第9話 おぬし、薔薇の花嫁じゃろ?
メアリーと一緒に厨房へ行くと、コンロの上に青い炎が揺れている。ウィルだ。うたた寝をしていたのか、アリシアたちが近付くと「ぴょっ」と叫んで小さく飛び跳ねた。
「ウィル。こんなところで何をしているの?」
「お兄ちゃんがお茶沸かすから手伝えって」
ウィルの横には紅茶の茶葉が置いてある。さっきアリシアが飲んだ紅茶の湯は、ウィルの炎で沸かしたものだったらしい。普段は触っても熱くないが、彼の意思で温度を変えられるのだろう。魔力に作用するものらしく、テーブルの上には小さな青い魔晶石がいくつか転がっていた。
「そうだったのね。おいしい紅茶をありがとう、ウィル」
「えへへ」
「お礼に、ウィルも一緒におやつを食べない? 確かこの辺に買い置きしてるクッキーがあったはずなんだけど……」
戸棚の奥を探していると、突然足首にぺちょりと湿った何かがまとわりついた。
「きゃっ!」
不快な感触と濡れた冷たさに驚いて、危うくクッキー缶を落としそうになってしまった。見れば足元に、雨に濡れた黒猫が座っている。
「え? 猫?」
「にゃー」
雨に濡れた体をぶるっと震わせると、毛に絡みついた雨粒が床に飛び散った。見たことのない黒猫だが、野良にしては毛並みが美しい。
急に降り出した雨を避けようとして、ここへ迷い込んでしまったのだろうか。しとしとと雨の降る屋外へ放り出すのも忍びなく、アリシアはせめて雨が止むまではと黒猫を一時保護することにした。
雨に濡れた体をタオルで拭いてやり、目の前にミルクを注いだ皿を置く。すぐに飲むかと思ったが、黒猫はミルクより先にアリシアの怪我をした指先の匂いを嗅いできた。
猫の嗅覚に消毒液の匂いは強すぎる。慌てて手を離すと、黒猫は少しのあいだ逡巡してから、ようやくミルクを飲み始めた。
「私、ちょっとノクスの様子を見てくるわ。雨も強くなってるみたいだし」
ノクスのことだから雨に濡れて体調を崩すようなことはしないだろうが、それでも雨脚の強くなった窓の外を見ればアリシアの胸に不安の影が押し寄せる。それにやっぱり、あの時のノクスの表情が気にかかったのだ。
「メアリー、ウィル。この子のこと、見ててくれる?」
「マカセロ!」
「うん、いいよ!」
「ありがとう」
アリシアは黒猫の頭をひと撫ですると、裏庭にいるであろうノクスの元へ向かうべく立ち上がった。傘は確か裏口にも置いてあったはずだ。
「何じゃ、おぬし。あやつのコレか?」
聞き覚えのない声に驚いて振り返ると、さっきの黒猫がアリシアを見てニヤリと笑っていた。「コレ」を意味しているのかはわからないが、長い尻尾をピンッとまっすぐ立てている。
「え……?」
「それにこの屋敷にはいろんなニオイが混ざっておるの。物珍しさついでにのぞいてみたが、まさか魔物と人間が馴れ合っているとは驚きじゃ。うむ。じゃが、悪くない。このミルクも大変な美味であったぞ。……げぷぅ」
口調から位の高い者を想像できるが、顔はミルクで白く汚れている。毛が黒いから余計にミルクの白が際立って見えてしまうのだ。胸元までミルクを垂らしていると思ったら、そちらは白い毛が生えているだけだった。
「なに、この猫。喋ってる? ……ってことは、この子も魔物なの!?」
「ワシとそやつらを一緒にするでない。ワシは誇り高き猫の王、ケット・シー! 下位の魔物風情がワシの姿をこんなに近くで拝める機会などそうそうないぞ? どうじゃ? 感動に打ち震えて声も出せま……食べるのやめぇぇ!」
大層に自己紹介をした自称・猫の王様を完全に無視して、メアリーとウィルはクッキーを食べるのに夢中になっている。
全身の毛を逆立たせたケット・シーが机の上に飛び乗っても、クッキーを食べる二人の手はとまらない。それどころかメアリーに抱っこされて再び床に降ろされると「コレ、ウマイ。オマエモ、クエ」と一枚のクッキーを目の前に置かれていた。
「くっ。これだから下位の魔物は好かんのじゃ。上下関係がなっとらん! おぬしもこやつらの
「
「何じゃ、身を守る盾として魔物を集めているのではないのか?」
「盾って……何の話?」
「言葉通りじゃ。おぬしを守るための捨て駒として、手懐けやすい下位の魔物を集めているのかと思ったんじゃが……まぁ、見たところ戦力にもならぬ者しかおらんようじゃからの。ワシの勘違いだったか」
「えぇと……ケット・シー、でいいのよね? あなたの言ってること、まるでわからないんだけど」
メアリーやウィルたちが捨て駒とはどういうことなのだろう。身を守るためとは、何だか穏やかではない話だ。ケット・シーの言葉を返せば、それはアリシアが何者かに狙われているということにもならないか。
「私、そんなに人から恨まれるようなことはしていないと……思うんだけど」
「恨まれるというか……おぬし、薔薇の花嫁じゃろ?」
そう言って、ケット・シーが再びアリシアの指先に鼻を近付ける。消毒液の匂いがキツすぎやしないかと焦ったが、ケット・シーはなおも構わずくんくんと匂いを嗅いでいた。
アリシアが怪我をした指先だ。
「薔薇の、花嫁?」
「ナニソレ、オイシイ?」
「お姉ちゃん、結婚するの?」
アリシアと同じく、メアリーとウィルも首を傾げている。そんな三人を見て、ケット・シーがひどく人間らしいため息をこぼした。
「あぁ、おぬしら下位の魔物にこやつのニオイまではわからんか」
「そんなに臭くないもの!」
「違う、違う。体臭の話ではなくて、血のニオイじゃ」
「血って……指のケガの?」
「おぬしの血は特別なニオイがする。ワシら魔物を惹きつける匂いじゃ。こやつらがここに集うのも、無意識にお主の血に引き寄せられたのかもしれんな」
指先を鼻に近付けてみたが、当然何の匂いもしなかった。猫だから嗅覚が鋭いのだろうか。試しにメアリーたちにも試してみたが、二人とも首を横に振るだけだった。
「血のにおいはわかんないけど、僕……お姉ちゃんのこと、好きだからここにいるんだよ」
「好きなのは構わんが、こやつは薔薇の花嫁じゃ。手を出すと殺されるぞ?」
「コロサレル……ノクス、ニ?」
「ノクス? あぁ、裏庭にいた男か。そういえばあやつも何か変なニオイが……」
「人の屋敷に無断で上がり込んで床を汚したにもかかわらず、我が物顔でミルクを飲み干したあと、いいかげんな噂話を吹聴してまわる黒猫はあなたのことですか?」
雨よりも冷ややかな声音が響く。続く足音に同調して、部屋の温度まで下がった気がした。
「ノクス」
振り返ると厨房の入口に無表情のノクスが立っていた。ひんやりとした空気を感じるのは雨に濡れているからだけではない。ケット・シーを見つめるネイビーブルーの瞳が、眼鏡越しでもわかるくらいに鋭利な輝きを放っている。
その雨粒に濡れて意味を成さない眼鏡を外し、額にへばり付いた前髪を雑に掻き上げると、髪先から滴るしずくがノクスの白い頬を滑り落ちていった。
「びしょ濡れじゃない。待ってて、いまタオルを持ってくるから!」
「お構いなく。どうせまたすぐに裏庭へ参りますので」
そう言うと、ノクスはケット・シーの首を掴んで乱暴に持ち上げてしまった。
「生ゴミを捨ててきます」
「何をするんじゃ! ワシは猫の王であるぞ! この立派な王冠が見えんのか!?」
首の後ろを掴まれ自由の利かないケット・シーが、前足で自身の胸をバシンと叩いた。小さな肉球の下には一部分だけ白い毛が生えている。アリシアがミルクをこぼしたあとだと勘違いした白い毛は、よく見れば王冠の模様をしているようだ。
「あいにくとここは人間の世界なので、あなたはただの野良猫ですね」
「何じゃと!? この半端者が!」
ノクスの眉間がぴくりと動いたような気がしたが、それがケット・シーの言葉のせいなのか、額を滑り落ちる水滴のせいなのかはわからない。相変わらずの無表情を決め込むノクスを見上げて、ケット・シーだけがしたり顔でニヤついている。
「ワシは鼻がいいからの。おぬしのことも何となくわかるぞ?」
「そうですか。なら、あなたをこのまま帰すわけにはいきませんね」
「お? やるのか? 愛らしい外見をしておるが、ワシはこう見えても中級クラスの魔物じゃぞ? 半端者に遅れなどとらんわ!」
既に首根っこを掴まれている状態なのだが、やる気だけは満々のケット・シーが短い前足を交互に突き出して猫パンチを繰り出している。当然届きはしない猫パンチに見向きもせず、ノクスは空いたほうの手で胸ポケットを探ると中から短い木の枝を取りだした。
「おぬし……っ、それはまさか!」
「マタタビです」
「くっ。卑怯だぞ! そんなものに頼るとは……。じゃが、ワシは猫の王! こんな誘惑になど負けはせぬっ……にゃ。だからもっと近う寄れ……なぁん。そうじゃ、いいぞ……はぁぁ。何という濃厚な香り。たまらんにゃぁぁ」
もはや猫の王の尊厳などどこにもなく、ノクスの手からマタタビを奪い取ったケット・シーは、それから満足して眠りに落ちるまでずっと厨房の床でゴロゴロと身をくねらせていた。
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MACKさんから、またまた素敵な絵を頂きました!
今回はこのお話にもあるように、雨に濡れた雨ノクスです。
ものっすごくかっこいいので…見て!!全人類見て!!!!!!
MACKさん、ノクスかっこいいの…本当にありがとうございます。
かっこいい水濡れノクス
https://kakuyomu.jp/users/lastmoon/news/16817330668546136512
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