第36話 帰ってきてくれてありがとう
暗闇のなかで、ひとりの少年が声を殺して泣いていた。
みすぼらしい服から伸びた手足は骨の形がわかるほどに痩せていて、顔にも首にも痛々しい痣が浮き出ている。
蹲って震えるその背中はあまりに小さく、あまりに儚く。思わず腕を伸ばして、傷だらけの体をそっと優しく抱きしめた。
腕の中で、少年がわずかに震える。怯えさせないように微笑んで、その痩せた手を両手で包み込んだ。
手を握りしめたまま、ゆっくりと歩き出す。少年を連れて進む先には、やわらかな光が降り注いでいる。
大丈夫。
戸惑い立ち竦む少年にそう告げて、アリシアは光の中を突き進んだ。
大丈夫。怖いことなんて、何もない。
繋いだ手にキュッと力を込めて、少年は闇の中から光のほうへ足を踏み出した。
アリシアは笑う。
少年も、ぎこちなく微笑む。
二人を包む光は春の陽だまりのようにあたたかく、一歩進むたびに少年の体から闇がはらりと剥がれ落ちていく。
少年を導いていた手はいつの間にか大きな手に握り返されていて、見上げたアリシアの瞳の青に、夜を思わせるネイビーブルーが重なり合う。
名前を呼ぶと、少年の面影を残した顔にやわらかな笑みが浮かんだ。
降り注ぐ光の中、赤い薔薇の花びらが舞い上がる。
二人の周りに、かなしい闇はもうどこにもない。
並んで歩くその道の先はどこまでも明るく、美しい。
だから、どこまでも一緒に歩いていこう。
二人で、これからも。
ずっと、手を繋いで。
***
カーテンから差し込む朝日がまぶしくて寝返りを打つと、額にコツンと硬い何かがぶつかった。
「……うぅん……?」
ぼんやりとした視界に、白い指の骨が見える。
――何だ、骨か。そう思いながら、今度は反対側に体を向けると、投げ出した手の先で「ゴファッ」と潰れた声がした。
いつもよりもベッドが窮屈に感じる。右にも左にも誰かがいるようだ。そんな違和感を覚えつつも、アリシアの意識は一向に覚醒しない。なぜか、体も心もひどく疲れていた。
何か夢を見ていたような気がする。けれどそれを思い出す前に、冷ややかな声がアリシアの脳を揺り起こした。
「おはようございます、お嬢様」
聞き慣れているはずなのに、すごく久しぶりに耳にしたその言葉にアリシアの眠気が一気に吹き飛んだ。
「……っ、ノクス!?」
慌てて飛び起きると、いつもの執事服に身を包んだノクスが立っていた。髪はきっちり後ろに流していて、よく磨かれた銀縁眼鏡を隔てた奥には夜の宝石みたいなネイビーブルーがキラリと光っている。普段より瞳の色がやわらかく感じるのは、朝日を映しているからだろうか。
「どうされました?」
「どうしたじゃないわ。体は? あんなに大怪我してたのに、どうしていつも通りに働いてるのよ」
昨夜はいろんなことが起きた。
異界からみんな揃って無事に戻ってきたあと、アリシアたちはひとまずロウンズ邸に集まった。ノクスは血だらけで衰弱していたし、メアリーも頭蓋骨にヒビが入っていた。扉を守っていたセドリックは無事だったが、フレッドは左の肩と脇腹を負傷しており、それぞれの手当が終わる頃には深夜をとうに過ぎていた。
ノクスは扉をくぐってこちら側へ戻るなり、張り詰めていた糸が切れたように意識を失ってしまった。アリシアの血――ということにしておいた――を飲んで傷は治っていたものの、体力と精神力はかなり疲弊していたらしい。セドリックの見立てでは、数日は寝込むことになるかもしれないと言っていたのだが――。
「お嬢様の血もいただきましたし、体は普通に動きますので問題ありません」
そう言うものの、ノクスの顔色はまだ少し青い。一ヶ月ものあいだ恐ろしい地下牢へ閉じ込められていたのだ。受けた傷が一晩でよくなるはずがない。
「無理しすぎだわ! ノクスはまだ寝てて」
「私もゆっくりしたいところなのですが、気になっておちおち寝てもいられません」
「気になる? 何が……」
「屋敷の惨状です。どうやったらこんなに散らかるんですか」
確かにノクスがいなくなってからの一ヶ月、支配の指輪や魔法具強化のために忙しくしていて、屋敷の掃除などには手が回らなかった。時間を見つけてできるだけ家事はしたつもりだが、それでも洗濯物や汚れた食器などはいつもの倍以上に溜まっていて、ついでに言えば屋敷の空気も少しだけ澱んでいる。
呆れた顔を隠しもしないままノクスが窓を開け放つと、さわやかな風がアリシアの肌を心地良く撫でていった。
「お嬢様」
ノクスが窓際に立ったまま、アリシアのほうを振り返る。陽光に照らされて淡く微笑むノクスは纏う雰囲気がとてもやわらかくて、彼の世界にようやく光が射したのだと実感した。
「私を連れ戻してくださって、ありがとうございます」
「ノクスも……帰ってきてくれてありがとう」
「早速ですが、お嬢様。――さっさと起きてください。掃除を始めますよ」
「えぇ!? 今の流れから言うこと!?」
いい雰囲気の余韻に浸っていたのに、ノクスはあっという間にスイッチを切り替えてすっかり執事モードに戻ってしまった。いつもと変わらないノクスに安心もするけれど、ほんの少しだけ気持ちが空振りした感もある。けれどそんなアリシアを一瞥しただけで、ノクスの視線は未だベッドに寝転がっている魔物三人へと向けられた。
「あなたたちも、狸寝入りしている暇はありませんよ」
「……バレタ!」
「ややっ! 私たちの眠ったふり作戦を見抜くとは、ノクス殿の心眼恐るべし!」
レオナルドとメアリーがもぞもぞと動くなか、ウィルだけは「すぴー」と可愛い寝息を立てて眠っている。本気寝らしく、メアリーに
「そもそも、なぜ彼らがここで寝ているのです?」
「昨夜いろいろやってたら遅くなっちゃって……ちょっと横になったら、そのまま眠っちゃったみたい」
「そうですか。……しかし、嫁入り前のレディが寝室に男を連れ込むなど褒められたことではありませんよ」
「男って……だってレオナルドとウィルよ?」
ノクスの顔はいたって真面目で、本気なのか冗談なのか判断が付かない。一応はレオナルドもウィルも性別上は男で間違いなのだけれど、植物と炎をそういう対象で警戒するのはどうかと思う。
「ぐふふ。ノクス殿、嫉妬しておりますな! しかし、私たちのことはお気になさらず! 濃厚なモーニングキッスをぶっちゅとかましてください! さぁ! さぁ!」
「……しょうがありませんね」
そう言うと、ノクスがアリシアのほうへ身を屈めてきた。
「えっ! うそ。ちょっと待って……っ!」
顔にふっと影が落ち、そのままキス――されるのかと思ったら、ノクスはアリシアの後ろにいたレオナルドをむんずと掴み上げただけだった。
「ひょぇ!? ノクス殿、くちづけは私ではなくお嬢に……」
「お嬢様。今夜はシチューにしましょう。今から煮込めばいいダシが取れそうです」
「またまた、ご冗談を。……ノクス殿? ノクス殿、どちらへ向かわれて……ノクス殿ーっ!」
レオナルドの悲鳴を全部無視して、ノクスが無言で部屋を出ていった。まさか本当に厨房へ行くつもりでもないだろう。メアリーとウィルがノクスを追って退室したので、アリシアはゆっくりと身支度をしてから食堂へと向かったのだが――。
朝食に用意されていたのは、ニンジンのポタージュだった。
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