第23章 優しくも悲しい雨は落ちる
不思議なことに、恭一が悲しいと感じている時はいつも天気が悪くなった。
雲が空を覆い隠し、ポツリポツリと
__「恭一。どうして、君は悲しい時も、そんな仏頂面なのですか?」
だから天使にはすぐに、分かりにくすぎるほど表情が変わらない恭一の感情の変化が分かった。
__「…どうして、だろう」
源氏家の当主、人の上に立つ者となる者、強き者が、簡単に涙を流すものじゃない。
そう親から教わって育ってきた恭一は、子供の頃から滅多に泣かない子供だった。
感情ごとベルトで押さえつけられて、強きものであれと育てられてきた雛は、確かに周りの子供より強い精神力を持っていた。
人間というものを捨てたような機械人形のようで、抜け殻だ。周りの期待どおりに育てるために、魂を抜いてしまったかのような抜け殻。
大切な者の死に直面しても、一人でいる時にすら泣かなかった恭一に、天使は彼の頬をつまみ、引っ張りながらこう告げた。
__「ほら。子供らしく声をあげて、泣いてみなさい。今泣いておかないと、大人になったら簡単には泣けませんよ」
__「…うるさい。あっちいって」
__「本当だよ?子供の内はしょーがないって慰めてくれるけど、大人になって大声で泣いてみ?ドン引きされるだけだから」
__「絶対泣かない」
__「何言ってるんですか。大切な人の為に泣いてあげるのも、供養と言うものだよ」
恭一は思った。あの時、天使が言っていた言葉の意味が分かった気がしたと。
どうして、自分は泣くことが出来なかったのか。命を賭けて守ってくれた人の為に。自分を生かしてくれた人の為に、泣いても良かったのではないか。
たとえその後、母親からの冷たい叱責と、父親からの平手打ちが飛んできたとしても。庇ってくれる咲がそこにいなかったとしても。
だからこんなにも、憎悪を向けられているのだろうか。と。
刃が重なり、右腕の筋肉が鋼鉄のように硬く、既に恭一の支配下にはなかった。
「貴方は強くなった。私の屍を越え、あの憎悪に満ちた炎の渦巻く災いからも、赤き瞳の者からも逃れて」
咲の動きは素早く、恭一の目でやっと終えるほどであり、激しく刃を交える。
いつか見た紅葉狩りの下で、淑やかに恭一の先を行く後ろ姿とは程遠くも、あの頃の凛とした美しさはそのままだった。
【殺せ、再び殺せ、今度は、己の手で】
別の者の力が右腕に加わり、刃を受けてそのまま振り払うほどの力を増す。咲の刃は弾け飛び、余波で彼女の腕から血が飛び出す。
咲は折れた刀を捨て、手に仕込んだ刃で再び恭一に降りかかり、頬を掠め、じんっとした痛みが伝う。
「何故、あの方が貴方の呪いを解けないのか、お分かりでしょうか?もはや、真王にそれほどの力は、残っていないからです」
やろうと思えば、エバ同士の因縁でも断ち切れるもの。本体である遺物などここにはなくとも、彼女にはそれが出来るほどの力がある。それを出来ずにいるのは何故なのかと、咲は攻撃を抑える恭一に淡々と告げる。
「妖王エレボスとの戦いにより、彼女の命もエバとの繋がりも弱まってしまった。その呪いのために今、エバとしての力を使えば、あの方は死にます。…それが、
「…!!」
「アイテル王はまだ回復しきっていません。戦争の後、イブリシールの盟約の為に子供を産み、力を戻しきれていない。坊っちゃんがいらっしゃる直前まで、療養の為に聖地へ籠られる予定でした」
そしてまた、恭一が呪いに負けても同じ結末。アイテルは死ぬ。
それが本当か否かは、今は分からなかったが、普段から倒れっぱなしだったのは、恭一の呪いによるせいだけでもなかった。
どのみち自分の命がない事を分かっていながら、アイテルは恭一の呪いを引き受けていた。
なんて、バカなんだ。
恭一は歯を食い縛る。自分が離れても、彼女は死ぬ事は既に決まったようなものではないかと。
「貴方はそうやって失い、苦しみ、強くなられた。大切だと思うものを失い、貴方はきっと再び、また力を欲する。今この時のように。……あの方を好いておられるのでしょう?」
「…」
恭一は何も答えなかったが、その眼差しの奥に揺れる銀色の瞳を見て、咲は分かっているかのように口許を緩ませて、微笑んだ。
「それが、その呪いなのです。貴方は、愛してはいけないものを愛した。やがてそれは、苦しみとなり、果てに憎悪を抱く。深く、深く、溺れるほどに。人は愛しても、それすら憎しみへと変わる。純粋に永久に続く愛など、存在しません。必ずや、貴方の枷となるでしょう」
「…だから、殺せと?アイテルを」
「それが救いの道です。古き神を断ち切り、あの方との因縁を
「その時俺は、
火花が散り、恭一は咲を振り払うように一閃を斬る。彼女の腹部は裂かれ、血が噴き出したが、咲は気に求めていないように手を添えて抑えながら、恭一に向き直る。
「俺は、誰の
あの時のように。無力に庇ってもらっておいて自分だけ生きるのも、無様に死んでいくのも御免だ。
そう告げた恭一を、炎を写す緑色の瞳が真っ直ぐ見ていた。
「呪いの支配にも、絶対負けるつもりはない。俺がそういう性分なのは、よく知ってるだろう?」
「……ほんに、良いご気性です。恭一坊っちゃま。あえて、苦しむ道を選ぶのですね。…きっと、私がそうさせてしまった」
咲は仕込み刃を納め、直毛の黒髪に炎の光を宿しながら恭一に対して背を向けた。
「貴方は、ずっと苦しむ。だから私は、断ち切らなければならない。……再び貴方が、呪いを超え、強くなられますように」
どうしてそこまでしてアイテルの命を狙うのか、どのみちアイテルが死んでしまえば、恭一も死ぬというのに。まるで辻褄が合わない。その理由を深く聞けないまま、彼女は炎の渦の中へ消えた。
その瞬間、恭一に呪いが襲う。瞳は赤く染まり、容赦ない激痛が背中からのし掛かるように彼に苦痛を与えた。
熱さと痛みの中で意識が途絶えようかと思った時、辺りを優しい雨が降り注ぎ、炎と恭一の呪いの進行を打ち消した。
「っ……っ………」
恭一の背後からアイテルが息を切らしながら地面を這っていた。弱々しい光を放つ黄金の聖杯は、アイテルに残っている力を使ってから金粉となり消える。
彼女の胸の上で光るオリハルコンの石のペンダントと、汗ばむアイテルの顔は蒼白くなっていたのを見て、恭一は戦闘の傷と腕の痛みを耐えながら彼女に駆け寄った。
「っ…テル…!」
思わず駆け寄った勢いでアイテルを抱き締めた。力なく地面を這う長い素足が彼女の薄い襦袢から見える。
抱き締められたアイテルは、喉に痛みを覚えながら抱き締め返す。その力はまだ力強く、安心した恭一は、傷一つない柔らかな頬を、常人の肌の色ではなくなってしまった手で触る。
「なんで逃げなかった?そこまでとろくないでしょ」
アイテルは潤んだ目で恭一を悲しげに見ていた。その顔を見て思う。自分もあの時、ラミエルの言う通り、泣いておけば良かったと。
大人になり、簡単には泣けない性分になってしまったからこそ、涙すらまともに流せやしない。
誰かの為に。命を賭けて、自分を見てくれていた彼女の為に。
「…君のせいで。君なんか、どうなったって関係ないのに。無性に、生きている所を見たくなった」
「っ…!」
「君は、他の女とは違う…もっと、面倒で、バカだ」
再び傷をつけるような言い方をしたが、今度の言葉は、先ほどの強い言葉とは違った。
「君、自分の為に生きたことないでしょ…王だから、
君は、君だけのもの。誰のものでもない人生。狂わされてはいけない。たとえ、俺の為であっても。
これ以上誰かに生かされたくない。その為に自分は、親から、家の支配から、誰かの犠牲から逃れて、一人で生きていくために力をつけた。悪魔のような天使の導きに従って。
自分はそれが出来た。でも、誰にでもそれが出来るわけではないことを、恭一は知っている。
一なる者と呼ばれる何かの存在の為、無力な多数の人の為に、偶像になるしかなかったアイテルのように。
喉が焼け、渇きに満たされる。もはや声を失っていても、何も伝えられずとも、叶わなくとも構わない。
彼がここに来てくれただけで。
いつ死ぬとも分からない運命の中で、燃え尽きそうな中でも気高い眼差しをしている貴方が、ここへ来て、そう私に言ってくれただけでも。
冷えた手で恭一の手に手を重ねたアイテルは憂いのある微笑を浮かべ、涙を流しながら、左手の指先で、恭一の唇をゆっくりなぞる。
『どうか、皆をお救いください。それが、貴方の宿命』
『何故、私なのですか?私は…どうしてなの?お婆様』
『
最初は恐ろしかった大巫女アステカニアの言葉も、重荷となり、使命となり、アイテルの生きる全てとなった。だが今は、彼女にとってアステカニアの言葉は、憎らしい。
私は、誰の母でもなかった。誰の事も、慈しんだ事も。その中でも唯一愛した娘たちは、愛してはいない夫の元へ奪われてしまった。
戦争が終わり、産まれたばかりの末の娘でさえも、手元で育てることは叶わなかった。
祈り柱は命を灯して龍脈の
それが、自分の辿る人生だったのだと諦めた。この世に君臨するただ唯一の王として、生きるのだ。
今さら逃げられるはずもない道、せめて祈り柱は逃げられるよう定年を設け、時期が来た祈り柱は解任し、良い所へ嫁に出すよう決まりを作った。
私は逃れられないから、納得はできないまま一生を誰かのために捧げる道を、貴方は最初からずっと否定してくれた。それだけで、嬉しい。
その言葉を紡ぐ心のまま、アイテルはゆっくり恭一の唇を重ねた。
渇いてながらも柔らかい感触に触れられ、恭一は一瞬身の筋肉が固まったが、不思議と突き放そうとは思わず、彼もゆっくりと受け入れる。
唇を逢わせるというのは、難しいようで簡単だった。相手が誰であるのかという事だけで。リードするアイテルのキスから、徐々に恭一の方からも重ね合わせる。
漏れる息も融け合い、触れ合う。言葉でなくとも伝え、交わし逢う逢瀬は、互いの気持ちを露わにした。
それは、けして叶わぬと決めつけた呪縛をも解かした。
「…やっぱり、貴方は優しい人。
穏やかで何処か寂しげな声を発したアイテルに、恭一は閉じていた目を開いて彼女を見る。
「君、声…」
「まあ、どうしてでしょう??治ってしまいましたわ」
「……惚けてないで教えて」
「今日のお祭り、楽しかったです。また行きたいですね、二人だけで」
「そんなこと聞きたいんじゃない」
「行きたくありませんの??私の目がそんなに気に入りません…?」
「……もう一度、黙っててくれる??」
声が出たらすぐに煙に撒くような事しか言わないアイテルに、恭一は喋らないままの方がまだ可愛げがあったと言いながら、内心深く安心していたのもつかの間、遠くからアイテルと自分を呼ぶ声と気配が近づいてきた事に気づいた二人。
アイテルは恭一の首の後ろに手を回したまま向こうを見つめると、寂しげに微笑みながら恭一の方に顔を戻した。
「本当に、楽しかった」
アイテルはそうその一言のみを告げた。今日が終わりを迎えれば、再び真王としての現実が始まる。
そんなことを気にせず、誰も自分を知らない休日とも言える一日は、またいつ訪れるのか分からない、もしかすれば来ないかもしれない。
恭一は黙ってしばらくその表情を見ていたが、手を離して離れようとする彼女の背中と腰を捕まえるように手を回す。
そして軽々と腕の中に持ち上げると、声の近づく方向に背中を向けて歩き始める。驚いた表情のアイテルに、恭一は歩きながら静かに告げた。
「まだ夜は明けてない。明けるまでは……まだ」
「……はい」
明日にはまた全て元通りになってしまうのなら、この夜はまだ、私達だけのもの。
呪いも使命も関係なく、今はまだ、私達だけのものなのだ。
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