第21話 だって君、こちら側だよね
めずらしく言葉に詰まってしまったのは、自分の中にまだ迷いがあるからだろうか。
フレッドの背中を見つめながら、ノクスは緩く首を振った。
ふっと息を漏らして自嘲する。眼鏡を外し、目元を手のひらで覆えば、漆黒の世界にアリシアという光が浮かび上がった。
ノクスの心を救った、あたたかな光だ。
その光が穢され、輝きを失わぬよう、常に守り続けてきたつもりだ。魔物の脅威から。人間の醜さから。そして自分自身から。
執事として、互いの立場を明確にすることで一線を引いた。
それでも変わらずノクスの心に踏み込んでくるアリシアに戸惑いはしたが、幸いにも幼少期から被り続けてきた執事の仮面が外れることはなかった。
ノクスにとってアリシアが特別な存在であることなど、とうの昔に自覚している。
けれどノクスではアリシアをしあわせにすることができない。触れることができない。思いに応えることも、思いを告げることもできないのだ。
『あいつは俺が守る。おれがしあわせにしてやるから……』
フレッドの言葉が、ノクスの胸に重く沈み込んでいく。
あの言葉は、ノクスが誰よりも強く心に秘めた思いだ。それを何の制約もなく口にしてしまえるフレッドが、心の底から羨ましいとさえ思ってしまった。
唇を強く噛み締めると共に、ノクスは手にした鞭をぎゅっと握りしめた。深く息を吸い込んで、体の中を夜の冷たい空気で満たしていく。
余計な雑念は一旦吐き出して、今は夢魔から情報を得ることに意識を向けた。
再び眼鏡をかけて、ノクスはゆっくりと瞼を開く。
いつもより冷気を増したネイビーブルー。夢魔がいるというバイルン邸を見上げたその瞳に、迷いは巧みに覆い隠された。
***
バイルン邸の使用人たちには予め説明をしておいたので、いまこの屋敷には夫妻と愛人――のふりをした双子の夢魔たちしかいない。事前の打ち合わせ通り裏口の鍵も開いており、先に侵入したフレッドは二階へ続く階段の下でノクスを待っていた。
ノクスに対して苛立っているのだろうが、先に夢魔のところへ踏み込まないあたりはハンターとしての性か。どちらにしろ、一人で突撃して計画を台無しにするほど短絡的ではないようだ。
音を立てず二階へ上がると、フレッドが手にした銃で廊下の奥を指す。
使用人から聞いた話では、夫妻は二階の両端の部屋を互いの寝室にしているらしい。狩り場を同じ家にするくらいだから、最悪の場合寝室も同じかと危惧したが、どうやら人並みの恥じらいは持ち合わせているようだ。
ノクスが向かう東側の部屋は夫人の寝室だ。ならばそこにいるのは男の夢魔インキュバスのほうだろう。
扉の向こうの様子に耳をそばだてると、確かに二人分の気配がする。正直気分は最悪だが、長期間に渡って生気を奪われ続ければ命も落としかねない。他人の閨事にはまるで興味がないが、これも仕事だと割り切ってノクスは黒鞭を握りしめた。
反対側にいるフレッドへ視線を送り、互いに頷き合う。それを合図にして、二人同時に寝室へと踏み込んだ。
ベッドの上で男が動く。それより早く、ノクスの黒鞭が男の腕に絡みついた。
「男女の寝室に踏み込むなんて、無粋もいいとこじゃない? きみ、誰?」
「魔物に名乗る名は持ち合わせておりません」
「あっそ。別にいいや。僕も男の名前なんて興味ないしね」
恐ろしく美しい男だった。少し癖のある金髪はやわらかく、長い睫毛に縁取られたアメジストの瞳は、こんな状況だというのに艶を纏ってノクスを見つめている。細身かと思った体にはほどよく筋肉がついており、無駄のない均整の取れたその姿はまるで完成された彫刻のようだ。
人を惑わす魔物らしく、性的な魅力あふれる容姿だ。男のノクスですら一瞬目を奪われるのだから、人間の女では夢魔の魅力に抗えるはずもない。
ベッドの中でおそらくこの家の夫人がゆっくりと身じろぎした。叫ぶほどの元気はないものの、まだ命までは取られていないようだ。シーツで体を覆う理性が残っているだけマシだと、ノクスは意識を夫人から夢魔の男インキュバスへと戻した。
「そんなことより、これ……解いてくんない?」
「あなたに聞きたいことがあります」
「僕の言うことは聞いてくれないのに、なんで君の言うことは聞かないといけないのさ」
「異界に人間の男性が迷い込んでいませんか?」
「君、人の話を聞かないね。でもいいや。それに答えたら、見返りに君は僕に何をくれるの?」
「鞭打ちなら嫌というほど与えられますが?」
ノクスが鞭を強めに引き寄せると、夢魔の男が引きずられるようにしてベッドから立ち上がった。けれど男は痛がる素振りも見せず、逆に不敵な笑みを浮かべたまま、ノクスを興味深げに見つめている。
「鞭よりも、もっとイイものをちょうだい」
腕に絡みついた鞭を簡単に外して、男が赤い舌で自身の唇をぺろりと舐めた。
「君、持ってるでしょ? すごくイイにおいがする」
アメジストの瞳が妖しげに光る。ノクスを見て舌舐めずりする姿は、まるで捕食者のそれだ。ノクスを餌として見ているのではなく、男の目に映っているのはおそらくノクスの体に絡みつくアリシアの血のにおいだ。
誕生日が近付いて血のにおいがより濃くなったこともあるのだろうが、それ以前にアリシアと過ごした期間に少しずつ染み込んだにおいが蓄積されているのだろう。ケット・シーのように嗅覚で感じるものではなく、夢魔のように上位の魔物ともなれば、そのにおいすら可視化できるのかもしれない。
「少し前から異界でも噂になっててさ。僕もご主人様から探してこいって命令されちゃったんだよねー。正直めんどいからこうやって遊んでたんだけど……やっぱり生まれてたんだ。薔薇の花嫁」
「……何を言っているのかわかりません」
「誤魔化しても無駄だよ。おいしそうなにおいが染みついてる。きっとすごく昔から一緒に過ごしてきたんだろうね。……飼い慣らしてきた、の間違いかな?」
とん、とステップでも踏むかのように、夢魔の男が一瞬で距離を詰めた。動けずにいるノクスの耳元に顔を寄せ、息を吹きかけながら甘い声でささやく。
「だって君、こちら側だよね」
男のすべてを否定するように、ノクスが鞭を振るった。空気を裂く音と一緒に、近くにあった花瓶や時計が落ちて壊れる音がする。それでも構わずに攻撃を続けるノクスの余裕のなさに反して、夢魔の男は不敵に微笑んだまま跳ねるように後退すると、そのまま窓枠に腰掛けて優雅に足さえ組んでみせた。
「アハハ! なに、君。もしかして人間になりたいタイプのほう? それとも薔薇の花嫁を使ってのし上がるつもり? まぁ、確かにヴァンパイアに花嫁を献上すれば、異界での地位も約束されるけど……半端者には意味がないよね」
異界の、特に上級の魔物たちは血の濃さを何より重要視する。同じ一族であっても、純血でなければ見下されることなど当たり前だ。
彼らの言う「半端者」には、つまりそういう意味も込められている。
「君が何と混じっているのかはわからないけど、異界では半端者に人権なんてないに等しいからね。薔薇の花嫁は僕が代わりに献上してあげるよ。君にはそれをやるから我慢して」
そう言って、男がベッドのシーツにくるまったままの婦人を指差した。あからさまに嫌悪感を滲ませるノクスに挑発的な笑みを向け、男は窓を開け放つ。流れ込む夜気が室内の空気を揺らしたかと思うと、それを合図にして男の背中から黒い二枚の羽が現れた。
コウモリに似た皮膜の羽を大きく羽ばたかせると、男はノクスの鞭をひらりと避けて、窓から外に躍り出る。
「うん。君に纏わり付いてる血のにおいの残滓が、ちゃんと残っているね」
大きく息を吸い込んで、男がある方角を指差した。その先に何があるのかを理解して、ノクスの体が大きく震える。
ここから南にあるのは、ロウンズ邸だ。
「じゃあね。薔薇の花嫁はもらっていくよ」
「待て!」
ノクスの鞭がいかに使用者の意図を汲み取ろうと、空を飛んでいく男の元までは届かない。鞭ではダメだと早々に見切りをつけたノクスが、男と同様に窓枠へ足をかけて窓の外へと身を乗り出した。
ちょうどそこへ、女のほうを片付けたフレッドが顔をのぞかせた。
「おい、ノクス! やっぱり親父さんは異界へいるかもしれないぞ。親父さんに似た人間がヴァンパイアの城に……って、何やってんだ!」
「先に屋敷へ戻ります」
「戻るって、ここ二階だぞ!?」
飛び降りて死にはしないだろうが、確実に無傷ではいられない高さだ。そんなところから飛び出そうとしているノクスに、フレッドは驚きすぎて一瞬たたらを踏んでしまった。その隙にノクスは窓の上枠に手をかけて大きく体を翻すと、まるで重力を一切感じない身のこなしで軽やかに屋根の上へと跳び上がった。
「おいっ、ノクス!」
慌てて窓から身を乗り出して仰ぎ見れば、ノクスはもう屋根づたいに隣の屋敷へ飛び移っていくところだった。
まるで空を飛ぶ鳥のよう――。いや、鳥と言うより、闇そのものを足場にして走り去っていく。
「何……なんだ、あいつ」
人間の身体能力を遥かに超えている。
屋根から屋根へ、夜を颯爽と駆けていくその姿はまるで――。
「冗談だろ」
こぼれた声は、震えていた。
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