第2話 はじめまして、ノクス

 馬車から降りたあとも、アリシアはノクスにずだ袋として抱えられてしまった。屋敷の玄関に出迎える者の姿はない。深夜だからというわけではなく、そもそもこの屋敷にはアリシアとノクス以外、誰もいないのだ。

 静まり返った屋敷に靴音を響かせながらノクスが向かった先はアリシアの自室だ。そのまま躊躇いもなく扉を開けて中へ入ると、ノクスはようやく肩に担いだアリシアをベッドに降ろし――そして跪いた。

 何事かと身構える間もなく、アリシアの右足がノクスの手に持ち上げられる。そのままあっさりと靴を脱がされると、アリシアは無防備になった右足をノクスの膝の上に乗せられてしまった。


「ちょっと、ノクス! ななな何やってるのよっ!」

「期待されているところ非常に申し訳ありませんが、捻った足首を診ているだけです。悪化でもされると私も面倒なので」


 痛む箇所を調べるためなのだろうが、やわい力で足首をなぞられるとくすぐったさと羞恥心で足先がぴくりと動いてしまう。そんなアリシアの反応にはなにひとつ触れず、ノクスは慣れた手つきで薬を染み込ませたガーゼを足首に当てて包帯を巻いていく。

 ノクスはまだ白手袋をしたままだ。けれど今はそれがありがたい。触れられただけで熱を持ち始めた肌を隠すように、アリシアは治療の終わった足をスカートの裾で覆い隠した。


「お嬢様」


 目の前に跪いたままの状態で、ノクスがアリシアを見上げる。部屋の灯りにやわらかく照らされたノクスの顔はあまりに整いすぎていて、逆に恐ろしいと感じるくらいだ。

 銀縁眼鏡の奥から向けられるネイビーブルーの瞳は底の見えない深淵にも似ていて、隠された本音を容易にはさらさない。見つめるほどに深みにはまりそうで怖いのに、アリシアはノクスの視線から目を逸らすことができなかった。


「今日はもう遅いので、さっさと休んでください。言い訳は明日うかがいます」

「ノクス。あの……」

「何です? 着替えの手が必要ですか?」

「いらないわよ! そうじゃなくてっ……その、……ごめんなさい」


 勝手に魔物退治に飛び出してしまったことを素直に謝れば、部屋を出ていこうとしていたノクスが扉の前で立ち止まってアリシアを一瞥した。眼鏡の奥のネイビーブルーを瞼の裏に隠して、呆れたように短くため息をつく。


「ちょっと、どうしてそこでため息をつくのよ」

「その反省が明日以降も続けばいいのですがね」

「……っ!」


 相変わらずの憎まれ口に、思わず枕を投げつける。けれどもそれを見越していたのか、ノクスは「おやすみなさいませ」と一足先に退室し、枕は素早く閉められた扉に当たって虚しく落ちてしまった。



 ***



「アリシア」


 名を呼ばれて振り返ると、父セドリックの横に見知らぬ少年が立っていた。着の身着のままといった風体で、剥き出しの細い足には痣のようなものがいくつも見える。セドリックの後ろからこちらを窺うネイビーブルーの瞳は冷たく張り詰めていて、まるで手負いの獣のようだと思った。


「今日から一緒に暮らすことになった、ノクスだよ」

「ふぇ!? ついに私にも弟が!」

「アリシアより五つ年上だから、ノクスの方がお兄ちゃんだね」

「でも私より小さいわ? ううん……痩せてる?」


 そう言うと、セドリックが少しさみしげに笑った。膝を折り、目線を子供たちと同じにして、その両腕にアリシアとノクスを優しく抱きしめる。

 父親のぬくもりに慣れているアリシアとは逆に、右腕に抱き寄せられたノクスがおかしいくらいに肩を震わせて目を見開いた。けれどセドリックの腕から逃れようとはしない辺り、ほんの少しでも心は許しているらしい。所在なさげなネイビーブルーと目が合うと、アリシアはとびきりの笑顔を向けてノクスに手を差し出した。


「はじめまして、ノクス。私はアリシア。今日からあなたのお姉ちゃんになる、可憐な美少女よ」


 小さな手が重なり合うことはなかったが、間近に見つめ合ったネイビーブルーの瞳からくすんだ色が消えていく。

 霧が晴れ、瞬く星屑を抱く夜の色だ。


 宝石みたいで綺麗だと思った瞳は、大人になったいまも変わらずアリシアを静かに見つめている。



 ***



「……ま。……お嬢様」


 夢の中のかわいらしい少年が、驚くほど低い声でアリシアの名前を呼んだ。銀縁眼鏡の奥、呆れたように目を細めてため息をつく姿は子供には似つかわしくないはずなのに、この少年はその仕草が嫌と言うほど板についている。


「いいかげん、起きてください」

「ぅうん……ノク、ス? んんー、声変わりしちゃった……かわいいノクス、が」

「いつの話をしているんですか。早く目を覚まさないと、シーツを剥ぎますよ」


 というわりには秒でシーツを剥がされて、アリシアは強制的に夢から目覚めてしまった。


「ひゃぅっ!?」


 ぬくぬくだったベッドの中があっという間に冷たくなる。寒さに身を丸めて目を開けると、シーツを持ったノクスが冷たい目を向けてアリシアを見下ろしていた。


「おはようございます、お嬢様」


 ボサボサの髪に乱れたネグリジェのアリシアとは違い、黒い執事服に身を包んだノクスは頭のてっぺんから足の爪先まで一片の乱れもなく完璧そのものだ。いつもは目にかかる長さの前髪もきっちり後ろに流されていて、おかげでネイビーブルーの冷たい輝きがより鋭くアリシアを射抜いてくる。

 公私で変わるノクスの髪型を自分だけが知っているということに、かすかな優越感を抱いていることは秘密である。


「ちょっと、ノクス! いきなりシーツを剥ぐなんて非常識よ」

「剥がされたくなければ、自分で起きられるようになってください」

「ちゃんと起きてたわよ! ちょっと微睡まどろんでただけ」

「そのわりにはだらしない顔で涎も垂らしていましたが?」

「えっ! うそ!?」

「嘘です」


 しれっと答えるノクスに反論しようとするも、口を開く前に頭の上からさっき剥がされたシーツを被せられる。それを取る頃には、ノクスはもう部屋の扉の前に移動していた。


「朝食が冷める前に食堂へ……歩けなければ担ぎますが?」

「結構よ!」

「なら急いでください」


 最後まで辛辣に言い捨てて、ノクスはそのまま部屋から出ていってしまった。


 ノクスは今から十二年前、アリシアが七歳の時にこの屋敷にやってきた。年上だという彼の体は当時のアリシアよりも痩せていて、いま思えば細い腕や足には痛々しい痣や縛られた痕のようなものもあった気がする。

 ここに来る前のことをノクスは語らない。知りたい気持ちがないわけではないが、今のノクスがつらくないのならそれで十分だと思った。


 手早く着替えをすませて部屋を出る。昨夜捻った足にはまだ少し痛みが残っていたが、歩けないほどではない。ノクスの調合する薬は相変わらずよく効く。


 食堂につくと、ちょうどアリシアが来る時間を見計らったように、あたたかい朝食が用意されていた。冷たい態度を取るくせに、ノクスはいつもこうやってアリシアを第一に考えてくれている。

 そういうところが、のだ。


「ねぇ、ノクスも一緒に食べない?」

「私は先にいただきました」

「どうしていつも先に食べちゃうのよ。一緒に食べた方が絶対おいしいのに」

「私はお嬢様のように暇ではありませんので」


 この屋敷には今、アリシアとノクス以外誰もいない。元々多くはなかった使用人も、一ヶ月前に当主のセドリックが消息を絶ってからはいとまを出している。

 幼い頃から執事見習いとして働いてきたノクスが、今は屋敷全般の雑務を一人でこなしている状態だ。


「……だから私も手伝うって言ったでしょ。全部ノクス一人でする必要なんてないんだから」

「お嬢様が手伝うと仕事が倍に増えますので、お気持ちだけで十分です」


 アリシアの父セドリックは、元々はノクスを養子に迎え入れるつもりだった。母親を早くに亡くし、一人っ子でさみしい思いをさせているアリシアのためもあったのだろう。けれど本人が屋敷で働きたいと頑なに養子縁組を断ったので、当時の執事のもとについて見習いとして働くようになったのだ。

 現在はメイドの仕事すら完璧にこなす、毒舌執事として屋敷を切り盛りしてくれている。


「あぁ、でも朝食後にお時間を少しいただけますか?」


 そう言いながら用意した食後の紅茶は、アリシアが好きな銘柄だ。そういうところに胸をほっこりさせながら頷くと、アリシアを見つめるネイビーブルーの瞳が銀縁眼鏡の奥でキラリと光った。


「では……これについて説明していただきましょうか」


 ノクスが胸のポケットから何かを取り出して、それをテーブルの上に置く。折りたたまれた紙を開くと、そこにはアリシア本人の字で「魔物のことでお困りのあなた! タチの悪いゴーストからいたずら妖精まで、この私アリシア・ロウンズが迅速に解決致します。ご用の方はロウンズ邸まで!」と、大きく書かれていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る