第35話 帰りましょうか。ロウンズ邸へ

 唾液が血液という話はどうやら本当らしく、長いようで短いくちづけのあと、名残惜しそうに唇を離したノクスの体は完全に傷が塞がっていた。


「……わ……、ほ、ホントに傷が治っちゃった」


 何だか顔を合わせるのが恥ずかしくてノクスの体に目を向けたが、普段はかっちりと着込んでいて見えない肌が露出している様子に、アリシアは更に言葉を詰まらせてしまった。


「さすがは薔薇の花嫁ですね。けれどあれくらいでは体力までは戻りませんでしたので、万全とは言いがたいですが……」


 アリシアにしてみれはファーストキスで、しかもかなり濃厚な交わりだったのだけれど、ノクスはそうでもなかったらしい。薔薇の花嫁としての血の効果が薄いという意味なのか、それともキス自体に手加減をされていたのか。どちらにしろノクスが本気を出したら、アリシアはきっと耐えられないだろう。

 そんなことを考えて一人で赤くなっているうちに、ノクスはベッドから立ち上がってゆっくりと入口のほうへ歩いていった。まるでさっきのキスすらなかったことのように平然としている。その後ろ姿にほんの少し脱力したけれど、逆に普段通りに接してくれるおかげで、アリシアの心臓は思ったよりも早く落ち着きを取り戻してくれた。


「レオナルドたちが外で待ってくれてるの」


 約束の五分はとうに過ぎている。悪いことをしたと、ノクスを追い越して扉へ急ぐと、急に強い力で後ろに引き戻された。


「下がってくださいっ!」

「きゃっ……!」


 ノクスに腕を引かれ、彼の背後に庇われた瞬間、牢の鉄扉が外側から激しく吹き飛んだ。ノクスのおかげで大事には至らなかったが、あのまま進んでいたらアリシアは重い鉄扉の下敷きになるか、一緒に吹き飛ばされ壁に激突していたことだろう。

 ぞっとして顔を上げると、地下牢の仄暗い明かりを背にして、漆黒の長い髪をした男がひとり立っていた。


 恐ろしく美しい男だ。こちらを冷ややかに見つめる瞳はルビーよりも赤く、暗い闇の中でもほとばしる鮮血のように不気味に煌めいている。

 どことなくノクスに似ている美貌の男は、けれどノクスとは明らかに違う冷淡さを纏ったまま、まるでゴミを見るような目つきでアリシアたちを睥睨へいげいした。


「取るに足らぬ魔物と下賤な人間に、まさかここまでの侵入を許すとは……。警備を怠った者には、あとで罰を与えてやらねばならんな」


 淡々と告げる声音が、血塗られた牢の空気を静かに揺らしていく。それだけで周囲の温度が一気に下がった。

 体が……心までもが恐怖にさざめく。ただそこに立っているだけなのに、胸を押し潰されそうな圧迫感がアリシアを襲った。


 けれどもそれ以上にアリシアを恐怖にさせたのは、男の右手に頭部を鷲掴みにされ、床を引きずられているメアリーの姿だった。


「メアリー!」

「タ、タスケテェ……」


 必死に逃げようともがいているから、一応は無事なのだろう。レオナルドとウィルも、メアリーを掴む男の手に攻撃を加えている。けれど力の差を考えるまでもなく、二人の攻撃はまったくといっていいほど男には通用していない。

 男にとってレオナルドたちは羽虫と同じか、もしくは最初から眼中にすら入らない存在ということか。赤い瞳は少しも逸らされることなく、ノクスだけをじっと見つめている。


「ノクス。お前は一族の汚点だ。その姿を誰にも見られてはならぬ。姉上の子ゆえ情けをかけ生かしておいたが、まさか人間界へ逃げ出していたとはな。……だが、そのおかげで薔薇の花嫁が釣れたのは僥倖ぎょうこうだ」


 男の言葉に、アリシアがハッと目を見開いた。

 男は確かに、姉上と言った。ならばノクスにとって、この男は叔父にあたる人物ではないのか。

 肌に感じる力の強さや言葉の端々から想像するに、男は城の主で間違いないだろう。アリシアにでもわかるほどの強大な力の波動を感じる。おそらくだが、この男はヴァンパイアの中でもかなり力の強い権力者だということが窺えた。


 そんな男の血を引くノクスは、純血であったならば、かなり地位の高い立場にいたはずだ。

 高貴な立場のヴァンパイアが人間の血を引いている。ヴァンパイア一族の血統を何より尊ぶ彼らにとって、ノクスの存在はアリシアが思っている以上に許せないものだったのだ。


「ノクス、お前は牢へ戻れ。今なら許してやろう。淡い期待など捨ててしまえ。お前は一生、その薄汚い闇から抜け出すことはできぬ」


 血の繋がりで言えば、男のほうこそ本当の家族だ。

 けれどノクスを見るその目に、その表情に、声音やわずかな態度にさえ、家族らしい情など何ひとつ感じられない。


「素直に言うことを聞けば……そうだな、お前でヴァンパイアたちは粛正してやってもよいぞ」


 その言葉にノクスがびくりと体を震わせた。背に庇われたアリシアにノクスの表情は見えなかったが、それでもひどく動揺していることだけはわかった。

 大丈夫だと伝えるように背後から強く抱きしめると、前に回したアリシアの手にノクスの手のひらがそっと重なる。それを見て、男が忌々しげに目を細めた。


「血は争えんな。人間如きにうつつを抜かすなど、ヴァンパイアの面汚しだ。だが、その女は我がもらうぞ。薔薇の花嫁……お前には過ぎた血だ」

「……逆ですよ」


 ここではじめて、ノクスが男に返答した。さっきよりも気持ちが落ち着いているのか、ノクスの声は思ったよりもしっかりと響いていく。ロウンズ邸でアリシアがよく耳にしていた、なつかしいノクスの声音だ。


「……なに?」

「血はおろか、彼女のすべてがあなたたちヴァンパイアには過ぎた宝です」

「出来損ないが一人前に吠えるな。お前などこやつらと同じように片手でもひねり潰せるのだぞ」


 そう言った男が、メアリーの頭を掴んでいた手にぐっと力を込める。細い指が食い込んで、メアリーの頭蓋骨にわずかなヒビが入った。


「ギャーッ! ワレル! ワレル!」

「やめて! メアリーを離して!」


 あまりにもひどい暴力に、アリシアは思わずノクスの前に飛び出した。即座に腕を掴まれ引き戻されたが、アリシアと男の間には一瞬だけ赤い光がまたたいて――。

 次の瞬間、男は困惑した表情を浮かべたままその場に跪いていた。


「なん、だ……っ!? 貴様……、我に何をした!」


 何が起こったのかわからず動けないでいる男の横で、拘束を解かれたメアリーが床を這うようにしてアリシアのほうへ逃げてくる。その体を抱きしめて受け止めると、メアリーはアリシアにぎゅうっとしがみ付いて「びぇぇ」とウィルみたいに泣いた。


「ごめんね、メアリー。もう大丈夫だから!」

「コワイ。アノヒト、ヤダ」


 罅割れた頭蓋骨に触れるのはためらわれたので、ゴツゴツした背中――の骨を優しく撫でてやる。その手に嵌められた指輪を見て、跪いたまま硬直した男が赤い双眸をカッと見開いた。


「まさか……、支配の指輪!?」


 驚愕の表情を浮かべる男に、アリシア自身も驚いた。自分でも知らないうちに支配の指輪が効果を発していたようだ。

 アリシアはただメアリーを助けたい一心だったのだが、命令のつもりでなくとも効果があるのなら、下手に喋らないほうがいいかもしれない。そう思っていると不意にノクスに腰を引き寄せられ、その片腕のなかに抱きしめられた。


「薔薇の花嫁は私がいただきます。人間と半端者ごときに後れを取ったことを知られたくなければ、もう私たちには関わらないでください」

「私たち格下の魔物のこともお忘れなくっ!」


 すかさず割り込んだレオナルドの言葉にノクスがふっと笑う。


「そうでしたね。雑草とガラクタと泣き虫にしてやられたとなれば、ヴァンパイアの威厳も失墜するでしょう」

「我がそれを黙って見過ごすとでも思うのか。地の果てまでも追いかけて、お前たちの四肢を裂き、生きたまま臓物を引きずり出してやるぞ」

「そうしたければ、勝手にやるといいでしょう。けれどこちらには支配の指輪がある。それに次の新月には、もう……この世にので」


 含みを持たせた言い方をして、ノクスが片腕に抱き寄せたアリシアの耳朶を食む。


「ひゃふっ!?」

「もう少し、色気のある声は出ませんか?」

「でっ、出ないわよっ! こんな時に」

「なら、帰ってから嫌というほど教えて差し上げましょう」


 陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせるアリシアから視線を逸らして、ノクスが床に座り込んだままのメアリーたちを一瞥した。


「帰りますよ」


「うん」だとか「カエル!」だとか「ノクス殿~」だとか、それぞれが元気に返事をしてノクスのそばに這い寄ってくる。メアリーが背後からノクスの腰にしがみ付き、そのメアリーの肩にレオナルドとウィルが乗り込んだ。


「待って、ノクス。私、転移石を持ってるわ」

「転移石は貴重なものなので取っておいてください」

「でも上にはまだ敵がいるかも……」

「ご心配には及びません」


 そう言うと、ノクスは今まで見たこともないほど自信たっぷりに笑った。


 しゅるり、と足元に風が絡みつく。アリシアのスカートをふんわりと揺らして渦を巻く力の波動はノクスを中心にして大きく膨れ上がり、その振動と質量に耐えきれず、血塗られた地下牢の石壁がミシミシと悲鳴を上げはじめた。脆い部分からがらがらと音を立てて崩れ始めた地下牢の中、男はまだ悔しげにノクスを睨んで蹲ったままだ。


「お嬢様。最後にもう一仕事、お願いします」

「え? なに?」

「私たちを追って来ないように、彼を眠らせてください」


 見れば、男は術の効力を強い精神力ではね除けて、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。そもそもアリシアもメアリーを解放するよう叫んだだけだ。恐ろしさのあまり近付いてほしくないという気持ちが上乗せされて、一時的に男の動きを止めていたに過ぎない。


「わかったわ。……でも、私もひとつ……付け加えてもいい?」


 ノクスは不思議そうにアリシアを見たが、止めることはしなかった。アリシアも指輪を使ってひどいことをするつもりはない。それをやってしまえば、ノクスを虐げた彼らと同じだ。

 けれど指輪を使ってでも、どうしてもやりたいことがある。


 ノクスに似た容姿の男をじっと見つめて、アリシアは指輪を嵌めた右手をスッと挙げた。


「ノクスに謝って」


 強く、そう命じると、ノクスが息を呑む音が聞こえた。


「なぜ我がそんな半端者に謝らねばならぬ。ごめんなさい」


 ものすごく自然に口から出た謝罪に、男の顔がこれ以上ないくらい憤怒の表情に歪んだ。


「貴様……っ、許さんぞ! 生きてここから逃がすので許してください。……っ、殺すっ! お前だけは絶対にすみません、殺してやるっ!」


 壮絶な怒りの合間に許しを乞う男の姿は滑稽すぎて、既にレオナルドたちは失笑している。アリシアもまさかこんな風になるとは思っておらず、若干申し訳ない気持ちになってしまった。けれど彼が今までノクスにしてきたことを思えば、これくらいは当然の報いかもしれない。

 もう少しちゃんと心のこもった謝罪を期待したが、命令では男の心まで改心させることは難しいだろう。今はこれが精一杯だ。


 そろそろ視線だけで殺されそうな勢いだったので、男には深く眠ってもらうことにした。ついでに地下牢での出来事は忘れてもらえるとありがたい、と付け足すと、呆れたようにノクスがため息をつく。


 もしかしたらノクスにとって、男の謝罪など何の意味もなかったのかもしれない。そう不安になりながら様子を窺うと、何ともいえない表情を浮かべたノクスと目が合った。


「あなたは本当に……」

「ご、ごめんなさい。でも、どうしても許せなくて……。ノクスの心も少しは晴れるかなっ、て思ったんだけど。……ちょっと方向性が違ってたみたい」

「そうですね。でも…………ははっ」


 居たたまれなくて俯いていると、アリシアの耳をノクスの笑い声が掠めていく。冷笑でも失笑でもなく、心の底から楽しげに笑う声だ。

 思わず見上げたアリシアの瞳に映るのは、子供の頃のあどけなさを彷彿とさせるノクスの無邪気な笑顔だった。


「……ノクス」

「――帰りましょうか。ロウンズ邸へ」

「えぇ!」


 アリシアも花が綻ぶように微笑んで、ノクスの首に腕を回して抱きついた。


 溢れ出すノクスの魔力に耐えきれず、地下牢が内側から破裂するように吹き飛んだ。崩壊は城の一階部分にまで及び、見上げた頭上には白い星の瞬く夜空が見える。


 アリシアを両腕に抱いて、ノクスが床を蹴った。腰にはメアリーも引き連れたまま、がらがらと降り注ぐ瓦礫を足場にして軽やかに地上へと跳び上がる。勢いを殺さず夜空にまで駆け上がったノクスに驚いて目を開くと、眼下に赤い薔薇の海が広がっていた。濃紺の空を切り裂いて、赤い地平線がどこまでも続いている。


「……きれい」


 思わずこぼれた言葉に、アリシアは慌てて口を塞いだ。どんなに美しい景色だろうと、この世界はノクスを虐げたおぞましい場所だ。血の薔薇が咲き乱れる光景は、きっとノクスにとって忌まわしい景色に違いない。

 けれど恐る恐る見上げたノクスは、まるで憑き物が落ちたみたいに清々しく微笑んでいて。


「あなたがそう言うのなら、嫌いだった薔薇も好きになれそうな気がします」


 その顔に思わず見惚れていると、掠めるように、また唇を奪われてしまった。



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