第19話 フレッドはそんなことしないわよ
夕方前に帰ってきたノクスの肩には黒猫――ケット・シーが乗っていた。野良猫ネットワークを通じて得た情報を元に、今日もノクスたちと一緒に行動していたのだ。
人間社会に隠れて生きる魔物を見つけるのに、ケット・シーのネットワーク網は意外と役に立っているようだ。まだギルドの手配書に載っていない魔物の情報も多く、ノクスとフレッドは連日魔物退治に追われている。
疲れて帰ってくるノクスの負担を少しでも減らそうと、ここ数日アリシアはメアリーと一緒に夕飯作りをがんばっている。それまで料理らしい料理を作ったことがなかったが、意外にも手先の器用なメアリーに救われた。
それでもアリシアが作ったものより、ノクスの料理のほうが何倍もおいしかったりするのだが。
「お帰りなさい、ノクス」
「ただいま戻りました。変わりはありませんか?」
「うん、大丈夫。ノクスは? 怪我とかしてない?」
「ご心配には及びません」
ノクスの帰宅後、毎回行うこのやりとりが何だか新婚みたいでドキドキする。そう思っているのはアリシアだけだろうか。ノクスの表情を見たい気もするけれど、いつもの無表情だったらそれはそれで少し悲しい気もする。
結局アリシアは今日もノクスの顔を見ることができないまま、彼の肩に乗ったケット・シーへ視線を逸らしてしまった。
金色の瞳と視線が絡み合うと、ケット・シーが意味深にニヤリと笑う。
「何じゃ、新婚みたいじゃの」
「はぅっ!」
「照れるな、照れるな。おぬしとて、あやつらとそういう話で盛り上がっておったではないか」
「な、何の話!? そんなことしてな……」
「こやつに純潔を捧げるとかなんとか」
「わぁぁぁぁぁっ!!」
ケット・シーを捕まえて追い出そうとしたアリシアだったが、慌てすぎて自分の足に躓いてしまい、ノクスの胸へ自ら飛び込む形となってしまった。ノクスは冷静にアリシアの体を抱きとめてくれたのだが、その拍子に彼の肩からケット・シーがぴょんっとアリシアのほうへ飛び移る。そして耳元に顔を寄せると、からかうようにささやいた。
「そのまま誘惑するんじゃ。案外コロッと落ちるやもしれんぞ」
ささやく声は小さく、それはきっとノクスには聞こえていない。けれどケット・シーの言葉と体を支える強い腕の感触に、アリシアは全身から汗が噴き出すのを感じて慌ててノクスの腕の中から抜け出した。
その勢いのまま、自分の肩に乗っているケット・シーをむんずと掴むと、ノクスから逃げるようにして壁際へと避難する。
「なんてこと言うのよ!」
「わしのネットワークを舐めるでないぞ」
「舐めてないけど、今のは伝えなくていい情報よ。私だってそんなつもりないから」
「おぬしもウブよのぅ? 好いた男に抱かれるのなら本望じゃて」
「あなたもう喋るの禁止っ!」
「……何の話ですか」
「きゃあっ!」
いつの間にか背後にはノクスが立っていて、アリシア……ではなくケット・シーをジトリと睨みつけていた。
「お嬢様に余計なことを吹き込まないでください」
焦るアリシアとは逆に少しの動揺も見せず、ノクスがケット・シーの首根っこを掴んで持ち上げる。相変わらずケット・シーは「不敬罪だ」と喚いていたが、ノクスは一言も聞く気がないのか、そのまま廊下の窓を勢いよく開け放った。
「待て待てぇ! 今日の報酬は!?」
「あれくらいの情報で報酬を得ようとは甘いですよ。それにさっきので、わずかだった今日の評価がマイナスです。マタタビが欲しいのなら、もっと身を粉にして働いてください」
そう言うと、ノクスは何のためらいもなくケット・シーを窓の外へと放り投げてしまった。
「ノクス!?」
「仮にも王を名乗る猫です。心配ないでしょう」
ノクスの言葉通り、ケット・シーの切ない鳴き声は案外すぐに聞こえてきた。それでももう彼を中に入れるつもりはないようで、ノクスは窓に背を向けると一人ですたすたと歩いていく。
アリシアも置いていかれまいと後を追えば、ややあってからノクスが一旦足を止めて振り返った。お互いの視線は重なり合ったものの、ノクスにしてはめずらしく何か言い淀むように視線をさまよわせている。
「……確かに薔薇の花嫁は純潔であることが条件です」
「聞こえてたの!?」
アリシアの動揺など見ないふりをして、ノクスは淡々と言葉を続ける。
「けれどそのためにお嬢様が望まぬ夜を迎えることを、セドリック様は回避しようとなさっていました。セドリック様の思いを無駄にしませんよう」
「そ……そんなこと、言われなくてもしないわよっ」
「それなら純潔の件はフレッドにも内密にお願いします」
「え? どうして?」
元々そんなことを言うつもりはなかったが、改めて釘を刺されると理由が気になってしまう。本当にただの純粋な疑問だったのに、ノクスの眉間には深い皺が刻まれてしまった。
「とうとう手段がなくなれば、お嬢様を守るためという理由を盾にして最悪の場合、力尽くで……ということもあり得るからです」
「フレッドはそんなことしないわよ」
「お嬢様は男というものを知らなさすぎます。理性の枷が外れれば、何をするかわかりません」
フレッドは父の仕事仲間で、友人だ。彼に嫌なことをされた記憶はないし、今回だってアリシアを助けるためにノクスと協力してセドリックの情報を集めてくれている。少し粗野なところはあるが、ハンター仲間と楽しそうにしているところを何度か見かけたし、基本仲間思いのいい青年だ。
そんな彼が、アリシアに無理を強いることはないと思っている。それでも彼が男であるがゆえに暴走するというのなら、同じ男のノクスも理性が飛べばアリシアを組み敷くことがあるのだろうか。
さっき躓いた体を抱きとめたノクスの腕の力を思い出して、アリシアの心の奥がぞくりと震えた。
「……それならノクスも……そう思うことが、あったりするの?」
ほんの少し勇気を振り絞って、小さな一歩をノクスの心へ踏み出してみる。
こわい。
でも、ノクスの心を……のぞいてみたい。
「私は……」
静かに落ちる声と共に靴音が響く。
俯いているのに、アリシアにはノクスが背を向けて歩き出したことがわかった。
「執事である私がお嬢様に手を出すことなどありえません」
ひやりと。アリシアの心に落ちたのは、感情の見えないノクスの言葉か。それとも、あるいは瞼を押し上げてこぼれた一粒の涙か。
遠ざかっていく靴音に追い縋りたい思いの裏で、誰もいない廊下の静けさに安堵する自分もいる。
恐る恐る顔を上げると、ノクスが廊下の向こう側に消えるところだった。
幼い頃から、何度も追いかけたノクスの背中。纏わり付くアリシアに辟易した表情を浮かべつつも、ノクスが本気でアリシアの手を振り払ったことは一度もない。それは大人になった今もずっとそうだ。
だから。
だからさっきの言葉にも、何か意味が込められているのかもしれない。
――と、我ながら諦めも悪く、そう思ってしまう。
今は薔薇の花嫁のこととセドリックの行方を突き止めるのが最優先だ。自分の感情には一旦蓋をして、アリシアは窓ガラスに映る自分を見て必死に笑顔を作った。
大丈夫。まだ笑える。
この気持ちには、すべてが終わってからもう一度向き合おう。
そう自分を奮い立たせて臨んだノクスとの夕食だったが、自分なりに上手くできたはずの料理の味はまるでしなかった。
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