第34話 私はこの手をはなさない
声は少し掠れていて、覇気がなかった。それでもアリシアの足を止めるほどの鋭利さは残っていて、薄暗い室内に束の間の沈黙が漂った。
「まったく……こんなところまで来るなんて、無謀にもほどがあります」
ノクスはベッドと壁の間に座り込んでいるのだろう。その姿は闇に紛れてはっきりとは見えないが、かすかな息づかいはノクスが確かにそこに存在していることをアリシアにしっかりと伝えてきた。
間に合った。
生きている。
無事とは言えないけれど、それでも再びこうしてノクスの声を聞けたことに安堵して、アリシアの体から力が一気に抜け落ちた。座り込みそうになるのを必死に堪えて一歩踏み出せば、近付くアリシアを拒絶するようにノクスがわずかに身を退くのがわかった。
「聞こえませんでしたか? それ以上、こちらへは近付かないでください」
「ノクス。一緒に帰りましょう。私たち、みんなであなたを迎えに来たわ」
「言ったでしょう。私はもう戻れません」
「どうしてそんなこと言うの? 私たち……私はもう、ノクスが何者なのか知ってる。それでもそばにいてほしいって思ったから、ここにいるのよ。それじゃ、ダメなの? それとも、もう……ノクスは私と、一緒に……いたく、ない?」
ノクスは黙ったままで、その無言がアリシアの勇気をじわじわと削っていく。
誰もが、ノクスを連れ戻せるのはアリシアだけだと言った。その言葉に勇気をもらったけれど、やっと再会したノクスは顔すら見せてくれないまま、アリシアの思いにもひたすら無言を貫いている。そうしている間にも時間はどんどん過ぎていき、敵に見つかるかもしれない不安が再び胸の奥に染み出してきた。
「ね、とりあえず……ここから逃げましょう。話は屋敷に戻ってからでも……」
「……私は一緒に行けません」
「っ、どうして! こんなところに……こんなっ……ノクスを傷つける場所にいていいはずがないでしょ! ねぇ、どうしたらいいの? どうしたら伝わるの?」
思わず荒げた声がスイッチになって、アリシアの視界が涙に歪んだ。
部屋のあちこちに染みついた血痕。薄闇の中に浮かび上がるおぞましいその色は、闇に隠しきれない暴力の痕だ。
命を、人の尊厳を踏みにじるような場所にノクスを置いてはいけない。そう気持ちばかりが焦るのに、当の本人は何をどう思っているのか、この期に及んでまだ本心を打ち明けてはくれない。
それが悲しくて。
けれど、逆に力尽くでもここから引っ張り上げなければと思った。
「私はノクスが好き。ノクスにそばにいてほしいの。これからも……ずっと!」
叫ぶように思いの丈をぶつけると、アリシアの中で最後の箍が外れた。
「ノクスがダンピールだって、そんなの百も承知よ。それでもノクスがいいって言ってるの! 毒舌だって、ダンピールだって、構わないわ。それがノクスなんだもの。そういうノクスが好きなんだもの!」
「住む世界が、違います。私ではお嬢様をしあわせにはできません」
「しあわせになんかしなくていい。自分のしあわせくらい自分で掴むわ!」
頑なにアリシアの言葉を拒絶するノクスに、だんだんと腹が立ってきた。誰もノクスにしあわせにしてほしいわけじゃない。アリシアはノクスと一緒に、しあわせになりたいのだ。ノクスの秘密も、過去も、その悲しみも苦しみも受け止めて、これからも一緒に生きていきたい。ただそれだけだ。
「ノクスだってしあわせにしてみせる! こんなに恐ろしい場所なんかじゃなく、ノクスに相応しい場所はこっちにある。私の生きる世界が、ノクスの生きる世界よ。今までだってそうしてきたじゃない。恐れないで。誰もノクスを恐れてなんかいないから」
一歩、ノクスのほうへ近付いた。わずかにノクスが動く気配がする。けれど、もう近付くなとは言わなかった。
「私の手を取って、ノクス。あなたが何者であろうと、私はこの手をはなさない」
もう一歩、近付いた。ノクスはもう、怯えて震えることはない。しばらく待つと、諦めたように溜息をつく音が聞こえた。
「……あなたは……本当に予想外のことばかりしますね。そのたびに私がどれほど気を揉んだかお分かりですか?」
「だって、仕方ないじゃない。ノクスが勝手にいなくなるんだもの」
「人の話は聞かない。何度止めても危険の中へ飛び込んでいく。無自覚に他の男を惹きつける。身を切る思いで立ち去ったのに、こうも簡単に私の決意を砕いてくる。本当に……厄介なひとですね」
空気が和らいだ。ノクスはもうアリシアを拒絶していないことが、物言わぬ背中から伝わってくる。
触れたくて。早くその熱を確かめたくて。けれど逸る心を慎重に抑え込んで、アリシアはノクスの心を閉じ込める最後の扉にゆっくりと手を伸ばした。
「ノクス。そっちにいっても、いい? 顔を見せて」
「……見られたくありません」
言葉は拒絶しているのに、それを発する声音はひどくやわらかい。だからほんの少しだけ、わがままを言ってみた。
「私は見たいわ。ノクスの顔」
ゆっくりと、足音をわざと大きく立てて近付いた。ベッドを回り込んで壁際に向かうと、床に座り込んだままぐったりとしているノクスの姿が目に入った。
白いシャツはボタンがすべて千切れてはだけており、さらされた肌には未だ乾かない鮮血がべっとりと張り付いていた。赤く腫れた箇所もあれば、内出血を起こして青黒く変色している部分もある。見ているだけでこちらにも痛みが伝わりそうなくらい壮絶な姿だったが、アリシアはノクスから決して目を逸らすことはしなかった。
ノクスが体に、心に負った傷を、アリシアが直に共有することはできない。だからできることと言えば少なくて、それを求められているのかどうかはまだ不安だけど。
痛みと不安で傷ついた心が少しでも和らぐようにと――アリシアはノクスの体をふわりと包み込むようにして抱きしめた。
「……やっと、つかまえた」
体の自由を奪われ、指一本さえ動かせなかったあの夜とは違う。
深い霧に邪魔をされ、姿を見失ってしまったあの夜とも違う。
抱きしめる腕にしっかりと伝わるノクスの熱。ノクスのにおい。もう絶対に離れたくないと伝わるように、アリシアはノクスを抱きしめる腕にキュッと力を込めた。
「汚れますよ」
「構わないわ」
「……そうですか」
少しだけ、甘えるように首筋に頬を寄せてみる。
とくん。
とくん、と。互いの心音が密かに重なったのを合図にして、ノクスがゆっくりとアリシアの背中に腕を回した。壊れ物を扱うように、ふんわりと儚い力だ。それがもどかしくて、アリシアは代わりにもっと強くノクスを抱きしめた。
抱きしめ合っていた時間は、一分にも満たなかったかもしれない。それでもアリシアの心は満ち足りていて、それはきっとノクスも同じなのだろう。ゆっくりと体を離すと、近い距離で見つめ合ったあと、二人してどちらからともなく微笑み合った。
「ノクス、立てる?」
立ち上がろうとするノクスの体を、横から支えてやる。けれど数歩進んだところで、ノクスはふらついてベッドに倒れ込んでしまった。
「すみません。……血を、流しすぎました」
確かにこの部屋に残された血痕の量を見れば、ノクスが動けないのも頷ける。むしろ、まだ意識を保っているほうが不思議なくらいだ。
ノクスが怪我をしていることも考えて、アリシアは治癒薬もいくつか持ってきてはいる。けれど、そんな薬よりもっとよく効くものがあるはずだ。そしてそれを、アリシアだけが与えられる。
「ねぇ、ノクス。血を吸ったら……元気になったりする? それなら私の」
「必要ありません」
最後まで言わせてもらえず、即座に強い口調で却下された。けれどノクス自身はまだベッドから起き上がることができないようで、体力の消耗は目に見えて明らかだ。
「そんなこといってる場合じゃないでしょ。早くしないと敵が来るかもしれないし、それに……私はもうノクスのことを受け入れているんだから、血を吸われるのも……ノクスだったらいいわ。薔薇の花嫁の血だもの。傷くらいあっという間に治っちゃうかもしれないし」
「そのお気持ちだけでじゅうぶんです」
「血を吸う行為にためらいがあるのはわかるけど、一刻を争うんだし……見られたくないなら私は目を瞑っているから。……でも、優しくしてくれるとありがたいわ」
急かすように体に触れた手を、逆にノクスに掴まれる。その力はやっぱりいつもよりずっと弱くて、アリシアでもすぐに振り払えそうなくらいだ。
やがてゆっくりと体を起こしたノクスは、ベッドに腰掛けたまま項垂れるように頭を抱えてしまった。
「ノクス!? 大丈……」
「吸血行為には性的興奮を伴います」
「……へ?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
けれど顔を上げたノクスと目が合った瞬間、アリシアの頬が一気に朱に染まった。
「あー……、えっと……今の、なしで」
「私もこんな色気のない場所で興奮するのはごめんです」
「そっ、そうよね! そう言うのはもっと、ちゃんとしたあれでやるほうがいいに決まってるもの」
恥ずかしすぎて、まともに喋っている気がしない。ノクスの顔を見ることもできなくて、屈めていた体を慌てて仰け反らせる。けれど今度はノクスのほうがアリシアの腕を掴んで、逃げることを許さないようにグイッと強めに引き寄せてきた。
「きゃっ!」
「知っていますか? お嬢様」
再び間近に見つめたノクスのネイビーブルー。涼やかで、静謐の夜を思わせるその瞳が、ほんのりとあまやかな熱に揺らめいた。
「咬まずとも、血と同等の効果を得られる方法があるんですよ」
「そ、そうなの!? それは便利ね! ……っていうか、ノクス。ちょっと近くない!?」
「試してみてもいいですか?」
「試すって、何を……」
ノクスが更に腕を引くものだから、アリシアは思いきり前屈みになってしまった。何ならそのままノクスを押し倒してしまいそうな勢いだ。
必死になって耐えていると、今度は逆の腕で首の後ろを掴まれてしまい、うなじに触れたノクスの指先に一瞬だけ体から力が抜けてしまう。その隙に、ノクスがアリシアの後頭部に回した手を優しく引き寄せた。
「唾液はもともと血液なんですよ」
反論も羞恥も驚きも、呼吸すらこぼす暇がなかった。
最初は許しを乞うように。淡く触れるだけのくちびるが小鳥の啄みのように軽やかさを纏うと、それだけでは物足りないと次第に深く奥まで重なり合ってゆく。
腕を、首を引き寄せる腕の力に。
絡まり合うくちびるの熱に。
アリシアはとろりと溶け落ちて、ノクスと一緒に混じり合う――そんな幸福感に満たされていくようだった。
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