第17話
「……う、」
ゆっくりと目覚めが訪れる。頭の芯が重く、体がとても痛む。冷たい床の感触。少し、寒い。
声を出そうとして初めて自分が口を塞がれていることに気が付いた。何が起こっているのか、記憶の糸を辿り、そして唐突に思い出す。全身から血の気が引いていくのを感じた。
(……誘拐されたんだ)
今までにもこんなことがなかったわけではない。敏腕刑事を父に持つと、とかく恨みを持たれるものなのだ。だが、今までの誘拐事件は全て未遂に終わっていた。何故かは知らないが、危なくなるとサカキが現われるのだ。サカキの突然の出現に、今までの男たちは逃げるしかなかった。元々、金目的ではなく、カルロへの復讐のつもりで行動を起こしている連中である。サカキを振り切ってまで自分をさらおうという輩はいなかった。
(……おじさま……)
もしかしたら、などと安易な考えが過り、心の中で呼んでみる。
……現われるはずがない。サカキは仕事中のはず。ボディーガードではないのだから。今までが偶然だっただけで、四六時中身を守ってもらえるなんて事あるわけない。
(……ここ、どこだろう?)
自由のきかないまま床に放置されている。だが、ありがたいことに縛られているのは両手だけで、両足は自由だった。何とか体を起こし、立ち上がる。スカートがまっ白になっていた。
コンクリートの壁。
鉄格子のかかった小さな窓。
埃だらけの床。
廃ビルか何かなのだろう。天井も壁も少しずつ崩れて瓦礫の山を作っている。その瓦礫を夕日が赤く染めていた。
辺りに人影はない。かなりの広さの部屋だが、机と椅子以外、人間の生活に必要なものは何一つないようだった。その場しのぎで閉じ込めたんでないとしたら、多分ここで殺すつもりなのだろう。そんなことを冷静に考えたりする。
クララは椅子を引きずり、窓の下に置いた。転ばないよう気をつけながら椅子に上り、背伸びをして何とか窓の外を見る。
(やっぱり……)
窓の外には生えっ放しの草と、壊れた車の残骸。使われていないのであろう倉庫なども幾つか並んでいる。遠くに三番都市のものと思われるビル群が聳えているのが見えた。
クララは足元に気をつけながらゆっくりと椅子から飛び降りた。ぶわり、埃が舞い上がり顔をしかめる。赤い光に照らされて舞う埃はそれなりに綺麗でもあるが、今は助けを呼ぶ方法を考える方が先である。
かといって、電話を掛けられるはずもなく、武器になるようなものを持っているはずもなく……途方に暮れる。相手が何者であるかも、何人なのかもわからず、解決の糸口は見えてきそうもなかった。
(……お父さん)
カルロの帰宅は早い日でも九時か十時。クララが家に帰っていないことに気付くまでにはまだまだ時間がかかる。サカキはこの前遊びに来たばかりだし……今のこの危機を誰かに気付いてもらうのは難しそうだ。
(困ったな。本当なら今頃は、家に帰ってピアノを弾いていたはずなのに)
命の危険より先にコンクールの方が気になってしまうクララである。
「お目覚めのようだね、お嬢ちゃん」
背後からの突然の呼び掛けに思わず肩が震えた。今の今まで何の音もしなかったというのに……。
いつの間に開いたのか、大きく扉が放たれ、壁に寄り掛かるようにしてコートを着た男が立っていた。服装は違っていたが、さっきの誘拐犯に間違いはない。帽子を目深に被っていてその表情まではわからなかった。口には加えタバコ。かなりレトロな風貌である。
カツ、カツ、カツ、
今度は足音を立てて、男が近づいて来る。同じ靴を履いているはずだ。怖がらせるためにわざとやっているとしか思えなかった。……それとも……さっきまで靴を脱いでいたのだろうか?
「カルロ・ベルの娘、クララ・ベルだな?」
男の問いに、クララはおとなしく頷いた。こういう時は相手の言うことに逆らわない方がいい。逆らったところで、痛い目を見るだけなのだから。
「あんたには悪いが、しばらくここにいてもらうぜ」
タバコを足元に落とし、踏み付ける。おもむろに近づきクララの猿轡を外した。自由になった言葉を使ってクララは真っ先に尋ねる。
「殺すんですか?」
まっすぐに男の目を見つめ、しっかりとした口調だった。男を前に、恐怖感がないわけではない。だが、こういう時の冷静さはきっと父親譲りなのだろう。
「まぁな」
男は悪びれた様子もなくさらっと言ってのけた。机の上に腰を降ろし、じろじろとクララを眺める。嫌な目だった。
「父に恨みが?」
「……お前、」
「はい」
「……いや。あと十年もすればいい女になるのになぁ」
「どうも」
男が喉の奥を鳴らして、笑う。クララはおとなしく椅子に腰を降ろし、男の行動に全神経を向けていた。余裕の態度、冷ややかに輝く目付き、感情を現すことのない表情、どれを取っても相手が素人でないことがわかる。これでも一応、刑事の娘だ。犯罪者に対する目は肥えている。
(殺される……)
それは確信だった。今すぐではないだろう。きっと自分を楯に父を苦しめるつもりなのだ。と、いうことは、生かされるのは長くて一月か……。
泣いてしまいたかった。恐怖心に身を任せ、子供のようにむちゃくちゃに泣いてしまえれば楽だろう。実際、自分は子供なのだ。相手だってそれを望んでいるはず。だが、ここで泣くことはつまり、訪れるべく自分の死を認めることと同じである。それは、嫌だったのだ。
負けず嫌いは母親譲りである。
唇を噛みしめる。命果てるその時まで、涙は流さないつもりだった。
「ほんと、いい女になるのになぁ」
もう一度、男が繰り返した。
「あなた、お名前は?」
クララが問う。男は一瞬面食らったようだった。まさか名前を聞かれるとは思わなかったのだろう。が、一瞬の躊躇の後、
「ボギーだ」
と、答えた。
「快適な生活を保証してやることは出来ないが、お前に危害を加えることはしないことにしよう。気に入ったぜ」
パチン、懐からナイフを取り出す。クララの手を拘束していたロープを切り、再び懐にしまい込む。
「どうせ逃げられはしないんだ。縛り付ける必要もあるまい」
「ありがとう」
丁重に礼を述べる。跡の残っている腕をさすり、窓に視線を移した。陽が沈み始めているのだろう、空がだんだん夜の紫へと変わりだした。寒い季節ではないが、コンクリートの床で眠るのは躊躇われる。
「毛布くらいは持ってきてやるさ」
まるでクララの考えを読んだかのように、ボギー。どうやら彼はフェミニストらしい。なんだかサカキと似ていて、クララは少しだけ安心した。
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