第26.5章 過ぎ去りし残火の王

 過ぎ去りし時を戻した。もう変えることは出来ないと、例え全ては記憶が残した残像に過ぎないと知っても、恭一は灰と熱に侵されたコンクリートの地面を踏み締めて、戻ってきた。


 何も出来ずにただ蹂躙されるがまま、来ることがないと誰もが慢心していたあの僅かな地獄の中へ。


 子供の頃は全てが大きく見えたものが、成長した今はどれも小さく見えたが、あの日に植え付けられた恐怖も焦燥も暑さも、何も変わることなく恭一に蘇っていた。


『恭一』


 ラミエルの声が耳を掠めた為、後ろを振り返ると、崩れた瓦礫の下から流れ出る大量の血と、二人の人間の頭が見えた。一つは潰れ、もう一つはその下で動かずにいた。


 そこにラミエルはいない。気のせいかと恭一は再び前に振り返り、足を前に動かした。


『何も怖がることはありませんよ』


 かつて、恭一の目に見えるはずのないものが見え始めた時、最初は体を負傷したおかげで見える幻覚だと思っていたが、次第にそれでは済まないほどの影響が出始めた。


 対処する術を知らなかった弱い子供だった恭一に、天使は片方しかない翼で彼を抱き、守りながら囁いた。


『大丈夫。君一人で対処出来るその時まで、私が護りましょう。…私は、君の守護天使なのですから』


 見えていなかっただけで居たものが、見えるようになってしまっただけだと。


 ここにその守護天使も悪魔もいない。いるのはただ、前へ進むに連れて近づく、あの赤い瞳を持つ者の姿のみ。


 ラミエルは何処かで見ているのだろう。自分がまさしく、天使にすら刃向かう事が許されない存在に、向かっているところを。止めもしないという事は、これは守護出来る対象にないのか、禁忌として見放しているのかのどちらかになる。


 それとも天使の代わりに、母と呼ばれるエバが護っているからであるのか。


『貴方は私が守ります。忘れないで』


「…フッ」


 俺を守るなんて、よく言うよと満更でもない笑みを浮かべた恭一。

彼を待つその者は、右の手に血濡れた刃のある刀を握り、全身は火の粉を帯びる灰に覆われている。まるでその姿を隠しているかのように。


 だが、あの血の池を見ているかのような赤い瞳は、変わらず恭一を真っ直ぐ見据え、その場で静かに待ち焦がれていた。


 ようやく戻ってきたか。命も尊厳も理性も、とうに失われていたはずのものを、自ら差し出すために。_そう告げているかのように刃の矛先を恭一へと向けた。


 恭一も自らの刀を手に握り、灰となる残り火へと向ける。右手から黒いもやのような魔素が上がり、恭一の周りに漂い始める。


 それはまるで、恭一を歓迎しているかのように鼓舞こぶしており、姿の見えないかつてのは微かに笑みを浮かべていることが、恭一には分かった。



【構えよ】



 両者の刃が交じり合う音は凄まじく火花と災厄を振り撒きながら飛び交う。


 燃え盛る業火の中で閃光が走り、最初に赤い血潮を噴き出したのは、恭一だった。


 かつての王。恭一の記憶が作り出した幻想に過ぎない再現された一なる者の力は、たとえ擬物まがいものであろうと、異形であろうと人間であろうとも、数多の敵を圧倒していた今の恭一ですらも、その者にとって相手にならない。


 左肩から右半身の胴体にかけて、たったの一太刀で、容赦なく恭一の骨やその下の心臓と肺ごと真っ二つに切り裂いた。


 生命線を断たれたが、恭一は意識を保ち、その力の続く限り、赤い瞳の者に術を向ける。


反魂牛鬼はんこんぎゅうぎ 急急如律令きゅうきゅうにょりつりょ


 言霊と印の後、恭一の背後から牛の頭を持つあやかしが招来され、毒の霧を吐き、鬼の巨体の腕が襲い掛かる。


 かつて源氏の者に倒され、当時人の世に猛威を振るっていた最恐ともいえる残忍な鬼のあやかし。

 牛鬼はエバである赤い瞳を持つ者に、畏れを抱くことも怯むこともなく追撃をするが、猛毒の霧も、巨体に似合わない素早い攻撃も、その者には微塵も通じる様子はなかった。


 攻撃を掻い潜り、毒の霧の中にも平気で飛び込み、牛頭の脳天に蹴りを落とす。単純な蹴りはどんな名刀も、岩も大槌も通さなかった化け物の頭蓋骨を砕き、トマトを潰すように頭部が潰れた。

 普通の人間と変わらない大きさからは考えられないほどの、人智を超えた力を見せつける。


 アイテルとはまるで力の比較にならない程、一なる者の恩恵を授かった器。

恭一は血を吐きながらも、この圧倒的な力の差を見せつけた残り火に笑みを浮かべ、胸の内で歓喜していた。


 人間としての姿を保ちながら、これほど強い者が、この世に存在していたのか。

 

 ____面白い。


 胴体を切り裂かれ、確実に殺された肉体は再び再生され、母の泉による恩恵を受けて恭一は立ち上がる。


 その者と斬り合う度に、恭一の肉体は容赦なく破壊された。何度も、何度も、何度でも、恭一は赤き瞳の王に殺され、また生き返る。


 斬り合い、また死に、再生され、よみがえり、再びまた死にに行く。


 もはや、殺される為に刃向かっているのかと思うほど、何度も殺される。


 僅かな残り火であっても、その強さは人が敵うものではない。エバである者、一なる者として、この世に君臨していた真の王の者。人など、虫ケラにも劣るであろう。


 これだ。これこそが、強さか。誰にも止めることの出来ない。誰にも真似など出来ない。全てを滅ぼせるほどの圧倒的な強さ。

 恭一が求めていたものは、全てそこに揃っていた。


 手を出そうと、刃を向けようと、殺そうとしても、けして届くことのない。全てを手に入れた者。


 それが、幼い頃に自分が出会ってしまった者。過去と憎悪を縛る、呪縛。



【弱い。まだ、弱い】


【母にすがってもなお"それ"か】


【情けないものよ】


 灰の中に燃える灯火が息吹を増し、嘲笑う。何度も一なる子宮によって産み戻されても、赤い瞳を持つ者の体に一つの傷も残せず、ただ何度も殺されるだけ殺される恭一に向けた。


【勝ち戦を続けてきたつもりか】


【自惚れた小僧よ】


【私はお前の記憶によって作られたに過ぎないと言うのに、依然として、私を殺すことが出来ない。むしろ、殺され続けている】


【私を殺しにきたのか、己の死のために戻ってきたのか。どっちだ?】


 切り裂かれた喉の肉が繋がれ、声帯も戻り、再び話せるようになった恭一は、いくら血や臓物を流したのかも分からないほど血に濡れた手や体を拭い、ふらりとまた立ち上がる。


「君は、何処にいる」


 赤い瞳の者の問い掛けの選択を選ばず、そう問いかけた恭一に、灰の中から再び灯火が燃え上がった。


「君は、俺を殺しに再び現れたんじゃないだろう?殺そうと思えばいつだって出来た。今みたいにね。…でも、君は殺さない」


 今も、昔も。


 繰り返される戦いの中で、恭一はその事に気がついた。とても簡単で単純であったのに、見えなかった事実に。


「俺が会った中でも、君を超えた強さを持つ者はいない。今まで相手にしてきた悪魔も神も、何もかもより…全てを超える。超え続ける」


 同じエバのアイテルも、君のように強くない。呪いとして残った君はアイテルに護られる僕を、殺すことが出来るはず。この呪いは常に、俺もアイテルも殺せた。


 それでも、殺さずに生かしていた。何の為に?初めて出会ったあの日も、恭一だけは殺さなかった。それ以外は全て、皆殺したのに。


 どうしてだと問いかける声に、最後まで恭一の言葉に耳を傾けていた赤い瞳の者は、やがて静かに答えた。



【お前はまだ、何も見えていない。恐れている。姿を目にする事を】


 恭一の血に濡れて赤くなった刃を再び向け、何も感じていないと、したり顔をしている恭一の胸の底を見透かすように告げた。


【殺す必要など無かったことだ。お前は既に、物の重みに潰されていたのだから】


「…!」


【だからこそ、他と違い記憶をすり替えられることなく居られた。私を覚えていた。そして恐れた。再び私が、お前の前に現れる事を。今も怖いのだろう、私の事が】


 だから、殺すことが出来ない。

そう告げた言葉が、彼に与えられた最大限の答えだった。


 記憶の再現というだけの存在。アイテルの言っていた通り、強いトラウマは乗り越えることが容易ではない。記憶は想像、想像は思い込むだけ強く、時には本物よりも上回ってしまう。


 あの時、恭一は既に死にながらも、魂だけは赤い瞳の災厄と対峙していたのだ。


【思い出の中ですらも、私を殺せないのならば諦めよ】


【お前は何も変わっていない。一族から逃れるために、強さを求めて、足掻いていただけの子供に過ぎない。その歳まで私を忘れ、存在を消し、頭を抱えて震えてきた】


「…違う」


自分は臆病者ではない。そう言い返そうとした恭一の言葉に被さった。


【だったら、何故私を超えようと思わない?】


 その一文の言葉に全てがあった。

そう思わないのは、私を恐れるばかりで、勝つ気がないのだろう。と。


【この世界の中でも私を殺すことが出来ないのならば、このまま朽ちて、我が憎しみの依り代となるがいい。お前の言う通り、アイテルなど私の相手ではない】




 おもむろに左手をあげ、空中で何かをぐっと握ったその時、恭一の鼓動が波打ちアイテルの悲鳴が頭の中に駆け巡る。


 胸を抑え、苦痛にのたうつアイテルの姿を視た恭一は、咄嗟に刃を振るう。だが、再び切り捨てられたのは恭一だった。


 激痛と大量の血と肉片が視界を舞う中で、恭一は目にした。灰の中、炎の灯火が燃え盛り、心臓のようにその者の姿に波打っている事を。



【これがお前が選んだ選択だった】


「っ……やめろ…」



 肉体の回復が遅れていることを悟り、逃れ続けてきた死を前に、恭一は、まだ苦しめられているアイテルの姿を見せられながら言い放った。


「相手は俺だ。彼女は、関係ない」


【神聖な戦いの場に水を差してきたというのに、関係ないと?これは私とお前との戦い。どちらかが果てるまで続く。どちらかに肩入れる安っぽい援護など必要ない】


【一人で生きていた、一人で強さを得た、一人で…一人で…一人で、全て壊した】


【示してみよ。お前も、そうだと言うのなら。誰の助けもなく、護られることなく、お前の血と罪にまみれたその手で…愛した者を護りたいのならば】



 体から生命が失われていく中で、恭一は腕の呪いに共鳴したかのように、ビジョンを視る。様々な場面が散りばめられて走馬燈のように過る記憶。



 孤独、絶望、喪失、悲しみ、憂い、怒りがそこにあった。


【私は、誰も守ってくれなかった】


 最後に恭一に向けられたのは、"妬み"。それは募り積もって、やがて憎しみへと変わった。


 恐怖と憎しみが恭一を縛る。壊れた肉体ももう立ち上がらせることが出来なかった。


 

__【私は、ここにいます。恭一さん】


 孤独に沈んでいく影、かつて自分を見下ろしていた灰の残像を追いかけようとした手を後ろから押し留めたのは、苦しみながらも恭一の傍で彼を守り続けていたアイテルだった。



「君……」


【一緒にいますから。貴方には、私が】


「……俺は……」


【誰かと共にいることは、弱さではありません。私が、力です。貴方の傍にいる誰もが、貴方の強さになる】



 孤独はけして強さではない。

自分より多く、強大な何かに立ち向かう時、共に戦える誰かがいる。それも貴方の力であり、強さであると、アイテルはいつかのように後ろから恭一を抱きながら告げた。



【だから、恐れないで。貴方は勝てる。貴方は、強くなれる】


「っ……!!」


 痛みを耐え、癒えない傷跡を抱えながらも立ち上がった。


「負ける気なんか…最初からないよ」


 恭一の夜叉が目覚める。恭一は再び印を切り、術を口走る。

右手の呪いが彼を蝕む中で牛若丸を握り締めて、再び構えた。



「悪夢の中で何度目が覚めた事か…あれほど迷惑極まりない毎日は二度と御免だよ。君のせいで、咲は死んだ。多くが死んだ。君一人の、身勝手のせいで」



 だからもう誰も殺させはしない。少なくとも、自分のせいで誰かが死ぬということだけは。


 俺を愛したいと言った、彼女アイテルは特に。


 恭一の言葉に、再び赤い瞳の者は迎え撃つ刃を静かに向ける。まるで、その覚悟に称賛の手向けを贈るかのように。


 「この呪いは、俺が殺す」


 地面を蹴りあげた恭一は、再び真正面から斬り合う。持てる全ての術を使って撹乱し、エバの子宮の加護を受けながら、また何度体を斬られても止まることはなかった。


 もはや敵ではない。この死闘は、ただの戯れに過ぎないということに気付いてしまった恭一には、記憶の中の残り火に綻びが生じる。


 僅かに赤い瞳の者の動きが鈍くなり、その実体である灰の姿は少しずつ形を失っていた。


 もはや、恭一が恐れを手放しつつあったのだ。


 「さぁ、消えろ」



 牛若丸の断ち切りが初めて、その者の右半身を縦一文字に切り裂いた。


 灰と火の粉が目の前を舞い、血が噴き出すかのように広がっていく。

 その者が手にしていた刀は、灰の中より切り落とされた右腕と共に、地へ転がる。


 黒く濁った灰と燃え火に隠されて見えなかった人の腕が恭一の目にはっきりと映り、そこにある。


 牛鬼をぶったぎる程の力を有しているとは思えない程の細腕で、まだ若々しい肉付きの人の腕。

 それはこの呪いの根源であるものであり、ケースの中に入っていたであろうものの正体だ。



【やはりな……何も変わっていない】


【……また……奪われると言うのか……】


【フフッ………それもまた良し…】



 灰の塵となっても、胸の辺りにあった灯火は消えていない赤い瞳の者は、満足げに笑っていた。


【それでいい…私を見つけよ。お前はまだ、何も見えていない】


【隻眼の未熟児が隠したあの場所で、待っている】


【そこで、全てが分かるだろう】



 その言葉を遺し、舞い上がった灰は空へと消え、残り火は消えてゆく。炎が広がった暗いあの日の地獄の中、残された右腕は血の中で蠢く。


 恭一の右手に激しい痛みが貫く。そしてビジョンを見せた。


 白い雪の中に閉ざされ、隠された神殿の中に、その右腕は、血の泉に囲われた石の台座の上で静かに安置されている光景を。



 恭一は呆然とその場に立ち尽くす。


 まだ何も見えていないと告げられた言葉に、妙な懐かしさと、恋しさ。


悪夢と呼んでうなされていたものがいざ消えて行った事に、虚しさを感じていたのだった。

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