第2章 薔薇の花嫁

第8話 お嬢様の誕生日ですから

 ワーウルフ討伐のため、フレッドがティーヴの森へ下見に行ってから数日が経過した。その間も街で見かけるたびに交渉を試みたアリシアだったが、フレッドはがんとして首を縦に振ることはなかった。

 魔物退治のビラはすべて回収されており、新たな依頼がアリシアの元に入ることもない。フレッドと同じハンターギルドに登録しようとしても、戦闘向きではないアリシアを受け入れてくれるほど世間は甘くなかった。

 結局ウィルを屋敷に迎えてから今日まで大きな変化は何もなく、アリシアは父の情報も得られぬまま、悶々とした日々を過ごすこととなった。



 ***



「これは水属性ね。こっちは……ちょっとくすんでるけど……風、かな?」


 アリシアはいま、父セドリックの仕事部屋で魔晶石の鑑定をおこなっていた。小さい頃から身近にある魔晶石は、幼少期のアリシアにとっては遊び道具のひとつでもあった。

 きらきら光る色とりどりの魔晶石。ともすれば宝石のようにも見える小さな石に、幼いアリシアはいっぺんで心を奪われた。セドリックの作業を間近で見て、わからない時にはすぐに聞ける。魔晶石学者としても名高いセドリックの仕事を一番近くで見ていたからこそ、今のアリシアもある程度の目利きはできるようになっていた。


 魔物の魔力が結晶化したもの、それが魔晶石だ。魔物が力を使った時に、結晶化してこぼれ落ちるといわれている。

 魔力の強弱によって魔晶石の大きさは変わるし、細かいことをいえばその時の魔物の状態によっても硬度や明度が変わってくる。同じ魔物が落とす魔晶石でも、状態はその時々で違うのだ。

 魔晶石学者と呼ばれる者たちは、ひとつとして同じもののない魔晶石を鑑定し、どの用途が一番適しているのかを探り、分別するのが仕事だ。


「お嬢様。少し休憩されては?」


 ふわりと鼻腔をくすぐるさわやかな香りに顔を上げると、机の端に紅茶の入ったティーカップが目に入った。一緒に用意された小皿には、二粒のチョコレートが乗せられている。


「ノクス」

「どうぞ。お嬢様の好きなヴァンローデ洋菓子店のチョコレートです」

「え!? これ……このあいだ発売されたばかりの新作じゃない! 人気すぎて午後には売り切れるって聞いたのに。……まさかノクス、これを買うために出かけてたの?」

「用事のついでです。それにもうすぐお嬢様の誕生日ですから」


 セドリックの失踪後ずっとバタバタしていてすっかり忘れていたが、一ヶ月後はアリシアの二十歳の誕生日だ。他の国では十七歳を成人と定めているが、アリシアの住むこの国では二十歳が成人である。


「本来なら成人の記念として盛大に祝いの場を設けたいところでしたが、セドリック様のいないこの状況ではお嬢様も心から楽しむことは難しそうでしたので……。少しですが、よろしければお召し上がりください。……お誕生日おめでとうございます」

「ノクス……ありがとう」


 四角い形のチョコレートと、赤いハートのチョコレート。ノクスに他意はないのだろうが、ハート型のチョコレートにほんの少しドキリとする。

 ノクスの心を食べるみたいだ。そう思うと緊張に心臓がぴくんと跳ねた。


 口内の熱にとろけていくハートのチョコレート。中から溶け出したラズベリーソースは、まるでほんのわずかな刺激であらわになるアリシアの秘めた恋心のようだと思った。


「おいしいご褒美ももらったことだし! 残りもササッと終わらせるわね!」


 ノクスの心遣いが心底うれしすぎて、締まりのない顔になっている。頬が紅潮しているのが自分でもわかってしまい、アリシアは若干焦ったように魔晶石の入った箱の中に右手をボスッと突っ込んだ。

 その指先に、鋭い痛みが走る。


「痛っ」


 慌てて右手を引き抜くと、中指の先に小さな擦り傷ができていた。形も大きさも違う魔晶石の中に尖ったものが紛れていたのだろう。本来なら手袋をして作業するのだが、短い休憩のあとアリシアは手袋をするのを忘れてしまったのだ。

 傷自体はそう大きなものではなかったが、じくじくとした痛みと共に指先にぷくりと赤い血の珠が滲み出る。


「大丈夫ですか?」

「ごめんなさい。手袋するの忘れちゃった」

「まったく何をしているのですか。傷口を見せてください」

「これくらい平気よ」

「平気かどうかは私が決めます」


 言葉は優しくないのに、アリシアの手を取る手つきは壊れ物を扱うかのようにやわらかだ。

 これくらいの傷ならすぐに治るのだが、ノクスはアリシアが傷つくことを極端に心配する。過保護すぎるその干渉は、セドリックが失踪してからより強くなったように思えた。


「ね? そんなにひどい傷じゃないでしょ?」


 大丈夫だと伝えようとして見上げれば、ノクスはアリシアの手を握ったまま、まるで人形のように硬直していた。声にも反応せず、血の滲み出た指先をじっと、食い入るように凝視している。いつもは静かに凪いでいるネイビーブルーの瞳が、銀縁眼鏡の向こうで妖しいきらめきに揺れ動いたような気がした。


「ノクス?」

「……っ。薬を取ってきます」


 アリシアの声に目を覚ましたように、ノクスの肩がぴくりと震えた。動揺を押し隠したいのか、アリシアとは視線を故意に合わせようとしない。それどころか自分から握っていた手を慌てたように離すと、ノクスはそのまま足早に部屋を出て行ってしまった。


 しばらくすると再び部屋の扉が開かれた。けれど入ってきたのはノクスではなく、骸骨メイドのメアリーだ。


「クスリ、モッテキタ」

「ありがとう、メアリー」

「ショウドク、スル。テ、ダセ」


 骨張った手――否、骨の手が器用にピンセットを掴んで、消毒液を浸した綿を傷口に当ててくる。ポンポン、と優しく触れる綿の感触と共に、消毒液の染みる痛みが指先を痺れさせた。


「……ノクスは?」

「ウラニワ、イッタ」

「そう」

「ナニカ、イソイデタ」


 メアリーに薬箱を預けていくほど急用ができたのだろうか。部屋を出ていった時のノクスは明らかに様子がおかしかった。具合が悪いのかと思うほどに顔も青ざめていたが、倒れていないのならよかったと思うことにする。


 ノクスが向かった裏庭には、赤い薔薇の花が一面に咲いている。昔セドリックが植えたものだ。土に魔晶石の力を加えているらしく、そのおかげで薔薇の花は一年中枯れることなく満開に咲き誇っている。

 セドリックは特別に花を愛でる人ではなかったので不思議に思ったものだが、どうやら薔薇の花を気に入っているのはノクスのようだった。彼がこの屋敷に引き取られたあと、しばらくしてからのことだったので、きっとノクスの心を和らげる目的があったのだろう。今でも裏庭に佇むノクスの姿を見ることはよくあることだ。


「……? ナニカ、ニオイ、スル。アマイ……」


 手当を終えたメアリーが、くんくんと部屋の匂いを嗅いでいる。アリシアには何も感じなかったが、甘いといえばさっき食べたチョコレートの匂いだろうか。


「さっきノクスがおやつを持ってきてくれたの。その匂いかもしれないわね」

「オヤツ! タベタイ!」

「チョコは全部食べちゃったから……ごめんね?」

「エェー……」

「厨房に何かあるかもしれないわ。一緒に行きましょうか」

「イコウ! イマスグ!」


 無邪気に笑ったり落ち込んだりと、メアリーの表情は墓場で出会った時よりもずいぶんと豊かになった。というより、アリシアのほうがメアリーの表情を骨格だけで認識できるようになったのかもしれない。


 立ち上がって、ふと窓の外を見れば、灰色の重く立ち込めた曇天が広がっている。一雨きそうだなとそう思えば、時を待たずして小さな雨粒が窓ガラスを静かに叩き始めた。



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