第13話 レオナルドさんがぁぁ!

 怖い。

 暗い。

 痛い。


 後ろ襟を引っ張られ、体を引きずられる。こんなにも乱暴な扱いを今まで受けたことがなかったアリシアは、恐怖と痛みのあまり涙が滲んでしまった。掴まれた襟を切って逃げようにもダガーはノクスに渡していたし、必死の抵抗でステッキを振り回してみても黒水晶はワーウルフを吸い込みはしなかった。

 今更ながらに魔物の恐ろしさを実感する。初めて接した魔物のレオナルドやメアリーが想像以上に友好的だったものだから、心のどこかで甘く考えていたのだ。

 ノクスがあれだけ危険だと教えてくれていたのに、自分の身が危うくならないと本当の意味で実感できていなかった。


 バカだ、とアリシアは自分自身を呪った。

 死を感じて、心が恐怖に震えてゆく。そして恐怖を上回るほどの後悔が、アリシアの胸を埋め尽くした。


 ここでアリシアに何かあれば、ノクスはきっと自分自身を責めるだろう。


 幼い頃、部屋に閉じこもって震えていたノクスの、あんなにも痛々しい姿はもう二度と見たくない。ならば恐怖に、後悔に打ち勝って、アリシアがやるべきことはただひとつだ。

 何が何でも生き延びることを諦めてはいけない。


 バッグの中を必死に探って、ハンカチに包んだ転移石を掴む。あとはこの石を叩き割れば、アリシアはロウンズ邸へ戻れるはずだ。


「お嬢」


 耳元で囁かれた美声にハッを顔を上げれば、視界の隅にレオナルドの姿が見えた。


「いま助けます。距離が近いゆえ、お嬢は耳を塞いでおいてください」

「レオ……っ」

「ていっ!」


 かけ声と共に、肩に乗っていたレオナルドがアリシアの襟を掴むワーウルフの手を伝って一気に駆け上がった。

 彼が何をするつもりなのかは考えなくてもわかる。慌てて転移石をバッグに戻し、アリシアは自身の耳を両手でぎゅっと押さえ込んだ。反射的に瞼を閉じたが、一瞬だけ視界の片隅に青い炎も見えた気がした。


「うちのお嬢に手を出してタダで済むと思っとんのかぁぁぁぁっ! ワレェェェェ! その首、もぎ取るぞ、ゴルァ! あぁぁぁぁん!?」

「お姉ちゃんを……いじめるなーー! うわぁぁん!」


 予想していたよりも遥かにドスの効いたレオナルドの怒声に、アリシアの指先が麻痺したようにびりびりと震えた。意識は無事だが、耳を塞いでいなければ気を失っていたかもしれない。無害に見えても、やはりレオナルドはマンドラゴラだったということか。

 一方ウィルも最大限にを膨らませてワーウルフの眼前に飛び出していた。火力も追加しているようで、目の前で弾ける熱源に一瞬だけワーウルフの足が怯む。


 けれども所詮は下位の魔物のはかない足掻きだ。

 レオナルドの怒声にワーウルフの魂が抜け出ることもなければ、ウィルの精一杯の炎を怖がることもない。数秒の足止めには成功したが、瞬きひとつするする間にワーウルフは眼前で揺らめくウィルを煩わしげに威嚇した。


「ぴぇぇっ」


 獰猛な唸り声になけなしの勇気が吹き飛んでしまい、ウィルの炎がみるみるうちに萎んでいく。


「ウィル! 負けてはなりません。あなたの炎は強く美しく逞しい! 自分を信じるのです! 男児たるもの、譲れない戦いがある。そう、それは今! 私たちが負ければお嬢がひどい目に遭うのですぞ。さぁ、一緒にたたか……ほわっ!?」


 気持ちよく熱弁を振るっていると急に腕が伸びてきて、レオナルドはワーウルフにむんずと体を鷲掴みにされてしまった。心配したウィルが慌てて近寄ったが、何もできずにオロオロと小さな炎を涙のように飛ばすだけだ。


「レオナルドさん!」

「何たる失態! 演説に熱が入りすぎた模様! けれども、お忘れなく。私はマンドラゴラ。めくるめく魅惑のヴォイスを真正面から受け取るがいいー……い、いいいい……いぃぃぃぃぎゃぁぁぁぁっ! 待って待って! 足噛まないで、痛い!」

「わぁぁぁぁ! レオナルドさんっ! レオナルドさんがぁぁ!」


 後ろ襟を掴まれて尻餅をついているアリシアには、二人の様子がまったく見えない。ただレオナルドのものすごい悲鳴とウィルの号泣で、何が起こっているのかは理解が及んだ。


「レオナルド! 待って、あなた無事なの!?」

「お……お嬢の代わりに私の足一本で済むのなら……フンギッ!」

「ちょっと……、やめなさいよ! レオナルドを離しなさい。この……っ」


 仲間の危機に、アリシアの恐怖が吹き飛んだ。握りしめていたステッキを闇雲に振り回して、どこでもいい――とにかくワーウルフの体に打撃を与えて、噛み付かれているであろうレオナルドを救い出したかった。

 アリシアの奮闘に勇気づけられ、ウィルも再び炎を燃えさからせてワーウルフに突進していく。攻撃自体は弱くとも地味に煩わしい手数の多さに辟易したのか、ワーウルフがついにアリシアを自分の前へと放り投げた。


「きゃっ!」


 自由になった途端に体が回転し、視界が明滅する。頬をザリッとすりむいた感触と共に、鼻腔を強い土の匂いが刺激した。


「お……お嬢……」


 消え入りそうな声に顔を上げると、目の前に立ちはだかるワーウルフの口――その鋭い牙に片足を噛み付かれてぶら下がっているレオナルドの姿が目に入った。


「レオナルド!」

「にげ、て……お嬢。私はしあわせでした……」


 レオナルドをくわえたまま、ワーウルフがグルルと喉を鳴らしながらアリシアに一歩近付いた。


 その首が、突如としてくんっと真後ろに引っ張られる。見ればワーウルフの首には黒鞭が巻き付いていた。その先に静かに佇むのは、ノクスだ。

 あまりに強い力なのかワーウルフが背骨ごと弓なりに仰け反る。間髪入れず、大きく後ろに傾いたワーウルフの眉間に深々と突き立てられたのは、アリシアがノクスに渡した毒の刃のダガーだ。


 首に巻き付いた黒鞭が気管を圧迫しているのか、ワーウルフの口から悲鳴は一切出てこない。ただ唾液の混じるくぐもった呻き声だけが湿った音としてこぼれ、半開きになった口元からもぞもぞと這い出したレオナルドが力なくぽてりと地面に転がり落ちた。


「下劣な魔物が、何をした」


 冷たい風が吹き、木の葉を揺らして暗い森に満月の光が差し込んだ。

 夜を明るく照らす満月の光を受けてなお、ノクスを包む闇は晴れない。まるで彼自身が夜の化身であるかの如く、あるいはわき上がる憤怒の情が可視化したとも思えるほどに、ノクスの周りは闇よりも濃い暗黒の瘴気が噴き出しているかのようだった。



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