第3章 闇の楔
第18話 アイノ、イトナミ
ワーウルフの一件から三日が過ぎた。
その間アリシアは言いつけを守って屋敷から一歩も出ず、セドリックの書斎や仕事部屋にこもる日々が続いた。父の行方に繋がる何かが見つかればと思ったが、セドリックの部屋は彼がいなくなってから散々探したので、今更目新しい情報が得られることはなかった。
けれど今回はそこに別の目的もある。薔薇の花嫁と、支配の指輪のことだ。
ノクスからほとんど話は聞いたが、それでも自分なりに整理してちゃんと理解しようと思ったのだ。他にやることがない、というのも理由のひとつではある。
「チャ、イレタ。ノモウ」
セドリックの書斎にある本を流し読みしていると、ノックと共にメアリーが紅茶を持って入ってきた。彼女の肩にはウィルとレオナルドが座っている。
ワーウルフに噛み付かれ、裏庭の土壌で養生していたレオナルドの足も今はすっかり完治している。たっぷりと栄養を吸い込んだのか、体は一回り大きくなったようだ。
「メアリー、ありがとう」
書斎の机に散らばっていた本を脇に押しやって、空いたスペースにトレイを置く。今ではメアリーもメイド業にずいぶん慣れたのか、お茶を淹れる手つきも様になっている。
今日のおやつはカラフルな色合いがかわいいマカロンだ。ノクスが買ってきてくれたものなのだが、屋敷から出られないアリシアを思ってのことなのだろう。おやつがなくなる頃合いを見計らって、毎回新しいお菓子を買ってきてくれるのだ。
甘いおやつの餌に釣られている感じがしないでもないが、それでもノクスの気遣いと、正直おいしいお菓子には心がほっこりとしてしまう。
「何か新しい収穫はありましたかな?」
専用のグラスに注がれた水に浸かりながら、レオナルドが机の脇に寄せた本を指差して聞いてきた。
「ううん。特には、なにも。薔薇の花嫁のことについてはいくつか本が見つかったけど、支配の指輪やお父様の行方に繋がるものは見つからないわ」
ヴァンパイア関連の古い本には、確かに薔薇の花嫁の記載があった。けれどその内容のほとんどはノクスから聞いた話と同じだ。
数百年に一度、生まれるか生まれないかという稀少な血を持つ純潔の乙女。その血はヴァンパイアの能力を底上げする力が秘められており、薔薇の花嫁の血を飲んだヴァンパイアは軽く二百年は異界の王として君臨することができるほどだという。
ただでさえ強力な一族で、現時点でも異界の頂点に君臨しているヴァンパイア。彼らがこぞって薔薇の花嫁を欲するのは、ヴァンパイア一族内の覇権争いが理由だ。
異界最強の一族の中で誰が頂点に君臨するのか、ヴァンパイアたちはその最強の王の座を誰もが虎視眈々と狙っているのだ。
今までも、薔薇の花嫁を巡って異界が混乱に陥ったことはあったらしい。ヴァンパイアの中で派閥ができ、自分が従うヴァンパイアに薔薇の花嫁を献上しようとする魔物たちが争いを始めたのである。
薔薇の花嫁がヴァンパイアに捧げられたという記述はなかったが、伝わっていないだけで過去には生贄になった花嫁もいたのだろう。ヴァンパイアのみならず、多くの魔物たちに狙われたのなら、無力な人間は為す術がない。
今でこそ魔晶石の研究が進んで人は武器を手に戦うこともできるが、それでも異界最強と謳われるヴァンパイアが襲ってきたらひとたまりもない。
書物を読んで、薔薇の花嫁の認識を改めて頭にすり込んだアリシアは、いままでの自分の行動にノクスがいかに心を悩ませていたのかを知ってしまった。
アリシアはノクスやフレッドのように、戦う術を持たない。彼らが身を挺して守ろうとしてくれているのだから、アリシアはその思いを踏みにじるようなことは決してしてはいけないと心に刻んだ。
たとえ屋敷から出られなくて退屈を持て余していても、それがアリシアにできる最善なのだと、今ではその意味をいやというほど理解していた。
「支配の指輪も……見つかって、ない?」
「そうね。お父様が厳重に保管してるってノクスは言ってたけど、この部屋にそれらしいものはなさそう」
「そう……よかった」
ウィルは明らかにホッとした表情を浮かべている。それもそうだ。魔物を操る指輪なのだ。ただでさえ怖がりのウィルが怯えないはずはない。
「何ですか、ウィル。支配の指輪でお嬢が我々を操るとでも?」
「そ、そうじゃないよっ。そうじゃないけど……やっぱり怖い、もん。そんな物騒な物が近くにあるの……みんなは怖くない、の?」
「ノープロブレム! 操られずとも私はお嬢のそばを離れませんので」
「オマエ、イラナイ、イワレタラ?」
「何があろうと……え? いらな……え? ……お、お嬢?」
さっきの勢いは葉っぱと一緒にシュンと萎れて、レオナルドがウィルより泣きそうな顔でアリシアを見上げてくる。その様子があまりにかわいくて、アリシアはつい声を漏らして笑った。
「大丈夫よ。レオナルドもウィルもメアリーも、今では大切な友達だわ。みんなこそ、危険かもしれないのに私のそばにいてくれてありがとう」
「お嬢~~! お嬢を狙う魔物は私たちが撃退してやりましょうぞ! 薔薇の花嫁か何か知りませんが、お嬢は奴らのおもちゃではありません」
「そう、だよね。むしろノクスさんの花嫁だもんね」
しれっと爆弾を落としたウィルの発言に、アリシアは声と息をまとめて喉に詰まらせて盛大に噎せてしまった。
「ちょっ……と、なに言って」
「だってノクスさん、お姉ちゃんが他の人に取られそうになってるから、あんなに必死になってるんじゃないの?」
「そっ、それとこれとは話が別よ! ノクスはお父様に頼まれて行動してるの。そういうんじゃないわ」
「そうですかな? ワーウルフにお嬢が襲われた時のノクス殿は、それはもう地獄の魔王かと思うほどに恐ろしかったですぞ? 俺の~、女に~、手を出すな~……みたいな」
後半はやけに美しいリズムを取って歌うように語ったレオナルドに、ウィルが青い炎をパチパチ散らして合いの手を打つ。なまじよく通る美声なので廊下の外にまで響いていそうだったが、幸いノクスはいまフレッドと一緒に街へ情報収集に出かけていて屋敷にはいない。それが唯一の救いだと胸を撫で下ろしたアリシアだったが、頬の熱はしばらく収まりそうにはなかった。
「余計なこと言わないで!」
恥ずかしさのあまり、レオナルドの頭を水の中へぐいっと押し込んでみる。けれど一回り大きくなったレオナルドの体はグラスにぴっちりとはまり込んで、水だけがテーブルの上に溢れるだけとなった。
「ヨケイ、チガウ。ヨメ、ナレ。ノクスノ」
からかうでもなく、いたって真面目な口調でそう言ったメアリーが、読んでいた本をテーブルの上に置いた。アリシアもさっき読んだもので、ヴァンパイアのことについて書かれているものだ。開かれたページには薔薇の花嫁の記述があり、その一文をメアリーの細い指――の骨がなぞる。
そこには「薔薇の花嫁は純潔の乙女」と記されていた。
「ネ?」
かわいらしく首を傾げるメアリーの前では、彼女の言わんとすることを悟ったレオナルドが葉っぱを器用に動かして自身の目を覆った。
「いやん、メアリー。まだ昼ですぞ……」
「アイノ、イトナミ。ウツクシイ」
「わぁぁぁぁ! なんてこというの! ダメッ! 禁止! 二人とも口噤んで!」
別にいかがわしいことが書いてあるわけでもないのに、アリシアは開かれた本をひったくる勢いで手に取ると「封印」と言わんばかりにバタンッと乱暴に閉じた。そんなアリシアを見て、なぜかウィルだけはきらきらと瞳を輝かせている。
「純真無垢なお姉ちゃんの花嫁姿……とっても綺麗なんだろうねぇ」
うっとりと呟くウィルのほうが無垢すぎて、アリシアは「純潔」の言葉に照れている自分がひどく穢れた存在に思えて仕方がなかった。
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