第10話 無茶はしないと約束するわ
マタタビに敗北し、眠っている間に屋敷の外へ放り出されたケット・シーは、翌晩なぜかまたロウンズ邸に顔を出していた。ノクスへのリベンジかと思ったが、どうやらマタタビの味が忘れられなかったらしい。猫の王の尊厳は一旦毛皮の中に隠して、ケット・シーが持つ情報の対価にマタタビを要求してきたのだった。
「聞けばおぬしら、父親を探しておるようじゃの。ワシの野良猫ネットワークを駆使すれば、その情報も手に入るやもしれんぞ?」
そう言ったケット・シーは、アリシアの膝の上ですっかりくつろぎモードだ。おやつのミルクで腹も満たされ、あとは寝るだけといわんばかりに大きな欠伸をひとつこぼしている。
「よい提案だと思うぞ? 中級クラスともなれば人に害をなす者も多いなか、ワシのような比較的人間に友好的な魔物と手を組めるのじゃからの。ワシは情報を、その対価におぬしらはあの魅惑的なブツを渡すだけでよいのじゃ」
ケット・シーは中級クラスの魔物だった。新月の夜にどこに現れるかわからない扉を目視できる魔物だ。ケット・シーがいれば、ウィルを異界へ返すことができる。それに加えてケット・シーの条件をのめば、セドリックに繋がる情報が得られるかもしれないのだ。
アリシアにとってはこの上ない申し出である。けれどもノクスは渋い顔をしたまま、ケット・シーを探るように見つめていた。
「ねぇ、ノクス。別にいいんじゃない? マタタビ渡すだけで有益な情報が手に入るかもしれないんだもの。私たちが探るより、同じ魔物同士に探ってもらった方が危険は少ないわ」
「それはそうかもしれませんが、同族だからこそ安易に信用するのは危険です」
「おぬしも同族のようなもんじゃろ」
「え?」
ケット・シーの言葉に、ノクスがぴくりと眉を動かす。ケット・シーに向けられる無言の圧が凄まじくて、彼を膝に乗せているアリシアまで心臓が凍りそうだ。ケット・シーにいたっては全身の毛をぶわっと逆立たせて、アリシアが心配になるほど身震いしている。
「冗談の通じぬ男じゃにゃぁ……」
「何の話?」
「お嬢様には関係のない話です」
銀縁眼鏡のブリッジを指先でくいっと上げて、ノクスが気持ちを入れ替えるように深呼吸する。再び開かれたネイビーブルーの瞳からは、さっきの突き刺さるような鋭利さは影を潜めていた。
「そもそも、あなたの言う野良猫ネットワークの情報が信用に値するのかどうかもわからないのに、はいそうですかと頷けるはずもないでしょう」
「ワシのネットワークを馬鹿にするでないぞ。ペルル通りのネアリーズ夫妻は人間界に移住して五十年になるエルフの夫婦じゃ。エディラック通りのパン屋の主人はチェレイア夫人と不倫中、その三軒先の七番地に住む引きこもりのタリスは隣室のナタリアの部屋を盗聴しておる。どうじゃ? おぬしらでもここまではわからんじゃろ?」
「情報のほとんどが役に立ちませんね」
「そのナタリアって人に、教えてあげたほうがいいんじゃ……」
「安心せい。ナタリアもナタリアで、盗聴されることに愉悦を感じるタチじゃ」
「本当にどうでもいい情報なので、あなたにマタタビを渡すわけにはいきませんね。野良猫の王には早々にお帰り願いましょう」
もはやケット・シーを見つめるノクスの瞳は冷ややかというより憐れみに近い。疲れたように大きなため息をひとつこぼして、アリシアの膝の上に寝転がるケット・シーの首根っこをむんずと掴み上げた。
「にゃぁぁっ! 何をするんじゃ。二度も王の首根っこを掴むとは!」
「二度も掴まれるようなら、王の座を他の誰かに明け渡してみては?」
「くぅぅっ。ならばこれならどうじゃ! 今朝届いたばかりのホヤホヤな……」
「興味ありません」
「昨夜からティーヴの森にワーウルフが集まりはじめておるぞ! 数は五体じゃ。しかも今宵は満月。血に飢えた奴らが街まで来ることもあろうから、今宵は屋敷から一歩も出ないほうが安全じゃ」
とっておきの情報とばかりに叫んだケット・シーの言葉に、アリシアがはっと顔を上げた。向かう視線の先で、ノクスも同じようにアリシアを見つめている。
ティーヴの森。ワーウルフの討伐依頼を受けて、ちょうどその森へ向かっているはずの男がいる。けれど彼から聞いたワーウルフの数は、二体だったはずだ。
「……フレッド」
立ち上がったアリシアの肩を、ノクスが強めに掴んで牽制する。そうでもしないと、今すぐにでも飛び出してしまいそうなほどにアリシアの顔は青ざめていた。
「落ち着いてください」
「ノクス。でも……さすがにフレッド一人でワーウルフ五体は危険だわ。助けにいかなくちゃ」
窓の外は、もうすっかりと夜の帳が下りている。漆黒の闇を濃紺に塗り替えて空に昇るのは、皓々と輝く満月だ。
「まずはハンターギルドに連絡を」
「ギルドに連絡するより私たちが動いたほうが早いわ。幸いここには魔晶石の武器もたくさんある。武器じゃなくたって、転移石を使ってティーヴの森から脱出することだってできるわ」
「転移石まで使う気ですか?」
「必要なら。お父様だって許してくれるはずよ」
転移石とは極めて貴重な魔晶石のことだ。同じものがひとつとして存在しない魔晶石のなかで、限りなく性質の近い二つの石を加工して人工的に同等の石に作り上げたものを指す。そうして作られた
けれども性質の近い魔晶石はそう多くなく、加えてそれを転移石に加工する技術を持つ者も少ない。ゆえに市場では高価で取引がされており、なおかつ転移石自体が使い捨てであることから、一般のハンターたちではなかなか手が出せない魔法具として知られている。
「無茶はしないと約束するわ。それに二人で探したほうが早いもの」
「何じゃ? 知り合いがティーヴの森におるのか? ワシの配下を使って探してやってもよいぞ?」
ノクスの手に掴まれたままのケット・シーからは、恩を売ってマタタビをゲットしようという魂胆が丸見えである。それでも本心が見えているだけまだマシだ。土壇場で裏切られるよりは断然いい。
ノクスもそう思ったのか、苦虫を噛み潰したような顔で逡巡したあとケット・シーを解放した。
「いざとなったら、転移石はお嬢様ひとりでお使いください」
「それじゃ、意味が」
「それが約束できなければ、連れていくことはできません」
ノクスの瞳がじっとアリシアを見据えた。問答無用に拒否するいつもの視線ではなく、静かに見えてそのネイビーブルーの奥にはかすかな懇願の色が垣間見える。
アリシアを危険な目に遭わせたくないという思いと、フレッドを助けにいくために無駄な言い争いをしている暇はないこの現状で、ノクスができる最大の譲歩だ。むしろノクスにしては譲りすぎの条件に、アリシアは黙って強く頷いた。
「お嬢様は地下の倉庫から、ご自身で使えそうな魔法具を持てるだけ用意してください。万が一のため薬もいくつか準備しておくように。ケット・シーはティーヴの森の情報をできるだけ早く集めてください」
「おぉ? ヤル気じゃな」
「生半可な情報ではマタタビは渡せませんよ」
「わかっとるわい」
尻尾をピンッと伸ばしたケット・シーが、床からソファーへ、そして窓際へと軽やかに駆け上がる。わずかに開いた窓から外へと飛び出していったのを確認すると、ノクスは部屋の扉を開け放ち屋敷の奥に向かって声を張り上げた。
「レオナルド! ウィル! 仕事です。十秒で支度してください」
暗い廊下に響き渡るノクスの声が消えると同時に、闇の向こうにぽうっと青白い炎が灯る。揺らめく青に照らされて、マンドラゴラのレオナルドが小走りで駆けてきた。足音がびちゃびちゃと湿った音を立てているのは、さっきまで水に浸っていたのだろう。ウィルの炎は相変わらず小さい。ノクスに直々に呼ばれ、何をされるのか怯えているようだ。
「むぉー! ノクス殿に頼られるとは魔物冥利につきますな。このレオナルド、日頃の感謝も込めて誠心誠意務めさせてもらいますぞ!」
「僕……あの、役にたてない……かも」
「役に立つ仕事を与えますのでご心配なく」
「今夜の私の喉の調子は絶好調ですぞ。のど飴も抜かりなくっ!」
ぐっと、親指を立てるように右手を突き出したレオナルドは、そのままぴょんこぴょんこ跳ねてノクスの肩によじ登る。置いていかれまいと慌てて飛んできたウィルが反対側の肩に陣取ったので、倉庫から戻ってきたアリシアは暗闇に青白く浮かび上がるノクスの顔に小さな悲鳴を上げてしまったのだった。
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