第24章 禁断の実に口づけて
__君が憎い。誰が憎い。貴方が憎い。誰もが憎い。私が憎い。
「…"私は、全てが、憎い"…ぐっ……」
幻想の世界で、ラミエルは片翼の羽を散らし、広がる水の上へ膝をつき、一人無像に沸き上がる苦しみに耐えていた。
「思ったよりも、きついものですね…」
彼の世界である幻想は崩壊を始めている。呪いが蝕んでいたのは、恭一だけではなく、彼の中にいた守護天使も、例外ではなかった。ただ、この片翼の天使には恭一と違う変化があった。
「……全く、君たちときたら。人が苦しんでいる時に、呑気なものですね……ですがようやく、私の目的も半分は達成出来たと言うものです」
バサッと羽を羽ばたかせ、苦し紛れに頭を上げた。白い金髪の髪の隙間から汗が流れ、青かった瞳は、赤い光を帯びていた。
水の上に散る白い羽は、灰色に、徐々に黒へ染まり、炭に朽ち果てる。
「…
片方だけ残った羽の端を触り、ラミエルは呟く。かつて恭一が幼かった日に、初めて彼と出会った時の事を、再び思い出しながら。
____
朝を告げる木漏れ日の歌に、恭一は草木の香りと気配に包まれる。一夜の罪深い戯れに溺れ、今は久しぶりに安らかな眠りから覚めた。
柔らかい人肌の枕と腕に包まれて、一足早く起きていたアイテルの顔を見上げた。
豊穣の女神というものがいれば、まさに彼女の事だろうと恭一は思う。
女神など、いても別になんとも思わないのだが、生命の母と呼ばれる一なる者である彼女の腕の中は、切り詰めている気持ちを和らげ、安らぎを与えてくれる。
彼女は、生きた女神だと。確かに、これは信仰したくなる何かがあるのかもしれない。
「…テル」
「おはようございます…あっ」
寝癖のついた量の多い髪を触り、耳から頬、顎のラインを撫でた後、顎を引き寄せてそのまま唇へ触れたキス。アイテルは睫を瞼と共に伏せて受け止めた。
夜が深く、朝が近くなるまで、体も心も交わっていたというのに、まだ熱は冷めていない。
身体の交わりはただの儀式のようなものとしか考えていなかったアイテルにとっても、汚らわしいものとして嫌煙していた恭一にとっても、ここまでこの行為が良いものとは思っていなかった。
「もう少し寝ていらして」
「…風邪引くよ」
「お互い様でしょう??」
朗らかに笑いながら、アイテルは自分達が服を着ないまま野外で寝てしまっていた事を恭一に思い出させる。
あの初めての一夜で幾度となく、相手のリードのまま体を重ねて調子に乗って溺れた挙げ句、そのまま眠ってしまった自分の格好を思い出し、今更ながら屈辱と羞恥心が芽生えた恭一はアイテルを睨むも、彼女にはそれが効くことはなく、寄り添うように恭一の傍に寝転ぶ。
寒くないように傍に脱ぎ捨てられていた襦袢をアイテルの身体にかけながら、草のくすぐったい感触を背に自分の腕の中に抱き寄せて、額と額をくっつけて顔を覗く。
アイテルは視線を逸らして顔を伏せていた。
「もう、怖くありませんか?私の目」
「怖い?誰がいつ怖いって言ったの?」
「昨日、怖いお顔で仰ってましたわ。見るなって。昨夜だって、私が見つめる度に激しくって…」
「煩いな」
怖いとは言ってないだろう。
夜の情事を思い出し、顔を赤らめて艶やかな表情になったアイテルから怪訝な顔で顔を逸らす。
恭一はもはや憎悪を通り越して、性的興奮を抱いてたという事を知られた弱みにどう釘を刺すべきかと考えたが、アイテルが言っている意味はそもそも、咲の襲撃の前に恭一が酷く拒絶したことにある。
「…だって、本当に似てるから。色も形も、顔立ちだって…」
「?赤い瞳の方は、私の目以外も似ているのですか?」
「……よく覚えてない。似てたと思う」
思えば恭一は、赤い瞳だったということははっきり覚えているものの、姿に関しては記憶から抜け落ちていて、どんなものだったのか、性別すらも曖昧だった。
あれだけはっきりと、火の粉に煽られた髪や服、顔も姿も分からない。何故赤い瞳というところだけしか覚えていないのだろうか。
今更の疑念を深く考え込んでいると、顔を上げたアイテルがムッと頬を膨らませながら言った。
「私、間違っても、いきなりお国をまるごと焼いたりしません。虐殺なんてしません。
「知ってる」
「それに、昨日のあの言い方には…ちょっと傷付きましたのよ。確かに私は温室育ちで、恭一さんには甘く見えてたかもしれませんが、今まで結構大変でしたのよ」
「ふぅん?」
「皆から凄くプレッシャー掛けられて、自分だって知らないことで散々中傷されたり、命を狙われたり、お出掛けは出来ないし。好きな食べ物だって、食べすぎたら身体に悪いとか太るとかで、好きなように食べられなかったんですから!マチャフのようなジャンクフードも、お腹壊すからって食べさせてくれませんし…」
「食べ物に関しては当然だと思うけど。君が好んでるのゲテモノばっかでしょ」
それはジュドーも心配になって食べ物にまで口を出してくるだろうと恭一は思ったが、あの腹黒の場合、それを通り越して過保護過ぎるんだろうとは確かに思えた。
「"珍味"と仰って!それに目の色は、多分生まれつきですし…。おぞましいと言われても、どうにも出来ませんもの。初めて言われましたわ、傷付きましたわ」
「…どうして欲しいの?」
素直に「ごめんなさい」と言ったらどうなんだ、この男はと天使目線では言いたくもなる恭一の頑ななプライド高さ故の言動に対し、アイテルは潤んだ瞳をあえて恭一に向けて迫った。
「まだ恭一さんのお気持ちを聞いてませんわ。私の事、好きですの??嫌いですの??」
「………………言わなきゃ駄目なの??」
今更ここまで進んできておいて何を言ってるんだと恭一は返答を渋った。しかし、それで納得するアイテルではない。
「言ってくださらないの?私は言えますわ。好きです。恭一さんのお顔も、強くて優しいところも、嘘がないところも、自己中心的で社交性に難ありなつっけんどんでも、全部大好きですの!」
「へえ??」
最後のはかなり本音を極めた台詞だったが、怒る所か、逆に恭一は満足した表情で意味ありげな笑みを見せる。天使は聞いてて大爆笑ものであったが。
「本気でそう思ってるなら言うけど、君みたいにしつこくて、察しが悪くて、どんくさくて、扱いが面倒臭い子は、本当、嫌いなんだよね」
「まぁ…」
「君だから許してるんだよ、特別に。…良かったね」
何て言う回りくどい好きの伝え方なのだろうか。こんな可愛げのない事を言う恭一にも、アイテルは口元を緩ませた。
「…じゃあ、好きですの??ね、言って、好きって」
「…めんどくさい」
「まっ!こちらにばかり言わせておいてそれはあり得ませんわ!」
好きって言葉にして言って欲しいアイテルは、恭一の上に乗っかってまでせがむが、恭一はそっぽを向いて、言おうとはしなかった。
言葉にすると気恥ずかしいというのもあるが、これを天使に聞かれていると思うと、余計言えないのである。
天使からすれば、もう全部分かってるから言えよという気持ちでしかないが。
「二人きりは、今だけかもしれませんのよ。ねぇ、言ってくださいな。お願い」
「……全く、こんな朝早くから。そんなにしつこく我が儘を言ってくるのは、君が初めてだよ」
あまりのしつこさにアイテルを上に乗せたまま起き上がり、しっかりと腕の中に捕まえて、恭一はムスッとしたまま彼女に意地悪な口付けをする。
もう黙ってくれと言わんばかりに、憎らしくも、それが逆に不思議なほど愛らしく感じてしまう彼女に。
「んっ…もうっ、意地悪…」
「そんな我が儘、他の男にも言ったんだろう。通じると思わないでよね」
「貴方だけよ、本当に…。本当に愛してる人だけに、言って欲しいの」
これ以上本気になってしまったら、捨てても構わないと思っていた命も惜しくなるというもの。どうしたものか、ここまでの関係になってしまった以上は。愛してるとまで、言わせてしまうほど、自分に夢中になっている彼女の気持ちは、何処まで続いてくれるのだろうか。
キスを深めながら考えていると、ふと謎の視線を感じた。
この不思議な湖畔の森には、二人だけしかいない。他の人が見つけることも出来ない場所だと言うのに、自分達の目の前にある大樹の根元にぽっかりと空いた穴。
そこに、あるはずのない顔が、じっー……と、二人を眺めていた。
白い毛皮に、黒い模様の中に隠された目が、大樹の穴の中から覗き込んでいる。恭一はそれと目が合い、反射的に唇を離し、アイテルを守るように庇う。
武器を取ろうとしたが、何も着ていないという事に気がつき、手探りで自分達の荷物を探した。
「!?ど、どうしたのですか??」
堪能していたアイテルはいきなり唇を離されたかと思うと強く抱き寄せられて、戸惑ったように恭一を見る。
「動かないで。熊がいる」
「え?熊…?」
「いつの間にそこに…」
恭一が睨みあいを続ける白と黒の"熊"という存在は、恭一が自分を認識しているというのを感じ取ったのか、ズリズリズリと狭苦しそうに体を捩らせ、大樹の根元から出ようとしてきた。
ミキミキと木は悲鳴を上げて、無理やりそれは這い出てくると、その全身の巨体を現す。
赤い首巻きをしている白と黒のバランスの取れた色合い、黒模様の目、ぴこんと立つ黒耳、丸々とした身体と鋭い爪を持つ生物。それは誰がどう見ても、一度は見たことのある生物だが、それにしては、普通よりもデカすぎる個体。
ブルブルと身体を奮わせ、身体についた葉っぱを振り落としたそれは、二人を前にして静かに、そして謎の威圧感を放っていた。
「まっ…!パンダさんっ!」
アイテルは一目見てそれがパンダであると知った時、キラキラと目を輝かせて恭一の手から離れようとしたのを、恭一が、ぐっと強く引き戻した。当然である。相手は巨大なパンダであり、熊の一種である猛獣なのだから。しかも、無防備にも裸の人間の前に現れているのだから、近寄ろうとする方がどうかしている。
「ねぇ、何考えてるの?動物園にいるような客引き用じゃないんだよ。しかもあんなにでかい。人食ってなきゃあんなにでかくはならないよ」
「大丈夫ですわ、あのパンダさんはお友達ですのよ。赤い襟巻きがついてるでしょ??」
「…友達?」
「モフー」
恭一達の前に現れた大きいパンダは、アイテルの事を見て喜んでいるかのように手を広げた。
「お久しぶりですわ!あら~、ずいぶん会っていらっしゃらない間に、また大きくなりましたのね!」
「モフーモフー」
「どうしてかしら、なんでここにいらっしゃるの~?」
二足歩行から四足歩行に変わってこちらに近づき、匂いを嗅ぐように突き出してきた鼻先をヨシヨシと撫でるアイテルの様子を見て、本当に知り合いのようだと恭一は思うも、それにしてもでかい上に、いつから木の下にいたんだと首を捻る思いだった。
「ムフ、ムフ…」
「パンダさんは、アクロポリスの近くの黄昏の森というところに住んでらっしゃるヌシですのよ。逆側だったので、出た時は通りませんでしたが」
「……こっちの世界の動物って、全部大きいサイズしてるの?」
「パンダさんは大きいんですの」
「…そう」
とりあえず襲ってこないのならいいかとは思ったが、このパンダからは本能的に何かがおかしいと恭一の勘を突っつくところがあり、警戒は解かず、刺激はしないようゆっくりと、近くに散らばった服を集めた。
どうしてこんなところにいるのだろうとアイテルがパンダを撫でていると、パンダはクルッと向きを変えて穴に顔を突っ込んで何かを持って戻ってきた。
口に咥えていたのは、以前ユニコーンや動物達がアイテルに持ってきていたのと同じ、フルーツや木の実などが入ったかごだった。
これは一体、何処から誰が持たせたものなのだろうか。
「まっ、パンダさんが持ってきてくださったの??ありがとう!ちょうどお腹が空いてましたのよ」
「気になってたんだけど、それ、誰が持たせたものなの?」
「さあ?お城の外にいますと、いつも動物達が持ってきてくださるの」
「疑問に思わないの?明らかに動物が集めて持ってきたものじゃないでしょ」
「そんなことありませんわ。パンダさんは、特に器用ですものね~」
そんなぼやっとした理由で済ませてるのもアイテルらしいところではあるが、パンダを撫でると、モフッと特徴的な声で鳴き、のそのそと湖畔の方へ歩いていくと、番でもするかのようにドスッと座り、水面をじっと眺め始めた。
「さっ、食べましょう?恭一さんの好きな蜜柑もあります」
「別に好きじゃないけど。…てか、いい加減服着なよ、はしたないから」
「はーい。あら、真っ赤なりんご。美味しそうです」
とりあえずシャツとズボンまで着終わった恭一は、アイテルも掛けていた襦袢を着ながらかごの中の艶のある赤いりんごをとって嬉しそうに微笑んでいるのを見ると、いつかあの庭で彼女にもらったりんごがあったことを思い出した。
結局、手をつけずに部屋に置いてきたままだが、ずっと艶やかな色のまま新鮮な状態で残っていた。今ごろは腐ってしまっているのかもしれない。
護身用のナイフがあることを思い出して、ポケットから折り畳み式ナイフを取り出すと、アイテルの手からりんごを取り、皮を剥いて切り分けた。
その様子を横で眺めるアイテルは、知ってますか?と恭一に話始めた。
「最初の人間、アダムとイヴのお話。イヴが最初に善悪の知恵の実を食べて、その後アダムにも食べさせてしまい、楽園を追われたと」
「それがどうかしたの?」
「昔、ジュドーから聞いたことがありますの。アダムとイヴは楽園から追い出されたのではなく、自ら楽園を出たのだと。禁断の実を食べたのではなく、一なる者より遣わされた天使によって、与えられた実で知能を得て、二人で共に、人の楽園を築くために、あえて原初の楽園から離れたと。イヴが最初に食べ、アダムに食べさせたのは同じようです」
「そういう線も、あるかもね」
神話の時代の話など、誰かが作ったに過ぎない創作物の類いだと思っていた恭一は、りんご切りながら聞き流していたが、切り終わったりんごを一欠片取ったアイテルは続けた。
「その実はりんごだと言われていますわ。天より与えられた知識の実の種を、人の世界の土に植えて、出来たのがこのりんごになったみたいなのです。古い風習では、女性が意中の男性にりんごを食べさせるのが、告白の意だったようですわ。夫婦だと、夫は長生きして円満に過ごせるって願掛けでもあったとか」
「そんな小学生が考えるようなおまじないみたいなこと、本気で信じて…」
そう言い掛けた恭一の言葉通り、本気で信じているのか、アイテルはほのぼのとつまんだりんごを恭一の口元に差し出していた。
「恭一さんは、長生きしてくださいね」
そう言って差し出している表情からは、何処か寂しげな憂いがあることに、恭一はすぐに気がつく。
長生きしろと言われても、出来る見込みは少ない。咲の話が本当であるなら、どちらかしかないのだ。
この呪いが自分の命を飲み込むか、彼女を飲み込むか。
憎悪は何も許してはくれない。戻れないほどに憎しみは増して、どこまでも永遠につきまとうのだ。
「俺が言ったこと、もう忘れた?君の犠牲で生きるつもりはないって。何度も言わせないでよ」
「分かってますわ。だけど、貴方が死んでしまったら、私、もっと悲しいもの。…だから、必ず、この遺物から、呪いから、貴方を助けます。ちゃんと…貴方が幸せに生きてくれたら、私も、幸せですから」
「だからって、また勝手に無茶したら怒るからね。…俺が、君を守る。そういう契約だったでしょ。だったら、ちゃんと傍にいて」
君がいなきゃ、色々困るんだから。とは言えないが、傍から離したくない。呪いが繋ぐ、今一緒にいるこの刹那の時間だけでも。
全てが終わっても、一緒にはなれないだろうと何処かで悟ってはいても。
「はい。一緒にいましょうね。最後まで」
差し出されたりんごを口に含んだ恭一に、アイテルは嬉しそうに笑う。恭一も押し付けるようにアイテルの口にりんごを差し出して食べさせる。
二人で共に、寝転がるパンダの姿と朝の光に煌めく湖畔を眺めていた。
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