第5話 この人、怖いよぅ

「出た!!」


 沼のちょうど真ん中辺りに浮かぶ青白い光は、泣き声が聞こえるたびに大きく震え火花を散らしている。どうやら泣いているのは、青い炎そのもののようだ。火花すら青いので、本当に涙を流しているようにも見える。


「お嬢様は下がっていてください」


 ひゅんっとしなった黒鞭が炎を切り裂いた。「ぴぇっ!?」と気弱な声が聞こえたかと思うと、真っ二つに割れたはずの炎が瞬く間に元の姿に戻っていく。

 相手は炎だ。武器では効果がない。


「ノクス殿! ここは私の美声で炎を打ち震わせてやりましょうぞ!」


 馬車の荷台から軽やかにジャンプしたマンドラゴラが、そのままノクスの頭でバウンドして炎に向かって勢いよくダイブした。


「お覚悟! ギョェェッ……アッ、アァァァーッ!?」


 張り切って飛び出したはいいが炎までの距離が圧倒的に足りず、マンドラゴラは奇声を悲鳴に変えて沼の中へボチャンと落ちてしまった。


「おっふ……! たっ、助け……ゴバァッ!」

「本当に、何の役にも立ちませんね」


 冷ややかな視線を送りつつも見捨てる気はないらしく、ノクスが呆れたように鞭を振るった。引き上げられたマンドラゴラにはヌルヌルした藻が絡みついており、まるで陸に揚げられた深海魚のように少しだけグロテスクに見える。心配して駆け寄ったアリシアも、一瞬触れるのを躊躇うほどだ。


「前に出るなと言ったでしょう! 雑草の介抱は後回しです」

「でも、ノクス。武器が効かないのなら、私がステッキで吸い込むわ」

「いいえ、私がやります。ステッキを」


 ノクスの武器である黒鞭には、使用者の意図を読んで自在に操れるような魔晶石が組み込まれている。作ったのはアリシアの父セドリックだ。市場に出回っているものよりも、よりノクスに合わせた仕様になっているので、アリシアではこの鞭を上手く扱えない。

 対してアリシアの武器は初心者用のステッキだ。初心者用というだけあって、誰にでも使いやすく、変な癖もない。アリシアはただ魔物に向かってステッキを振るだけでいい。


「これくらいなら平気よ」


 魔物退治を持ちかけたのはアリシアなのに、ノクスにだけ戦わせるわけにはいかないと、アリシアはステッキを握りしめて一歩前に踏み出した。

 慢心はしない。過信もしない。

 万が一、失敗した時のことも考えて退路もちゃんと確保しつつ、青い炎をじっと見つめる。その挑むような視線が届いたのか、青い炎が怯えたように一回りシュンッと小さくなった。そして。


「びぇぇぇぇっ! いじめないでぇぇ!」


 大粒の涙を噴水のように吹き上げながら号泣した。



 ***



「ウィル・オ・ザ・ウィスプですな」


 体を震わせて水気を飛ばしながら、マンドラゴラが青い炎――ウィル・オ・ザ・ウィスプの方へ近寄った。同族の様子を窺うというよりは、濡れた体を乾かそうという目論見があるらしい。両手をかざして暖を取ろうとしたようだが、ウィル・オ・ザ・ウィスプはさっきから大粒の涙を雨のように降らせて泣いているので、マンドラゴラの体はまたびしょびしょに濡れてしまった。


「つめたっ!」

「ごっ、ごめんなさい。僕……僕……うわぁぁん!」


 声の高さから、ウィル・オ・ザ・ウィスプはまだ子供のようである。さっきからずっと泣いてばかりいるので、アリシアたちもすっかり毒気を抜かれてしまった。先に攻撃を仕掛けたことですら、何だか申し訳ない気持ちになってしまう。

 ウィル・オ・ザ・ウィスプに敵意はないようなので、とりあえず彼の事情を聞くために、アリシアたちは揃って馬車の荷台に腰を下ろした。


「ウィル・オ・ザ・ウィスプって……さっきの本に載ってたわ。えぇと……」


 ノクスが読めと言って渡した「ハンター入門書。初心者向け魔物図鑑」の本をめくると、わりと最初のページに挿絵付きでウィル・オ・ザ・ウィスプの項目が記されていた。


「ウィル・オ・ザ・ウィスプ。または愚者の火。人を惑わせて死に至らしめる魔物、ですって」

「私たちを沼におびき寄せて沈めようとしていたのかもしれません」

「僕、そんな怖いことしないもん! お家に帰りたいだけだもん!」

「なら、さっさと帰ってください。あなたがここにいることで迷惑をこうむっている人がいるんですよ」

「そんな言い方しなくても……僕だって帰りたいのに、どうやって帰ったらいいかわかんないんだよぅ。……ぐすっ……この人、怖いよぅ」


 びぇびぇと泣くウィル・オ・ザ・ウィスプは、さっきよりもまた一回り小さくなったような気がする。ノクスの冷たいオーラに萎縮しているのだろうか。

 アリシアは長い付き合いだからまだ耐性があるものの、相手は出会ったばかりの、しかもまだ子供だ。ノクスの放つ冷酷無比な雰囲気は、かなりこたえることだろう。


「ちょっと、ノクス。相手は子供なのよ。もう少し優しくして」

「子供ですが魔物である以上、警戒は必要です」

「それはそうだけど……ノクスだって、彼が脅威でないことくらいわかっているんでしょう? 彼の魔晶石は小さかったし、何かあってもノクスなら十分対応できるはずだわ」

「お嬢様が対応できなければ同じことです」

「うぐっ。だ、大丈夫よ! いざとなればこのステッキで……あら? 私のステッキはどこかし……ら」


 周囲を見回すアリシアと、荷台の隅に転がっていたステッキを拾い上げたノクスの視線がぶつかり合う。冷ややかに見つめられ、かつ呆れたようにため息をつかれてしまい、アリシアはウィル・オ・ザ・ウィスプ以上に縮こまってしまった。


「お嬢様は武器の用途もご存じないようですので、私が一から教えて差し上げましょう」


 そう言ってノクスが自分の武器である黒鞭をこれ見よがしに持ち上げる。まるで罪人を罰する執行人のようだ。


「ノクスが言うと冗談に聞こえないのよ!」

「冗談ではありませんが?」

「そう言って本当は……って、え? 待って待って! 本気なの!? か弱い女の子に鞭振るうつもり!?」


 ノクスが本気で鞭打つつもりはないと頭ではわかっていても、無言で詰め寄られればアリシアの背筋を冷や汗が伝う。ノクスの無言は迫力がありすぎるのだ。


「まぁまぁ、ノクス殿。お嬢が大切なあまり過剰に心配するお気持ちは十分わかりますが、だからといって怯えさせてしまってはいけませんぞ」


 声のした方を見ると、二人の間でマンドラゴラがぴょんぴょんと跳ねていた。


「それにこのウィル・オ・ザ・ウィスプは脅威ではありません。いつの間にか扉をくぐってこちら側へ迷い込んでしまったようですな」


 二人が言い合っている間に、マンドラゴラがウィル・オ・ザ・ウィスプの話を聞き出してくれたらしい。やはり同族同士、泣き虫のウィル・オ・ザ・ウィスプも話をしやすかったのだろうか。心も幾分落ち着いているようで、体のサイズが少しだけ大きくなっている。

 マンドラゴラが話題を逸らせてくれたおかげで、ノクスの意識もアリシアからウィル・オ・ザ・ウィスプへ移ったようだ。手にした鞭をおろして、難しい顔で考え込んでいる。


「迷子、ですか。それはまた厄介ですね」

「どういうこと?」

「異界とこちら側を繋ぐ扉のことは当然理解していますね?」

「えぇ。いくつか点在していて、常にどこかの扉は開いているんでしょ。それが新月の夜には一斉に開くってお父様が言ってたわ。それに扉といっても時空の歪みのようなもので、必ずしも決まった場所にあるわけではないって」

「その通りです。移動する扉も厄介ですが、それよりも問題なのは、人間界――つまりこちら側からは扉を目視することができません。仮にここに扉があったとしても私たちにはわからない」


 二つの世界を繋ぐ扉――時空の歪みを見ることができたなら、魔物たちへの対処の仕方もずいぶんと楽になる。扉の現れる場所がわかればハンターとの連携も取りやすい。

 アリシアの父セドリックが作った魔法具の中にも、扉の場所を探るものは確かにある。けれどその精度は低く、まだまだ改良が必要な魔法具なのだ。


「扉の場所がわからない限り、私たちではどうすることもできません」

「でも同じ魔物ならわかるんじゃないの?」


 そもそも人間には見えない扉をくぐって、魔物たちは二つの世界を行き来しているのだ。迷子だというウィル・オ・ザ・ウィスプも美声のマンドラゴラも、マスコットのような見た目をしているがれっきとした魔物である。

 そう思ってマンドラゴラを見つめると、彼の頭で三枚の葉っぱがシュン……と萎れてしまった。


「お嬢の期待を裏切るようで申し訳ないのですが、そもそも人間界と異界では大気中に満ちる魔力に差がありますので、私たちもこちら側から扉を認識することは難しいのです。大体ここら辺にあるかな~……くらいならわかるのですが、まぁ九割はハズレますね!」

「下位の魔物に期待しても無駄です」

「ノクス殿、容赦なしっ! とはいえ真実なのでこればっかりはどうしようもありませんな。しかし中級以上の魔物なら扉は見えるでしょうし、上位の魔物ともなれば扉そのものを引き寄せることも可能ですぞ」

「ってことは、この子を異界へ帰すには中級以上の魔物を見つけて頼むしか方法はないのね」

「そういうことになりますな!」

「じゃあ……ノクス。しばらくこの子を」

「却下です」


 纏まりかけた話をバッサリ切り捨てて断固拒否したノクスが、小さな魔物二人に向かって黒水晶のステッキを向けた。きらりと光る黒水晶に、あんぐりと口を開けたマンドラゴラと、涙に潤んだ目を見開いたウィル・オ・ザ・ウィスプが映る。かと思えば次の瞬間にはもう、二人の体は黒水晶の中にひゅんっと吸い込まれてしまった。


「ノクス殿のいけずぅぅ~」

「うわぁぁん! 悪魔に食べられるぅぅ!」


 情けない悲鳴は徐々に小さくなって、荷台の上に残ったのはアリシアとノクスだけだ。そのノクスはアリシアが何か言う前にさっさと御者台に移動し、手綱を握ると、そのまま馬を走らせてしまった。


「ちょっと……ノクス! どこ行くのよ」

「魔物退治は終了です。依頼人への報告と、この馬車も返さなくてはいけませんので。彼の商売道具でしょうから」

「退治って……まだ子供じゃない」

「この件は屋敷に戻るまで一旦保留です。いいですね? 依頼人への報告が済むまでは、彼らにはおとなしくしてもらいます」


 そこでアリシアはようやくノクスの意図を理解した。

 もう沼に炎は現れないと説明するその横に、当の本人が堂々と姿を見せていればさすがに依頼人も不審に思うだろう。彼らを黒水晶に閉じ込めたのは、魔物退治における信頼を失わないためだ。

 ならば最初からそう言ってくれればいいのにと思いはしたが、アリシアよりも先を見据えて行動するのがノクスだ。どんなに冷たく見えようとも、ノクスはアリシアのためにならないことはしない。それがわかるからアリシアはもう不満を口にすることはやめて、ノクスの言うとおりおとなしく荷馬車に揺られることにした。



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