第29話 覚悟なら、もうしてる

 ティーヴの森へ着いたアリシアたちを迎えてくれたのは、ケット・シーの配下である猫だった。以前フレッドを助けに来た時も、森を道案内してくれた白猫だ。

 ケット・シーを置いてきてしまったので扉の位置がわからないかと思ったが、どうやら視覚を共有しているのか、白猫は迷うことなくアリシアたちを森の奥へと案内してくれた。


「アリシア。ノクスを見つけたら、何が何でも引き止めろ。あいつをこちら側に留めておけるのはお前だけだ」

「うん。……でも、どうやったらいいのかしら。ノクスは頑固なとこあるから。命令……できるのはあるじのお父様だし、それに私が言ってもノクスは聞いてくれない気がする」

「んなもん、抱きつけばいいだろ」

「抱き……!?」


 思わず声が裏返ってしまった。そんなアリシアを一瞥して、フレッドは何もなかったようにまた白猫を追って歩き始める。


「あいつはダンピールである自分が、いつかお前を傷つけるんじゃないかって怯えてた。その恐怖を生み出してるのは、嫉妬だ」

「嫉妬? どういうこと?」

「お前が他の男に取られるのを、あいつは見たくねぇんだよ。取られるくらいなら、ダンピールの力でも何でも使って自分のものにしたくなる。あの仏頂面の下にはドロッドロの激情を隠してやがるんだ」

「でも、私は……」

「あいつのことが、好きなんだろ」


 改めて問われると、胸がどきりと鳴る。けれどもう、恥ずかしさに思いを隠している暇なんてない。いまノクスに伝えなければ、きっと二度と彼を取り戻せない気がするから。


「……うん」

「……だよな、やっぱり」

「え?」

「いや、何でもねぇ。あいつだって、お前の気持ちには気付いてるんだ。けど、ダンピールとしての自分をノクス自身が愛せてないから、お前の手を取ることができないんだと思う。ダンピールを理由にしてお前の気持ちから逃げてる気もするがな」


 ――私では、しあわせにできません。


 別れの夜、扉越しに聞いたノクスの言葉が胸に響く。


 ダンピールである自分が姿を消すことで、アリシアを守ろうとしてくれたのだろう。その気持ちは痛いくらいにわかった。違う種族であることに負い目を感じたであろうことも。


 けれど、ノクスのいない日常にアリシアのしあわせはない。

 アリシアのしあわせを今でも願ってくれているのなら、ノクスの戻る場所はここ以外にないのだ。


「あいつを連れ戻すためには、お前の覚悟が必要だ。アリシア」

「覚悟なら、もうしてる。ノクスがダンピールでも構わない。私が好きになったのは、全部まとめて、そういうノクスなんだもの」


 そうはっきりと言葉にすると、アリシアの心があるべきところにかっちりとはまったような気がした。


「お前……やっぱりいい女だな」

「っ、何!? 急に」

「急でもねぇんだけど……。ま、あいつがそれでもお前の手を振り払うようなことがあったら、そん時は俺が面倒見てやるよ」

「またそんな冗談……。でも、ありがとう。フレッド」

「どういたしまして」


 月明かりのない暗い森。ノクスに追いつけるかどうかと不安も募るなか、フレッドの存在はこの上なく大きな支えとなっていた。




「にゃぁん」


 つかず離れず前を歩いていた白猫が止まった。

 何もない、普通の森の中だ。開けているわけでもなく、適度な間隔で大きな木が生えていて見通しはあまりよくない。といっても、見える範囲は手にしたランタンの明かりが届くところまでだが。


「そこに扉があるんだよな。マジで見えねぇな」


 白猫は木々の隙間にある何もない空間をじっと見つめている。試しにその木の裏側からのぞいて見たが、フレッドの目には向こう側に立つアリシアの姿しか映らなかった。

 周囲に人の気配はない。馬を全速力で走らせてきたが、それでも時間はかかった。もしかして、ノクスはもう扉をくぐってしまったのだろうか。


 間に合わなかった。

 頭ではわかっていても、実際に無駄足だったことを突き付けられると、その落胆の大きさに胸が押し潰されそうになる。


 ノクスを連れ戻す覚悟を決めたのに、その本人に会えないのでは意味がない。本音を言えば異界まで追いかけていきたいが、アリシアは薔薇の花嫁だ。魔物に見つかればすぐに捕らわれ、ノクスに会うこともできないままヴァンパイアに血を吸われてしまうだろう。


 完全に打つ手を失った。

 諦めかけたその時、突然白猫がぶるっと身震いして忙しなく周囲の様子を窺い始めた。


「にゃっ!? にゃにゃっ。ぬぁー!」

「な、何? どうしたのかしら」


 しばらく周囲をウロウロしていた白猫は、やがてアリシアたちのほうを振り返ると尻尾を忙しなく振って威嚇するように鳴いた。そして颯爽と身を翻ると、慌てて森の奥へと走っていく。そのままいなくなるのかと思えば、またアリシアたちを振り返って険しく鳴いた。


「ついて来いって、言ってるのかしら?」

「みたいだな」

「でも扉は?」

「……もしかして、あいつの邪眼……猫にも効くんじゃないのか?」

「えぇ!?」


 フレッドの話が本当なら、白猫はノクスの邪眼によって操られ、アリシアたちを扉とは違うほうへ導いたということになる。猫に邪眼が効くのかはわからないが、白猫が焦って走る様子から察するにその可能性は高いだろう。


「むかつくくらいに用意周到だな!」

「でもフレッド。猫に邪眼が効くなら……もしかしなくてもケット・シーまで操られてたってことには……ならないわよね?」

「そうじゃないことを祈るしかねーだろ」


 ノクスに追いつけるかどうかではなく、もはやこの情報が真実かどうかで心が焦る。けれどケット・シーでなく白猫を操ったのなら、ノクスはこの森にいるはずだ。

 そう逸る心を抑えきれないまま辿り着いた森の奥――木々が開けた場所に出た瞬間、アリシアは小さな悲鳴を上げて立ち尽くしてしまった。


 地面いっぱいに、たくさんの魔物が倒れていた。ワーウルフやオークの他に、蛇の姿をしたものや、背中に翼を生やしたものもいる。見た感じ、同族同士で争い合ったようで、辺りには濃い血のにおいが充満していた。


「何……これ」

「にゃっ、にゃー!」


 魔物の死体を飛び越えて、白猫がある一箇所を指して鳴いた。何もない空間だが、そこだけ白く霧がかかったように翳っている。


「扉……?」

「あいつ、まさか……扉から出てきた魔物を……」


 新月の夜。異界の扉が開くと同時に、こちら側では魔物関連の事件がいつもの倍は多く発生する。ここに倒れている魔物たちも、いずれ人間に害を及ぼしかねないほど凶悪なモンスターばかりだ。

 白猫が邪眼で惑わされていなければ、この魔物たちと出くわしていたのはアリシアたちだったかもしれない。


「にゃー! にゃっ、にゃーん……にゃ……にゃ……シャァァッ!」


 アリシアたちが一向に動かないので、白猫が痺れを切らして盛大に威嚇した。慌てて白猫のほうへ駆け寄ると、澱んでいた霧がより深く濃く棚引き始める。視界が薄くぼやけ、フレッドの姿も次第にかすんでゆく。


「アリシアっ、気をつけろ! 親父さんがいなくなった時と同じだ」


 セドリックが姿を消した時、今のように濃い霧が立ちこめた話をフレッドはしていた。その時は急激な眠気に襲われたらしいが、今のところアリシアの意識ははっきりしている。だが、視界はもうすっかり白い霧に覆われてしまった。


「フレッド!」

「あぁ、大丈夫。ここにいる。お前はそこから動くな。声を頼りに行くから」


 すぐ隣にいるはずなのに、フレッドの姿がまるで見えない。声もするし、気配もちゃんとあるのに、視界を覆う霧のせいでアリシアだけ切り離された世界にいるようだ。


「フレッド、そこにいる?」

「心配すんな。ちゃんといる」

「この霧……いま扉が全開してるのかしら」

「そうかもな。新たに魔物が出てこないといいが……」

「……ノクスも、近くにいるかしら」


 何となく、霧の奥へ向かって手を伸ばしてみる。あの夜とは違って今は思いきり手を伸ばせるのに、捕まえたい相手がどこにも見えない。掴むのは霧ばかりで、アリシアの手のひらには何の感触も残らなかった。


「ノクス……。どこにいるの。……戻ってきてよ」


 いつまで経っても、何も掴めない手が白い霧の中をさまよう。その指先がこつん――と何かにぶつかったと思った瞬間、アリシアの伸ばした腕が背後から別のしなやかな腕に掴まれていた。


「本当にあなたは困ったレディですね」


 名を呼ぼうとして、それを許さないように背後から強く抱きすくめられた。

 なつかしいノクスの匂いがする。冷たいベッドのシーツなんかじゃなく、ちゃんと熱のある体でアリシアを抱きしめている。

 もうどこにも行かないでと縋るようにノクスの腕にしがみ付けば、アリシアの手のひらにべっとりとした血糊が付着した。


「っ、ノクス!? 怪我をしているの!?」


 それには応えず、代わりにアリシアの体からノクスの熱が消えていく。草を踏む音が遠ざかる。同時に周囲を覆っていた霧がゆっくりと晴れていく。


「ノクス! 待って……話を聞いて!」


 追い縋る手をすり抜けて一陣の風が吹き、辺りに残っていた霧が渦を巻いて霧散した。


 舞い戻る静謐の夜。

 暗い森のなか、どこを見回してもノクスはもういない。

 けれど、いなくなったノクスの代わりに別の人物が木の根元に蹲っていた。


「お父様……っ!」


 気を失って座り込んでいたのは、一ヶ月前に行方不明になっていたアリシアの父、セドリック・ロウンズだった。


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