第1章 天使は微笑み、悪夢を見せる

 海の底へ沈んでゆく中、時々見せられる幻視の世界の中にいた。

 冷静に物思いに耽っていたが、彼の乗る一隻の小舟を漕いでいた人物が手を止めて、彼に話しかけた。


「君は、私が何に見える?」


「…それ、聞くの何度目?何も変わらないよ」


「そう。なら良かった」


「迎えにでも来たの?」


「そんなわけないでしょう。諦めているのも君らしいと言えば君らしい」


「あの状況でどうやって助かる?君が助けてくれるのかい?ラミエル」


恭一が名を呼んでその人物は微笑み、青く晴れた海のような瞳の色をしたオレンジ色の丈の短いワンピース着たラミエルという存在は言った。


「天使でもそこまで出来ないかな。あくまでも、私は見守らなければいけないんだ」


「天使が悪魔に劣るのはそういう理由?」


「天使には規律というものがあって、悪魔にはない。本来はどちらも、傍観者でいなければならない。たまに話しをしにきてもいつも君は無愛想な男だよ。子供の頃から、生意気で大人びてると思ってたけど」


「それで?君もうちの歳離れた親戚もよく頼み事をしてくるけど、煩わすためにわざとやってるのかい?」


「私の場合、頼みごとじゃない。助言と言ってほしい。君が望んでいること、求めていることを手伝っているのだから」


鋭い目で横から睨み付ける恭一に、ラミエルは彼に微笑みを崩さないまま告げた。


「恭一、まだ死んではない。少なくとも今はね。君が手をつけたものは、これまでに関わってきたものとはまるでレベルが違う。まず、君のその類いまれな才能で行える浄化や破壊出来るものじゃないことだけ言っておくよ」


「浄化も破壊も不可能とまで行く代物だと?…ジュンフェイ…」


一体あの男は何を求めて自分を関わらせようとしたのか。沸き立つ苛立ちを胸に、恭一はラミエルの言葉の続きに耳を傾けた。


「君には、私のような存在を認知干渉できる、この世の能力ではない霊能力を持っている。それに加え、害を及ぼす呪物や悪魔、怪物を祓える古い魔法が使える数少ない男だ。その能力を使って数々の死線を乗り越えてきたところだが、これは手に負えないね。さすがの君も」


「馬鹿にしているの?それとも、発破をかけているつもり?時には神と言うものが干渉した物だってあったことを忘れたわけじゃないはずだよ?」


「この呪物は…正確には、『遺物』と呼ぶべきか。これはね、神以上の存在が生み出した凄く貴重な物だ」


「神より上の立場があるのかい?」


「あるさ。私のような者が、頭を上げて顔を拝めることが出来ないほど、偉い存在がこの世界の真の支配者というわけだ。その存在が、生み出した塊だよ」


 神よりも上であり、天使であるラミエルには顔を拝むことさえ出来ない。神をも造った創造者が、存在するということなのか。

 しかし、どんなものにも元というものがある。無から生み出されたような、何処から発生したかもわからない物という方があり得ないだろう。


 恭一は一人そう結論づけると、どうせ思考は丸見えなのだから、口に出して問いかけたらいいと、ラミエルはからかうような笑みを見せた。


「では、あのケースの中身は?遺物というのは具体的に何?」


「右手を見てみなさい」


恭一は言われるがまま、ケースを掴んでいたはずの右手を見て、目を見開き、自分の手の平から手首のシャツ襟下まで確認した。


 手の平には、十字形に皮膚を裂かれた傷口、血管は浮き立ち、黒い何かが血管を進んでいるのか、皮膚の上でもそれが分かるほど黒かった。その皮膚は腐る前のように生気がなく、酷い色をしていた。


 恭一は見た目が問題なのではなく、自身の体に何か得体の知れない強い憎悪を持つ何かが侵入したと悟る。


「君は死ぬ。その呪いは必ず、君を殺します」


「…」


「なんだ?あまり驚かないんだね。それどころか、恐怖もしていない」


「人はいずれ死ぬ。俺は特に長生き出来ないだろうと覚悟してるよ。人間が普通関わりを持つことのないことに手を出して、いつかこういうものに殺されてもおかしくはない」


「それを受け入れるのは君の勝手だとして、それはね、神をも殺せる毒にもなるんだよ。最悪なことに君のその霊力を吸って強力なものになる。こうして肉体に留めている間も、呪いは周りに危害を及ぼすだろう」


「それは、俺が呪物そのものになると?」


「そういうこと。君を撃ったあの男は最初からそのつもりで、肩を撃ち抜き血を捧げたのだろう」


らう。あの男は何者?弁慶の入手した組織の乗船者リストには、名前がなかった」


「……悪魔に憑かれているわけではない。生まれた時から悪魔だったというだけの話だよ」


らうの話をした時、ラミエルは嫌な虫の話を聞いたかのような不快な表情になる。恭一も、あの男を前にした時は、薄寒く張り付いただけのような笑顔に違和感を感じ取っていた。



「はっきり言って、天使としては君の命は重要じゃない。君には死ぬ前に、その呪いを片付けてもらう」


「…分かった」


恭一は右腕にかけて疼く呪いの根源が這い回るのを感じ取りながらも、まくったシャツの袖を戻した。


 泣き言も言わない絶望もしない。人間にしては聞き分けのいい、もしくは悟りを開いているようにしか思えない恭一のぶれない反応に面白くはない天使は、彼の側に船を揺らしながら近づき、耳元に囁いた。


「君の命は、半年どころかこのままだと三週間も持たない。呪いは進行し、苦しませながら殺していく。呪いを解く方法はただ一つ、遺物を探し、破壊すること」


 遺物はまさに自分が持っていたはずだけど?と問う目に、ラミエルは既に遺物は別の場所に行ってしまったことを告げた。そしてそれは、簡単に破壊できるものじゃないことも告げた。


「破壊するには、遺物を作った者と同じ存在が破壊するしかない。目覚めたら原初エバを探しなさい」


「…それが、天使や神よりも偉い存在かい?」


「人間風情が本来関わることもない一なる者だ。君の最期の仕事に、あの方と共にいられる事を、光栄に思うがいい。そして、遺物を見つけ、破壊する。…それが君の運命だ。源氏恭一みなもとうじきょういち




__ラミエルの指がパチンと鳴り、恭一の意識は別の場所に移動した。


もうラミエルの存在は感じられず、肉体に戻った意識は、体の重さとぼんやりとした視界の向こうに、天井が見えることに気がついた。


石の天井に、民族的な模様が描かれている天井だ。船は大きなタコの足に破壊されて、海に沈んで、今は深海の中を漂って、そして誰かに、体を包み込まれた気がした。


__『貴方の罪を受け入れます』


優しい温もりだった。海の底では感じられることのない安心を感じさせる温もりだったと、肉体の記憶は恭一に教える。



君は、誰だ?


問い掛けても答えない影は、冷たい水の中で、恭一の体を包む。


それは初めて感じる、無償の愛の抱擁であった。

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