

 まるで酒に酔ったようにとろけた表情を浮かべて、ノクスがほぅ……と息を漏らした。生ぬるい吐息が首筋に触れ、アリシアの喉が恐怖か羞恥かわからないままに引き攣った。


「ノクス……っ」

「あぁ……やはりとても濃く、魅惑的なにおいがする。……薔薇の花嫁。想像以上においしそうだ」


 その言葉に、アリシアの体がぎくりと震えた。

 視界を埋め尽くすほどに近付いたノクスが、自身の唇を舌先でちろりと舐めながら妖艶に笑う。ねっとりとした視線に絡め取られ、アリシアは呼吸すら忘れてノクスの瞳を凝視した。


「……だれ」


 アリシアの言葉を聞いてうれしそうに笑ったノクスの瞳は――アメジスト色に輝いていた。



 ***



 屋敷につくと、魔晶石で作っていた簡易の結界が壊されていた。静かすぎる邸内は、闇と一緒に噎せ返るほどの甘ったるいにおいが立ち込めている。

 夢魔が放つ、魅了の香だ。ノクスですら脳を強く揺さぶられる香りに、下位の魔物が耐えうるはずもなく、案の定レオナルドたちは廊下の真ん中に揃って倒れていた。

 魅了の香は主に幻覚を見せるもので、命まで奪うものではない。その証拠にレオナルドたちは気を失ってはいるものの、みんな呼吸はちゃんとしているようだった。


 屋敷の結界が破壊され異変に気付いたものの、魅了の香を強く吸い込んで倒れてしまったのだろう。一旦彼らを廊下の脇に移動させると、ノクスは迷う素振りも見せずにアリシアの寝室へとまっすぐに駆け出した。


 進むたびに、香りがより強くなる。

 アリシアが放つ血のにおいよりも下品で、腐ったような甘さだ。あの下劣な夢魔には似合いの、色欲を剥き出しにした悪臭にノクスの顔が歪む。

 薔薇の花嫁であるアリシアを手に入れるために、ここまで強く魅了の香を放った夢魔の意図を想像して、ノクスは怒りのあまり血が滲むほどに強く自身の唇を噛み締めた。


 薔薇の花嫁という極上の餌を前に夢魔としての本能が顔をのぞかせたのか、あるいは魅了の香でアリシアの意識を堕落させ、廃人に近い状態で抵抗の意思を奪うためなのか。

 どちらにしろ純潔を奪うようなことはしないだろうが、それでもアリシアを傷つけることに何のためらいもない夢魔の意図だけはひしひしと感じる。


 許せない。

 アリシアを傷つけることは許さない。

 アリシアに触れることを、許すことなどできるはずもない。


『執事である私がお嬢様に手を出すことなどありえません』


 ノクスでは、アリシアをしあわせにすることはできない。

 アリシアのそばに立てるのは、彼女と同じ人間であるべきだ。そう思って一度は突き放した光を、自分と同じ穢れた存在が奪おうとしている現状に、激しい怒りと焦燥が押し寄せる。


 こんなことなら――と。

 ずっとひた隠してきた仄暗い感情が鎌首をもたげるその前に、ノクスは自身の浅ましい思いも一緒に粉砕する勢いで寝室の扉を蹴破った。


「お嬢様!」


 控えめな月明かり差し込む寝室の奥、重なり合うふたつの影が見える。

 ベッドの上でアリシアに馬乗りになっている男の姿を見た瞬間、ノクスは頭の中で必死に繋ぎ止めていた理性の糸が焼き切れる音を聞いた。


「あれ? 意外と早かったね。気を利かせて、もう少し遅く来てくれても……」


 言葉を聞く気などさらさらなく、ひゅんっと空気を切り裂いてしなる黒鞭が男の首にきつく絡みついた。そのまま力の限り乱暴に引き寄せると、床に倒れ込んだ男が美しい顔を醜く歪ませて笑った。


「そんなに怒らなくてもいいじゃないか。僕なりに気を利かせたんだから、彼女に怖い思いはさせてないよ。少し君の真似をしたら、すぐに信じちゃって……純粋な魂っていいね。堕落させたくなる」


 この寝室にも濃く満ちる魅了の香によって、アリシアは夢魔の男がノクスであると惑わされてしまったのだろう。未だベッドに仰向けで倒れているアリシアはこちらの様子を気にもとめず、ぼんやりとうつろなまなざしを天井へ向けているだけだ。


 アリシアにとって、ノクスは警戒する対象ではない。皮肉にもこんな状況でアリシアの気持ちを垣間見てしまい、ノクスの胸には仄暗い感情が顔をのぞかせる。

 けれど、その肌に触れたのはノクスではない。アリシアの熱もにおいも、すべてを受け入れようと決意したまなざしも、無粋な夢魔に向けられたものだ。


 怒りと嫉妬で感情が何も追いつかない。

 大事に守ってきた光を、汚れた手で鷲掴みにしようとした目の前の男が許せない。こんなにも幼稚な感情に踊らされる自分自身が信じられなかった。


 長い間、心を隠して被ってきた冷静さの仮面に罅が入る。その音を合図にして、ノクスの体からあふれ出した魔力の波が暴走し、寝室の窓が内側から木っ端微塵に吹き飛んだ。


 膨れ上がるノクスの魔力に押し負けて、室内に溜まっていた魅了の香が割れた窓から外へと弾き飛ばされる。さながら強風のように渦巻く強烈な魔力に、夢魔の男がアメジストの瞳を大きく見開いて驚愕した。


「なん、だ……この力。これじゃ、まるで……っ」


 想定外の力を目の当たりにして、夢魔の男が自身の首に巻き付いた黒鞭を剥がそうともがいた。さっきは難なく外れた鞭が、今はなぜかがっちりと男の首に巻き付いている。

 黒鞭がノクスの意志の強さに反応することを、男は知らない。面白半分にノクスを挑発したことを悔いることもできず、男は鞭に捕らわれたまま強烈な魔力を全身に浴び続けるしかできなかった。


 魔力が直接肌を焼く。じりじりと焦げていく肌を針で突き刺され、剣で裂かれていくようだ。実際に男の肌にはいくつもの裂傷ができ、美しかった面影は見るも無惨に爛れ始めている。


「君は……っ、一体……」


 何者なんだと、そう呟いたはずの声が引き攣った悲鳴に変わった。


 男へ一歩だけ近付いたノクスが、ひどくゆっくりとした動作で眼鏡を外す。乱れた前髪の隙間から男を冷ややかに見下す瞳は――毒々しい薔薇のような深紅に塗り替えられていた。


「消えろ」


 たった一言。

 まるで呼吸と変わらぬ静けさで告げられた言葉を耳にした瞬間、男の体の内側からいくつもの鋭い刃が突き出した。


 ノクスに刺されたのではない。その刃は夢魔の男自らの魔力が具現化したものだ。意思に関係なく強制的に操られ、自らの魔力で。それを理解してなお、夢魔の男はもう自分の意思で指先ひとつさえ動かせない。


「……邪眼……。まさか、君は……っ」


 鮮血の邪眼。

 見つめた者の自由を奪い、操る呪いの力。

 その力を持つのは、異界でもある一族だけだ。それゆえに畏怖され、異界の頂点に君臨し続ける一族。


 最期の言葉を発することなく息絶えた夢魔の男を無感情に見下ろし、ノクスは短く息を吐くと、手に持っていた銀縁の眼鏡を再び自身の枷として装着する。

 薄いレンズ越しに開かれたノクスの瞳は、舞い戻る夜の静けさのように深いネイビーブルーへと戻っていた。



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