第37話 ダンピールの花嫁ですよ
朝食後、アリシアはノクスと共にセドリックの自室へ呼ばれた。向かい合う形でソファーに腰を下ろすと、セドリックは無言のままアリシアとノクスの顔をじっと見つめてきた。
何だか心を見透かされるようで居心地が悪い。特に後ろめたいこともないのに、アリシアはソワソワしてセドリックの目を見ることができなかった。
「ノクス。私は怒っているからね」
言葉はやわらかさを含んでいるものの、セドリックの声音は少しだけ硬かった。親として、子を叱る声だ。
「君はもう、私たちの家族だと言ったはずだ。何があろうと君を手放すつもりはないし、見捨てるつもりもない。つらいことは一人で抱え込まずに、みんなで背負っていこう。私も、アリシアもいるんだから……ね?」
膝に置いた拳をぎゅっと握りしめて、ノクスがセドリックに対して深々と頭を下げた。
「申し訳ありません」
「君のことだから、私たちに危険が及ばないようにと考えたんだろう。私を連れ出した時も、おそらく……何かしらの条件があったんじゃないかい?」
「……私が異界へ留まることを要求してきました」
血の薔薇を強化できるセドリックを手放してまで、ノクスを手に入れたかったということか。
ヴァンパイアにとっての汚点。人間との混血であるダンピールの存在は、プライドの高い彼らにとって恥でしかない。ましてやノクスは、ヴァンパイアの中でも高貴な立場にいる者の血を引くダンピールだ。きっとあの男は、同じヴァンパイアにも秘密にしておきたかったのだろう。
どこまでも歪んだプライドだ。
「ノクス。自分を犠牲にするのは、もうやめなさい」
怒るでもなく、声はノクスを諭すように静かに響く。
「自分を愛せない者に、他人を愛することはできない。そんな男に、娘は預けられないよ」
ノクスがハッを息を呑んで身を固くしたのがわかった。
二人の関係はまだ話していなかったが、セドリックは既に勘付いていたのかもしれない。
話は現状が落ち着いてから改めてと考えていたが、そういえばアリシアだってノクスからちゃんとした言葉はまだもらっていなかった。けれど言葉はなくともアリシアの気持ちは伝えたし、ノクスはその思いを受け取ってくれたと思う。だからノクスは今ここに、アリシアの隣にいるのだ。
「君が傷つけばアリシアが悲しむ。アリシアがつらいと私も悲しい。でも君がそばで笑ってくれるだけで、私たちはしあわせになれるんだよ。……どうだい? ノクス。簡単なことだろう?」
そう言って、セドリックが笑った。
「そう……ですね」
「なら、君がやるべきことは、もうわかるね?」
深く息を吸い込んで、一度閉じた瞼をゆっくりと開いた。
セドリックをまっすぐに見つめるノクスのネイビーブルー。夜に閉じ込められていた瞳に、消えない希望の光が揺らめいた。
「私を、本当の家族にしていただけませんか」
セドリックを見つめたまま、ノクスはアリシアの手をそっと握りしめてきた。少し震えているその手がとても愛おしくて、アリシアはノクスの思いごと彼の手を両手でぎゅっと包み込んだ。
「もちろんだよ。ノクス。ずっと前から、私はそう思っているよ」
「私もよ、ノクス。……おかえりなさい!」
「……ありがとう、ございます」
深々と頭を下げたノクスの眼鏡の奥で、涙がひとつ煌めいたような気がした。
***
それからアリシアはメアリーたちと一緒に屋敷の掃除に精を出していた。溜まった食器を洗い、床を掃いてモップをかける。昔は使用人たちが、セドリックが失踪してからはノクスが一人でやっていたことだ。改めてやると地味なわりに結構な仕事量で、時間があっという間に過ぎていく。一ヶ月の間サボっていたのもあるが、それでも毎日同じことをやってくれていたノクスや使用人たちには頭が上がらない。
セドリックが戻ってきた今、もしかしたら使用人たちも新しく雇うのかもしれない。それでも今後は少しでも彼らの負担を減らせるよう、自分にできることは少しでもやっていこうと心に決めた。
「あれ? フレッド。どうしたの?」
洗いたてのシーツを持って裏口を出ると、ちょうどフレッドが裏庭から歩いてくるところだった。フレッドも左肩と脇腹を怪我しており、昨夜は治療のあとそのまま屋敷に泊まっていたのだ。
「黙ってるのも落ち着かないから、ちょっと散歩してた。お前が俺にも仕事させてくれたら暇じゃなくなるんだけどな?」
「ダメよ! フレッドは怪我してるんだし、たくさん迷惑もかけたからゆっくりしてて」
「別に迷惑なんて思ってねぇよ」
「それでも私の気が済まないの。フレッドがいなかったら私、きっとどうしていいかわからなかったと思う。お父様とノクスを無事に取り戻せたのも、フレッドがそばにいてくれたおかげよ。本当にありがとう」
「ったく……。そんなにイイ顔で笑われたら、もう完敗だろ」
「え?」
「お前をそんな風に笑顔にできるのは、やっぱりあいつだけだって話だ」
自分では自覚がないが、そんなにだらしない顔をしていたのだろうか。改めて言われるとどんどん恥ずかしくなってしまい、アリシアは手に持っていた籠を上げてフレッドから顔を隠してしまった。
「でも、そうだな……。お前が気になるってんなら、今日の夜メシはお前が食べさせてくれよ」
「えぇ!? だって右手は使えるでしょ?」
「手を動かすと傷に響くんだよ。それくらい、いいだろ?」
そう言われてしまえば、断るわけにもいかないだろう。
そもそも食べさせること自体は嫌ではない。けれど、何というか年の近い異性に「はい、あーん」させるのは正直とても恥ずかしい構図だ。けれどそれがフレッドへの礼になるのならと、アリシアは照れを必死に抑え込んで頷いた。
「ホントにお前って、人を疑わないんだな」
「え? なに?」
「何でもねぇ。ノクスは裏庭にいたぞ」
別にノクスの居場所を探していたわけでもないのに、フレッドはそんな置き土産を残して去って行ってしまった。
逸る気持ちに気付きつつも、アリシアの今の目的はシーツを干すことだ。ちらっと薔薇の咲く一角に目を向けてみたが、もうそこにノクスの姿は見当たらなかった。
少しだけ残念に思いながらも、アリシアは持ってきた籠を置いてシーツを干し始めた。
太陽の光を浴びたシーツの白と青空のコントラストがなんとも言えず清々しい。石けんのにおいが風に攪拌されて、辺り一面さわやかな空気に満たされる。
気持ちよくて鼻歌を歌いながら残りのシーツを干していると、いつの間にかノクスが籠の中から次のシーツを取って手渡してきた。
「ノクス。いつからいたの?」
「お嬢様が調子の外れた鼻歌を歌い始めた頃からです」
「もう! 相変わらずなんだから」
シーツを受け取ると、かすかに指先が触れ合った。そんな些細な交わりにさえ、幸せを実感して頬が緩みそうになる。
「そういえばフレッドも裏庭を散歩してたみたいだけど、会った?」
「……えぇ」
少し言い淀むように、ノクスは短く返事をするだけだった。何かアリシアには言えないことでもあるのだろうか。気にならないと言えば嘘になるが、ノクスはもう重要な隠しごとはしないだろうと信じている。だからノクスが話さないのなら、それはアリシアに聞かせることではないのだろうと思った。
「フレッドといえばね、お礼に今日の夜ご飯を食べさせることになったの。手を動かすと傷が痛むらしくて……」
「お嬢様が、自ら食べさせるのですか?」
「う、うん。フレッドには今回お世話になったし、私に出来るがあればやってあげたいなって思って……。でも、ものすごく恥ずかしいから、ノクスは見ないでくれるとありがたいんだけど」
「却下です」
「早くないっ!?」
「むしろ、なぜ私がそれを許すと思ったのですか?」
眼鏡の奥で、ネイビーブルーが冷ややかに揺らめいた。思わず後ずさったアリシアを逃がすまいと、ノクスの腕が腰を攫って引き寄せる。
「ノクス!?」
「その体に痕を残さないと実感できませんか?」
覆い被さるようにノクスが身を屈め、青空を遮られたアリシアの視界に影が落ちる。そのままキスされるのかと思って瞼をぎゅっと閉じると、ぬるい吐息が耳朶を掠めて――。
「あなたは薔薇の……今はもう、ダンピールの花嫁ですよ」
あまやかな声音が首筋を転がるようになぞって、落ちて、触れる。やわらかな唇は思っていた以上に熱くて、まるで火傷しそうだと震えた瞬間、本当にチリッと鋭い痛みが走った。
咬まれるよりも、柔く。
薔薇の花びらよりも、赤く。
ノクスの残した痕は、アリシアの肌に、心に、強く刻み込まれていく。
「……ノクス、だめ。……見られちゃう」
「いい目隠しがあるでしょう?」
いたずらが成功した子供みたいに、ノクスが笑った。
どこまでも晴れやかに広がる青空と、きらきらまぶしい陽光の下。
風にやさしく翻るシーツの波に紛れて、アリシアは息継ぎもままならないくちづけに溺れていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます