序章 空が落ちる


 静かな波の音、曇りのない星空と満月が空に浮かぶ、生命の感じさせられない黒い水と、空と海に浮かぶ二つの月が、この世界とは何処か別の世界へ迷い込ませたように思える。


___「恭一君」


 白いクルーズ船の汽笛が静けさを破る。

古代では月の女神か、月の迎えが天から降りてきそうにも思える世界が、現代の異物によって邪魔をされたことに、若干の苛立たしさを覚えた男は黒髪を海風になびかせ、灰色の目を海の暗い水面に向ける。


 静か過ぎる。海の生物のいる気配もない。ここにいるのは、いずれ地獄行きになるだろう、人間の群れだけだ。


 濡烏のような漆黒の髪をなびかせ、男は耳の中に仕込んだ通信から聞こえた自身の名前に反応する。鋭く不機嫌な眼差しで、黒く淀んだ海の景色を睨んだ。



_「どうも胸騒ぎがする案件です。恐らく、彼らが取引しようとしているものは、けして触れてはならない、そんな気がする何かです」


「忠告されるほど頼りないかい?」


_「有望なエージェントである君に心配は不要ですが、相手は独眼竜ドゥイエロン。無理だと思ったら無理せず退いてください。有望だからこそ、君を失いたくない。親戚だからというのもありますが」


「そう言うのなら名前で呼ぶのは止めてくれる?」


「おっと。すまないね。つい」


「怒らせたいのかい」


 独眼竜ドゥイェンロン

 上海マフィアでも注目されている裏社会組織。名の通り、隻眼の竜が描かれた家紋、元は香港の黒社会三合会。


 世界で行われる犯罪や戦争に至る迄、隻眼の怪物あり。そう密かに囁かれる。あらゆる組織の中でも慎重に扱われるマフィアである。


一つ目の怪物が産まれたのは、1990年代の終わり。

 90年代香港の黒社会の象徴である九龍城きゅうりゅうじょう

 かつては東洋最大の犯罪の巣窟と呼ばれたスラム街。イギリスの領土返還により、治外法権ではなくなった1990年代に解体された。

 

 九龍城きゅうりゅうじょうという魔窟を支配していたゴーワン女王ニュイワン。この二つの均衡が解体され、香港社会は混乱に陥った。


 黒社会の覇権争いと血塗られた国家との抗争。その果てに、九龍城より生まれ落ち上海へと逃れた者、独眼竜ドゥイェンロン。ボスは未だに正体は謎に包まれている。


年齢を考えれば恐らく今は五十代だろう。


「ジュンフェイ。それを踏まえた上で僕を任命したのには、知りたいのは、ボスの情報だけじゃないね」



 恭一の不機嫌な問いかけに鼻で笑う通信機の向こうにいる男は、このぶっきらぼうな態度には慣れきった様子で、仕事に無駄なことはしませんよと返した。



_「君の優秀な実力とも見込んで頼んでいます」


「使い勝手が良いような言い方だね、気に入らない」


_「この任務の中心、謎多きボスに近付こうとした諜報員が今までどれだけ消えているのかは君も知っての通り。そしてそのボスが現れるという今回のオークションの裏で、他の品とは異なる何かが取引される、そこが私の心配の種なわけです」


「自分で見に来れば」


_「君の上司から回される書類仕事がなければ行けるんですがね、困りました」


 正直今回の潜入調査ですら面倒臭いこの上ないのにと、仕事を増やしてきたこの通信の男に苛立ちを覚えたが、恭一自身も妙な虫の知らせか、胸騒ぎがしていた。

こういう勘は大抵当たるものだと自分でも分かっていた為、渋々、この男の胡散臭い要求に乗るしかなかった。


「物は持って帰れっていうの?」


_「…出来れば海に沈めた方がいいかもしれません。処分した方がいい程の危険な物ならそうするべきだと、君なら適正に判断出来るはずですから、わざわざ指示を扇ぐこともないかと思っていました」


「その言葉から判断するに、厄介事にしか思えないんだけど?」


 通信機からは沈黙が続いた。恭一は黒革の手袋に隠された自身の右手に灰色の目を向ける。ぐっと握り締めた右手から、言葉にならない憎しみの念の強さが神経を蝕むかのように、痛みをもたらす。



 天使と悪魔、両方見たことがあると言ったら、誰が信じると思う?誰も信じはしない。

自分の目で見ることがなければ、誰も信じることはない。神やもののけの存在に興味がなくとも、嫌でもそれは目に入ってきた。


 神々しくも禍々しくもある、鬱陶しく感じるだけの存在だ、人間とは別の存在がいるのに慣れきってしまったが、興味はそこじゃない。

 何故こんな力が与えられているのか、源氏恭一みなもとうじきょういちは知りたかった。そして天使と悪魔がいるという理由も。




「オークション会場から出ている人間は速やかに拘束しろ、従わないなら殺せ」


通信を切ろうとしていた最中、背後から少し離れた先からの声に恭一は気がついた。


「何があった?」


「例の物が消失。早くしろ、命令だ」


恭一は右手に持つアタッシュケースに目を向け、素早くその場から動き出した。


_「"シルバークラウド"どうしました?」


「帰還する」


_「…まさか。いやはや、君は相変わらず行動が早くて助かります」


「それで?中身は?」


_「確認していないのですか?」


「暗号化電子ロックのせいで今は確認できない。解除にここでは時間がかかり過ぎる。運ぶしかない」


ー「…そうですか」



 これは勘だ。潜入した組織のクルーズ船の中から持ち出したこれは、自分や組織の手に負えない代物なのではないか、と。

船内でざわつく気配に五感を研ぎ澄ましながら、恭一は素早く脱出ルートへと向かう。


 今回の潜入調査でボスに至る情報は少なかったが、組織の構成、コネクション、密輸品の売買と関わりのある会社、あらゆる情報が手に入った為、別タスクの任務を除いてはこれ以上潜入する理由もない。


 あらかじめ用意していたいくつかの中の脱出ルートへと向かう途中、何人かの構成員と鉢合わせしたが、アクションを起こされる前に手際よく対処する。ここまで大した問題がない。


 だからこそ、何かおかしいと恭一は感じ取った。定期的に開催されている裏オークションだが、どうして軍の関係者がマフィアと接触しているのかも。ここで調査して出てきた全てに恭一は疑念を重ねている。


「っ!」


ふと横から真っ直ぐ見つめられている視線を感じ取り、銃を取り出し向けるも、そこにはただの壁しかなかった。気のせいか?確かに今はっきりとした視線を感じたのに。


「いたぞ!!」


 気配を表した一瞬で、近くにいた敵に気づかれてしまった。銃口を向けられ、発砲されるも、恭一は冷静に弾丸の軌道を読み、避けながら距離を詰めて組み技で相手を気絶させた。今の発砲の一発で居場所がバレたことを悟り、移動する。


 脱出ルートであるはずのモーターボートのある船室まで順調に行っていたはずが、後一歩と近づくたびに見つかり、ルートを変えるのを繰り返す。

 その一歩のところで、あの謎の視線を恭一は感じ取っていた。視線を感じるたびに敵に見つかり、目的の場所から少しずつ離され、どこか別の場所に誘導されていることに気がつく。


 これは一体何の力が働いているのだろうか。もう既に、自分は敵の術中の中にいるのか、それとも、自分の右手を塞ぐこのケースの中身のせいなのだろうか。


 考えているうちに、恭一は追っ手を蹴散らしながら、船内から甲板へと導かれるようにたどり着き、そこには、追っ手の姿もなく、ただ静かに波が揺れる暗い海の見える静かな甲板があるだけだった。


恭一の整えた黒髪は風に揺れ、灰色の切長の瞳は、黒く覆われた曇空を眺める。まるで、深海の底にいるような黒。

天と海がどちらにあるのか分からなくなりそうな、暗く、淀んでいる空だと。



「船内を汚さず、うちの手駒を手際よく片付けてしまうなんて、惜しい方だ。政府のスパイでなければ、ぜひ家に迎えて食事を振る舞いたいところなのですが」


背後から一人で現れた気配に恭一は振り向く。そこには黒いスーツと皮の手袋をした、若い青年だった。


 黒髪で右の目元を隠しているような髪型で色白の素朴で何処にでもいそうな顔立ちをした彼は、ニコニコしながら手を叩き、流暢な日本語で恭一を称賛していたが、恭一はこの突然現れた愛想のよく爽やかな青年を一目見て、神経が受け付けないような不快感を覚えた。


「初めまして。ラウと言います。源氏恭一みなもとうじきょういちさん…珍しいお名前ですね。でもお仕事中は、シルバークラウドですか?」


独眼竜ドゥイエンロンには、君のように若い手駒もいるのかい」


「そうですね。日本人の貴方のように20歳そこそこで、アメリカの諜報機関に就職出来るんですから。人の人生です、選択肢は色々あってだからこそ面白い。貴方は、特に面白い経歴をお持ちですね」


 知っているはずがない自身の経歴の一部を口にされても、恭一は取り乱すこともなく冷静にケースの存在を確認しながら、ここからの脱出するプランを練っていたが、それも見透かしたように、青年は言った。


「逃げることはできませんよ。既に貴方が来ることは分かっていましたから。そのケースの中身を追って来ることもね」


「全て分かっていたのだったら、どうして生かしておいた?君達のボスは、僕の前の鳥を全員殺しているはずだけど」


「何というか、貴方を簡単に殺せないんですよね。僕自身、貴方に興味がありますから」



 簡単に殺す気はないとはどういう意味合いなのか。恭一がそれを問いかけたとき、穏やかな船の揺れに少し不穏な揺れが加わった。



「貴方は諜報任務だけでここにきたわけじゃない。この世にあり得るはずのないものを回収し破壊するのが、貴方のお仕事だ」


「そんなことまで知っているとはね」


「貴方はよく、うちで取り扱った品物を破壊して回っていますから。貴方のその不思議な直感力と、奇跡に近いと言ってもいい“力”を手にしているわけが知りたくて、やっているんでしょ?」


 調べたにしてはあまりにも知りすぎている青年の言葉にますます気味の悪さを感じ始めた。恭一はその言葉に答えず、彼に銃を向けた。



「そのおしゃべりな口から聞きたいことは一つ。このケースに入っている物は、一体何?」


「そんなこと、聞かなくても大体分かっているんじゃないんですか?」


「では質問を変えるよ。こんな物を使って何をしようとしていた?」



 恭一が単刀直入に聞くと、スラスラと答えていた彼の口は止まり、代わりに薄笑いを浮かべる。わずかに動いていた船体が激しく揺れる。


穏やかだった海は、機嫌が一変したように変わり、船体を波が激しくぶつかり始めた。


 恭一は咄嗟に手すりを掴み、海へ投げ出されていく人の影と叫び声があちこちから聞こえるのを確認する。

 急に海が荒れるにしては、天気はそれほど悪くもない。嵐がきたわけではない不自然な荒れ方の正体は、黒い海の底から現れる。


 水面の飛沫を散らし、このクルーズ船何倍もの大きさのある巨大な吸盤のついた生物の足だった。船は大きく揺れ動き、巨大な足が船体にのしかかると、鉄の塊であるはずの船が凹み、潰されて壊されていく。


 普段何者にも動じることのない恭一の表情と瞳が大きく見開いたのはこの時だ。今まで見たもの、あったものの中でも初めてのケースだった。彼には“ありえないもの”の存在が認知出来るのにも関わらず。


「あぁいけない。それはこんな怪物まで呼び寄せてしまうようだね」


 揺れる船体と聞こえる人の叫び声。まるでさっきの穏やかな波の音に耳を澄ませているかのように、手すりに体を預けて悠々と空を見上げる劉は、おもむろにスーツの袖から銃を取り出し、恭一の右肩を撃ち抜いた。



「っ…‼︎」


__「シルバークラウド?どうしたんです?応答してください!」



 肩を撃ち抜いた衝撃と熱に、ケースを落としそうになった手に力を込めると、肩から流れ出る血が腕を伝い、ケースへと勢いよく流れる。ケースは恭一の血に濡れて、銀色の表面を染めていく。そして、ガタガタと独りでにケースが動き始めた。


「貴方は生贄だ。だから、簡単には殺せない。首を千切って頭蓋骨を割ってその優秀な脳みそを隅々まで弄ってみたいところだけど。僕の目標が一つ完遂されるまではお預け」


「生贄…?」


「これは偉業です。貴方は死んで、この空から深く底まで落ちる。…坠入深渊。 而且你不能回去」


"深く落ちて、そして、戻ることはない"


不意に中国語を発した劉の言葉を読み取り、恭一は思惑通りにこのまま、薄ら寒い微笑を浮かべるこの男に乗ってなるものかというプライドを駆り立てた。


 そして、船体は大きく傾き、怪物の足が船を飲み込むように海へと引きずり込んでいくのと同時に、恭一はかかとを強く蹴り、劉との間合いを詰めると彼の喉元を掴み、その場に押し倒し顔を殴った。



「俺の質問に答えていない。それに殺されるのは俺じゃなく、君の方だからね」


「…っハッ、もしかして、この状況を楽しんでるとか?思ったより貴方とは、気が合いそうだ」


「一緒にしないで貰いたいね。こんなイレギュラーは別に初めてじゃないよ」


「…いいね、お兄さん。思った通りの人だ。僕が初めて"愛した人"の次に………愛せそうだよ」



嫌悪感を駆り立てるような言葉にまた手を振り上げた瞬間、もう船は限界だった。


「貴方と死んでみるのも、悪くないかもしれないね」



巨大な怪物の足は船を押し潰し、恭一と劉は船の衝撃と共に海へと落ちた。



___空が落ちる。


恭一の体が水面に叩きつけられ、そのまま黒い海の底へと沈んでいく時、まるで自分が落ちていくのではなく、空が落ちていくような感覚を覚えた。


このまま世界は深い海の闇へと沈んでいくように、酸素も光も奪われ、恭一から流れ出る血液が失われていく。血液は水に溶けず、まるで命をじわじわと捧げているかのように、浮いていた。


このまま死ぬのだけは御免だと、恭一は抗おうとする落ちていく空に手を伸ばして掴み取ろうともがく彼の前に、それは囁いた。



___「このまま落ちよう恭一。お前の求めるもの、そして救いはそこにある」


この死へ向かう先に何があるというのか。恭一はその囁きに導かれるまま眠りについた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る