第4章 聖母の微笑み
生きている事さえ、苦痛だ。
身を焦がすほどの有り余る憎しみは、生きている限り消えないのだから。
突然襲いかかってきた人間達は、誰が見ても様子がおかしかった。
彼らの纏うオーラ、そして血のように染まった赤い眼球は飛び出しそうだった。人間性を失うほどに狂い、殺意に駆られて、激しい恨みをぶつけるだけの
全てを殺し尽くすまで、止まる事はないだろう。人間から獣へと堕ちたあの姿を、恭一は見た覚えがあることを思い出す。
住んでいた街、空、車、建物、人の全てが炎に包まれたあの日、人間の肉を焼く炎と煙に喉を焦がされ、幼い時の恭一は見ていた。
幼少期から、滅多に感じる事がなかった感情をその時初めて抱く。
————恐怖。
自分が生まれた世界全てを焼きつくす“あの姿”に、右腕を強く掴まれた。
【お前は誰だ?】
深い根の底から響く声が恭一の脳裏に染み着く。"お前は誰だ?"そう問い掛ける言葉により締め付けられて、喉が潰されたと同時に現実へ引き戻された。
「っ………ぅう…」
激しく咳き込みながら上半身を起き上がらせようとした時、すぐ側の気配が苦しむ唸り声をあげていることに気がついた。
彼女は恭一の呪いを受けた右手を握りながら、苦しそうに表情を歪め、必死になにかを呟いている。
恭一の右手は熱く熱を帯びて、アイテルは呪いに対して何かをしているようだったが、アイテルの苦しむ姿を見て、恭一はすぐに彼女の手を振り払う。
恭一は、自分の右手を見る。傷口が少しだけ癒えているように見えたが、呪詛は残ったままだ。これを直接他の者に触られたくなかったが、触ってしまったアイテルを見て、まずいと考えた。
この呪いがまだどうやって何に作用するものなのか、分かっていなかったからだ。
「……君」
振り払った拍子に倒れたままのアイテルを左手でゆっくり助け起こす。アイテルは汗をかき、存分疲れきった様子だった。
恭一の手を握っていた手は、火傷を負ったように傷付いている。
恭一は彼女の手を見たが、外傷だけで済んでいることを確認して一息ついたが、ムッと眉を潜めた。
「君ね…触るなって言ったはずだけど、言葉通じなかった?」
どうなるのかも分からないのに勝手に触ったアイテルに対して厳しい口調で顔を覗き込みながら一言告げると、アイテルの赤い瞳は恭一を見上げ、やがて柔らかい口調でこう言った。
「良かった…。戻ってくれたのね」
強く振りほどかれた事を気にもしている様子はなく、恭一を見上げて一安心したような表情を浮かべる。そんなアイテルに、恭一は躊躇ない一言を放つ。
「バカじゃないの?」
「え?」
「人の心配してる場合?ていうか、人が触るなって言ってるんだから言うこと聞いてくれないかな」
「だって、あのままじゃ…」
「こっちは嫌な呪いにかかって死にかけてるのに、三日も軟禁されて、ただでさえイライラしてるんだよ。後、ほとんど初対面なのに、馴れ馴れしいんだよ、君」
辛辣に突き放したような言い方をする恭一に、アイテルはきょとんとした顔で答えた。
「でもさっき恭一さんは、私をいきなり押し倒して、おさわりになりましたわよ?」
「馬鹿みたいにぽっーと突っ立ってたまま、頭にナイフが刺さっても良かったの?」
「恭一さんがそうやって助けてくださったのですから、私だって恭一さんを助けるために触ったのです!同じじゃありません?」
「違うね。だいたい、どう助けるって言うのさ、君が」
「まっ!違いません!」
アイテルと恭一が言い合っていると、やがて騒がしく人が駆けつけてくる気配がする。
「オイゴラァァァァッッッ!!!!てめぇぇ見つけたぞ!!!!」
ぞろぞろと人を引き連れて庭園に入ってきたのは、恭一を見るや否や怒声を上げてこちらに向かってくるジュドーと、その後ろを追いかけ庭園に転がる兵士と刺客の死体を見て、他の者と一緒にどうなってるんだと辺りを伺うミツキの姿を恭一は認識し、アイテルはジュドーの怒声を聞いてびっくりしたように身体をはね上がらせた。
「こ、これは、陛下のご庭園で、一体何が」
「貴様、部屋から脱け出して一体何処に………っ!?」
ジュドーは恭一の姿を見て近づくも、アイテルの肩に手を添えて支えているのを確認し、更に目を血走らせ、ワナワナと指を差しながら、再び怒声を発した。
「貴様…このバカどもが目を離した隙にっ…!!その穢れた手を、即刻離せっ!!無礼者が触れていいお方だと思ってんのか!!」
「い、いや、ジュドー執事長!!落ち着いてください!源氏様はアイテル様の事はまだ…!」
「ぶっ殺す!!!」
主人である真王、アルミサイール女王に遣えているはずのジュドーが、アイテルを見るや否や動揺と激昂し、慌てたミツキがそれを諌めようとするも、制止を振り切り、地面を蹴って、恭一の顔面目掛けて飛び蹴りを食らわせた。
___が、恭一はアイテルを左手で抱えたまま、空いていた右手で彼の足を受け止める。
衝撃で恭一の周りの地面から土埃と芝生の草が舞うも、片手で単純に足を受け止めた恭一に、ジュドーの眉間がピクリと動き、アイテルは唖然とその様子を見ていた。
ジュドーの後ろの方では、ミツキや駆けつけた侍従や兵士達も、目を見開いて驚愕している。
「え……えぇぇ!?」
「乱心状態のジュドー様の蹴りを受け止めた…」
「あの男何者だ?オラトのウラシマモノだろ!?」
けたたましく聞こえるミツキ達の声を耳障りに感じながら、恭一はぐっとジュドーの足を握りながら、ジュドーの視線とぶつかり合う。
静かに睨み合う中、真ん中にいたアイテルの一言で、あと数秒後に行われるはずだった事が行われずに済んだ。
「お止めなさいジュドー」
「…しかし」
「私は、乱心した者達からこの方に救っていただきました。恩がある方に足を向けるとは、何事ですか?下がりなさい」
「…はっ、このジュドーの無礼をお許しください。……陛下」
__"陛下"
確かにそう口にしたのを聞いた恭一は、自分の前から足を下ろして恭しく礼をしたまま数歩下がり、そのまま膝をついて頭を下げたジュドーと共に、背後にいた者達も次々と頭を下げてそのまま膝をついていく様子を見た。
恭一以外のその場にいる誰もが膝をついて頭を上げない光景が広がる中、アイテルは恭一の手から離れ、よろついているアイテルの様子に気がついたジュドーからの介助を受けながら立ち上がった。
「ごめんなさい。ジュドーの無礼を許してあげてくださいね」
「…"陛下"?」
「高貴な身分の者は、民衆の前には滅多に顔を見せて表に立つことはありません。顔を知られれば、あらゆる方法で命を狙われるリスクが高まる為、必ず、代役を立てるのです。…だから私は、貴方と直接お会いすることは出来なかった。特に、私のような身分の者は」
胸を抑えながらようやく立っていると思われるアイテルは、赤い瞳に無表情ながらも自分を一心に見つめる恭一の姿を収め、顔にかかった黒髪を直しながら彼に告げた。
「私は、アイテル・ルナステラ=バビロニアス。アクロポリス国女王にして、
___
改めて、アイテルが自身の名を口にする。
子宮を司るエバ。
幻視のビジョンの中で、老婆は言った。『子宮』はお前の母でもある者、知らないわけがない、と。
意味はまだ分からない。しかし幻視の中で理解させられたのは、それは、エバと呼ばれる存在の
「…君が?」
「そうです。あまり、女王のようには見えないかもしれませんが」
「見えないね」
「アイテル様、今の妄言はお気にされませんように。アイテル様の魅力は、表情所か脳みそが化石で出来ているような
「女王なら、自分の執事の態度の悪さを直させたらどうだい」
「こっちの言うことに従えない疫病客などに、敬意を払うつもりはありませんね」
「ジュドー」
ジュドーの棘のある態度に対して冷静にはっきりと対立する恭一に、ジュドーがまた苛立ちを見せるが、アイテルに諌められて沈黙する。
正体を見せるわけにはいかなかったから、恭一とは代役を務める者と引き合わせたのだとアイテルは語るが、それならばどうして、別の場所で女王と名乗らずとも、自分の前に姿を現したのかと聞くと、アイテルは答えた。
「エバであると伝えても、貴方は信じられもしないですし、よく理解も出来なかったでしょう?」
「…まあね」
「どんな方がいらしたのかと気になってしまって、つい表に出てきてしまいましたわ。久しぶりのお客様でしたから」
ちょっと照れながら答える理由に、特に特別なこともなく、ただ単に興味本位だったというだけで自分に近づいてきたこの女王を恭一は、気品は伺えるのに根は何処か庶民的で、変わった馴れ馴れしい女という印象を受けた。
「陛下。私に黙ってまたそのような事を…」
「ジュドーは心配し過ぎよ。大丈夫、彼はいい人だもの」
「…」
____"いい人"?
恭一は黙っていたが、特にたいした交流もなく人からそう言われるのは初めてで、内心戸惑っていた。というより、ある程度知り合っても、無愛想なポーカーフェイスと誰にたいしてもぶれない態度、誰も寄せ付ける気もない威圧感のある雰囲気を前にして、優しい、取っ付きやすい、楽しい、いい人というポジティブな印象は、持ちにくいものであった。
「恭一さんが私に会いたがっていた理由は、分かっています。…でも、今日は、疲れてしまいましたわ。恭一さんも、お休みなさってください。また明日、改めてお話致しましょう?」
「…こちらは時間がない。明日、話す時間はちゃんと貰えるんだろうね?」
「図々しい男だ。聞こえなかったか?時間の指摘について、貴方の指図する所ではない」
ジュドーがアイテルと恭一の会話に割り込みそう告げると、不機嫌そうにさっさとここを片付けろと周囲に指示を出し、控えていたミツキを呼び寄せた。
「明日、時間になったら部屋まで迎えを寄越す。それまで大人しくしていろ。陛下を救っていただいたことに免じて、兵士を二人襲った事、この状況を引き起こした事について、今回は、見逃してやる」
「俺が引き起こしたわけじゃないけど?大体、この規模の城に対して警備の数が少ないし、兵も弱すぎる。監視カメラもないの?警備責任者クビにする方が先じゃない?」
表情は無と変わらないが、口は的確に物事を突っ込む姿勢に、ジュドーは静かに笑顔になりながらも、腹の底では、口答えする恭一に明らかな殺意と苛立ちを煮えたぎらせていた。
「…陛下、やはり殺しても構いませんか?」
「ジュドー…このように城へ刺客が入り込み、警備が手薄であったことは解決しなくてはいけない問題でしょう?」
「陛下の御身を危険に晒し、このジュドーはいつでも処罰を受ける覚悟でございます。しかし、その事について後でご説明させていただいてもよろしいでしょうか?この状況に関して、問題がおきておりまして」
「分かりました。メジェドの気配が消えていることに、私も気になっていましたから。……恭一さん」
アイテルは再び恭一に微笑みかけた。恭一は黙ってアイテルの方を向く。
「先ほど私の力で呪いを抑え込みましたので、今夜はもう、痛むことはありません。だから、どうか安心してお休みください。
【安らぎを得ることは出来ない】
アイテルの声と、脳裏を過った誰かの声が重なった。その声に恭一は周りには悟られないレベルで反応をするが、アイテルの少し悲しげに見える微笑みと視線に、何も言わなかった。
「ミツキ、後はよろしくお願いしますね」
「かしこまりました、陛下」
「失礼させていただきます。ごきげんよう」
「真王陛下をお見送り致します」
ジュドーに連れられ、その場から立ち去っていくアイテルを、ミツキや他の者達が一声に見送りの言葉を述べた。
恭一も黙ってその後ろ姿を見送り、自分の右手の傷を見る。
俺がどれだけ抑えようとしても無理だったのに。それは彼女がエバだから?当初から馴れ馴れしかった彼女だが、こんな傷と呪いの負荷で黒くなった肌を触りたいと思う女はいないだろう。
初対面なのに、何故かよほど気にかけてくると思ったけど、本物の真王は彼女か。どうりで少し、妙なオーラを持つ女だと思ってた。
「源氏様、お部屋へお戻りください。お願いしますから、言われた通りに」
そう考えていた恭一の顔を覗き込むように訴えてきたミツキの顔が目に入って思考が止まる。目の前の中性的で美しい顔立ちのミツキを見て返事を返し、庭園に倒れた遺体や兵士が片付けられていく中で、恭一は部屋へと戻されたのだった。
____5日前に遡る。
静かな夜の中、王は一人、波一つ立たない海底の底を写し取るような黒い海に、アイテルは立っていた。この静か過ぎる海辺で、アイテルはこの海の底へ何かが近づいている事を感じ取る。
「…あれは…一体、何?」
暗い空の向こうで蠢く深海の生物達のどよめき、境界が開こうとしていることを感じ取った。
やがてそれは、流れ星が落ちるかのように、膜を破って突き抜けた何かが、白い羽根のような光に包まれ、遠くの海、この近辺の海へと落ちていく。
海の水の中につけた足を動かし、アイテルは、導かれるように突き進む。可視と呼ばれる世界から、けして混ざりあうことはない死者の世界へと堕ちてくるものへの恐怖などなく、自分を呼ぶ、災いの元へと。
【殺す……】
【殺してやる…何もかもを】
【もう…思い残すことなど、何もありはしない】
何かに対する深い憎しみに身を焦がす、悲痛な声の囁きに、アイテルは海の中へと潜った。
彼女の持つ、オリハルコンのペンダントの輝きが、彼女を守護の守りで包み込み、水中でも息の出来るよう祝福をもたらす。
アイテルは暗い海の中を進む。地上の光が届く範囲を見て回っていると、いくつもの残骸を目にする。それはこの世界の物とは違うものだと気づくのは容易かった。
しばらくオラトとウラノスが混じることはなかったのに、何故境界が開いたのだろうか?2つの対極に穴を開けるには、それほど大きな力が作用する何かが起きなければ、めったにないとジュドーに教えて貰ったことを思い出す。
こちらに来ようとしても、境界が開いていなければ、深海の水圧で全て押し潰されてしまうのだと。
では地上で、何かがあったのだろうか?
「静かすぎる…魚も、人魚達の姿も見えないなんて…………あっ…」
コポッと口から泡を出したアイテルの視線の先に、人の形をした影が漂っているのを発見した。
「…!」
アイテルはすぐにその影の方へ向かった。落ちてきた破片の一部と共に底へと沈もうとしている体を抱き、男性であることに気がついた。
丸みのある頭の形がよく見える黒髪に、切れ長の目の形の黒いトレンチコートを着た、美形の男。細身だが重みのある硬い体をしている彼をアイテルは何とか沈まぬように受け止め、彼の顔を覗く。
「まぁ、綺麗な人…。大変…怪我してるわ」
アイテルは一瞬、この意識のない男の顔立ちに見とれたが、肩から血を流して怪我を負っていることに気がつき、傷口を抑えるように肩に触れた。
そして、自分が引き寄せられていたものが彼にあることに気づく。
浮かぶ彼の右手には、開いて肉の見えた十字の傷があり、おぞましい憎悪を発していることに、アイテルは気がついた。この男は、触れてはいけない災いに触れてしまっているのだと。
しかし、彼を見て何かを決心したアイテルは彼の前へと体を移動させて向かい合い、暗くも光の差す水の中で、男の顔を優しく包み込み、額に自分の額を合わせ、自身に宿る偉大な聖母へと祈りを捧げた。
「母なる
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