第27章 痛みは終わらない
自身の子宮を握りつぶされたかのような痛みに苛まれ倒れたアイテルは、自身よりも強く、完全に近いエバを前にして何度も恭一を癒し続けた。
同一である者のはずが、無慈悲にアイテルを苦しめる。まるで自らの肉体を平気で傷つけるかのような自傷行為。憎しみを自らに向けているかの如く。
【許さない】
戦いが終わっても、彼女は夢から覚めることがなかった。暗い闇に一人取り残されて、恭一の変わりに引き受けた痛みを受け続けていた。
どれだけ叫んでも、喚いても、恭一はおろか、誰も来ることはない。誰も助けなど来ない。誰も、痛みを引き受けることはない。
ここで一人、痛みに耐え続けていなくてはならなかった。それは元より、恭一の呪いを受け入れてから続いていた事だ。
__【痛い】
身を焦がす痛みが襲う。
生ある限り続く激しい激痛に苛まれ、体を丸めて堪えるしか、アイテルになす術はなかった。
_【苦しい、痛い……痛い…憎い…憎い……憎い…憎い…どうして…どうして…】
痛みの続く程に増すのは、絶望と怒り。どうして、こんなにも苦むのだろう。どうして、こんな目に合わなければならないのだろう。どうして、こんなに痛いのだろう。
ここには誰もいない。誰も、助けになど来てくれない。ただ心臓が波打っているだけで、ただ生きているだけで、こんなにも苦しいのだろうか。
腕に爪を立てて、一人闇の中で苦しむアイテルは呪いの根元を知った。この呪いが特別なのではない。誰しもが生み出す、誰しもが味わうはずのもの。しかし全ての人ではない。
長く続く者もいれば、すぐに融けてしまう者もいる。この呪いは、全ての人を、生きる全てを苦しめ、狂わせる。
「っ……きょう…いち………さ…」
【誰か、助けて、助けて…】
アイテルの声と、"誰か"の声が重なる。
「…わた、しは……」
ここにずっといるのだろうか。誰にも手を差し伸べられることなく、誰にも気づかれる事なく、誰にも知られることなく。
ただずっと一人で、苦しみ続けて。その果てに、何が待つというのか。
__「やっと見つけた」
痛みと苦しみの中で、アイテルの目前に白い羽根が落ち、やがて焼け焦げて炭と消える。
底が何処にあるのかも分からないほど黒い色の上に、白く骨身のある素足が降りた。
「探したんだよ、アイテル」
その声は果てなく続く闇の中を反響し、苦しみに押し潰されそうなアイテルの耳にも届く。彼女の赤い瞳の中に写る素足はゆっくりと地を歩いて近づき、男性のように大きく長い指を広げた手のひらを差し伸べた。
「その程度で泣くんじゃない。これからもっと、苦しいことが待っているんだから」
目の前で転んだ子供に言い聞かせるような言葉に、アイテルはいつしか何処かで同じことを言われたような懐かしさを覚えた。
誰に言われたのだろう。姿も声も、思い出せはしなかった。
「手を出しなさい」
待っている声に、腕を震わせながら重い手を挙げて、ここから動けないという強迫観念を残った意識で振り払い、アイテルは差し出された手に辿り着いた。
ぐっと力強くその手は掴み、引き上げた。アイテルは何者かの抱擁に包まれたその瞬間、自分を蝕んでいた痛みも不安も苦しみも、憑き物が落ちていくかのように消え去っていた。
これは、誰なのだろうか。助けの来ない場所へ、私を迎えに来たのは。
そう考えるアイテルは、この抱擁に身を任せて安心感に包まれていた。
「いい子だね。お前は、いい子だ」
生命の母と呼ばれる自分に対してそう囁き頭を撫でる誰かに、アイテルは涙を流していた。
貴方は誰?
それはもう二度と、与えてくれることのない無償の愛。どうしてこんなにも、遠く感じるのかと言う正体の分からない愛だった。
___「アイテル…テル…!」
慈愛の光に満ちていた景色は消え、夢から覚めたアイテルは、自分を抱いていた誰かと同じように抱く恭一の声に目を開く。
「テルッ!」
いつしか自分を愛称で呼ぶ彼に対して、アイテルはそっと軽くなった腕を動かし、背中に回す。細身に見えても、鍛えられた硬い背中と恭一の存在をはっきりと認識した時、体の力を絞り出して恭一を抱き締めて、耳元に口を近づけ、涙声で応えた。
「良かった…恭一さん」
「平気かい?」
「はいっ…私は大丈夫です。……ちょっと、怖かったですけど、貴方が生きてくれたから…」
「…うん」
何度も何度も、恭一が無惨な死を受ける所を間近で見せつけられていたアイテルは、恭一の命と温かみがあることに安心し、恭一の顔に埋めるように口付けようとしたが、恭一は顔を逸らして拒否した。
「…?どうして…?」
「目を覚ましたよ」
不満と不安を顔に出して視線を送るアイテルに、恭一は後ろにいるマヤに声をかけるのと同時に存在を知らせる。マヤがいることを完全に忘れていたアイテルは、思わず顔を伏せて恭一から身体を離した。
「陛下。お身体は、何事もありませんか?」
「え、えぇ。大丈夫です」
恭一が目覚めてもなお、腹部と胸を抑えて苦しみ、うなされていたアイテルを見ていたマヤは、立場を弁えた他人行儀な言葉を使いながらも近寄り、義妹を心配している情が表情から読み取れる。
恭一に強く抱かれていたところを見られていたようだが、気がついていないところを見て、アイテルは少しホッとしながら、大丈夫なことを伝えた。左腕が酷く腫れていること以外は。
「何か分かりましたか?結果を急かしたくないのですが…魔が深くなってきました。貴方達の呪いに、引き寄せられている。じきにここにも魔物が集まり始めるでしょう。そして私にも、災いを当てようとしている」
不吉な予感を感じ取っているマヤに、恭一も感覚を研ぎ澄まして周りの様子を伺うと、微妙ながら、確かに魔の気配が起きた時より濃くなっていることに気づく。呼んでいるのだ、この身の呪いが、災いを。ここにもあまり長居は出来ないだろう。
「見えたのは、雪の地にある汚された神殿でした。雪…と言えば、プラウド領でしょう」
「プラウド領って、この間来てた君の旦那の…」
「そうです。プラウド公ヒュブリス様の治めるエリアです。あちらは寒帯の地域が多い。今の時期に、あれだけの雪が覆っているのはまずプラウド領で間違いないです。…それに、謎も少し解けましたわ」
何故、プラウド領で内乱がなかなか収まらないのか。アクロポリスで保護していた難民は、プラウド領の民だ。
元はと言えば、割り振られた自治権に不満を感じた領主とその隣の領主とが揉めてしまった事なのだが、一介の兵士達が先制攻撃を勝手に仕掛けたことにより、争いになってしまったのだ。
プラウド公ヒュブリスは宥めたが、両者引き合いがつかず、多くの一般市民にまで影響が出た状況に、武力での鎮圧を試みる方針であることをアイテルに相談しに来ていたと言う。
「今までその土地は、不満を漏らした領主側の自治でしたの。領の畜産業の大半をその土地で補っていたようですわ。他の土地はあまり動物が育つ環境ではなかった為、手放し難かったのかと」
「そもそも、なんでその領主の自治から外れることになったんだい?」
「プラウド領は他と比べて、極寒の厳しい環境の土地が多いのです。実りある土地は、必然的に奪い合いになります。プラウドとなってから、ヒュブリス様が公平に分配したのですが、元々の領土を他に取られて、納得できない方もいるようで」
自分の所にも何通も抗議文書が届いた事かとアイテルは思い出して頭を悩ませたが、マヤは一介の兵士が勝手に不意打ちを仕掛けたという話に疑念を抱いていた。
「上の揉め事で、末端の兵士が勝手に動くわけがありません。何らかの指示があった事は確実でしょう。それに、随分と長引いているところから見ても、遺物の影響が関係していたということになります」
「…木を隠すなら森に...か」
恭一はそう呟いて、アイテルと顔を見合わせる。
混沌を生み出すものが、最初から混沌の中にあったとしたら、一見では分かりにくい。
「あのヒュブリス様が困っていらっしゃったのも頷けますわ。問題は、プラウド領の何処という事になりますが…」
「…行くしかないだろう。もう、時間がない」
考えるのは進みながらでも出来る。恭一は自分の黒くなった腕を見ながら、あの言葉を思い出す。
【私を見つけよ。お前はまだ、"何も見えていない"。隻眼の未熟児が隠したあの場所で、待っている。そこで、全てが分かるだろう】
何も見えていない。知りたかったもの全てがそこで分かる。
恭一は違和感を覚え始めていた。
俺は一体、何が見えていないのだろうと。
「私は着いていけません。ここで、被害にあった者の支援に回ります。一緒にいては、私も狂わされる事でしょう」
マヤは恭一の腕と、いつの間にか弾けて修復不可能なほどくだけ散った銀の腕輪の破片を見てから自分達の右の森の奥を指差した。
「ここから抜けて行けば、アプロディーテのウラニアが見えるはず。ミツキには既に連絡しています。郊外で待つよう指示していますので、街には絶対入らないように」
「ありがとう、マヤ」
「これを」
マヤが腰につけていた巻物のように巻いてある布をアイテルに手渡す。アイテルがそれを広げると、みるみる大きく広がり、宙に浮く絨毯となる。2人か3人は乗れるほどの絨毯を見て、「まあ!魔法の絨毯!」とアイテルは喜んで手を叩く。
「よろしいのですか?貸してもらってしまって」
「知っての通り、これの速度はそれほどですが徒歩よりは速いでしょう。…貴方達お二人が、森で迷って妙な事にならない為にも、どうぞ」
「え?」
表情1つ変えず、さらっと意味のありそうな事を最後に言ったマヤに、アイテルは内心ドキッと胸の鼓動が跳ね上がった。
「どういう意味でしょう?」
「別に。男女2人だけで一夜。何処でどう夜を過ごしていたのか私は知りませんが、早く森を抜けた方がお互いの為かと思って」
「そ、そう?お気遣い嬉しいわ…」
表情は変わらないが目が鋭い。絶対何か勘づいていると言う事に気づいたアイテルは、汗ばむ手を服を払う動作で誤魔化して拭きながら笑って答えていたが、後ろにいた恭一は我関せずと言った様子で別の方向を向いていた。
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