第2話

 プルルルル、


 電話の呼出し音が鳴り響く。台所で鍋を火にかけていたクララは火を止め、濡れた手をエプロンで拭きながら急いで受話器に手を伸ばした。

「もしもし?」

 愛くるしい、澄んだ声。腕利き刑事カルロ・ベルの一人娘、クララ・ベル。金色の髪は母親譲り、頭のよさ、器量ともに優れている。現在十二歳。学校から帰ると、こうして夕飯の支度をするのが日課だった。


「あら、おじさま」

 電話の相手は父であるカルロの友人、サカキからであった。カルロ、そしてクララの母親であるアルロアとも昔から仲が良く、アルロア亡き後も週に一度はこうして電話をよこす。

「父ですか? ええ、まだ帰ってませんけど。……え? 今日? はい、伝えておきます。お待ちしてます。サカキのおじさま」


 電話の向こうのサカキは上機嫌である。父、カルロの仕事が忙しく、あまり構ってもらえないときには変わりにサカキが遊んでくれることが多い。クララにとってはもう一人の父親みたいなものだ。

「ええ、はい。じゃあ、」


 チン、


 受話器を置き、微笑む。今日はクララにとってちょっと特別な日だった。こんな日にサカキが来てくれるというのは、嬉しいことだ。喜びが二倍になるというもの。父も今日は早く帰ると電話があったばかりだ。台所へ向い、鍋の火を付ける。今日のメニューはシチュー。水増しすればサカキの分くらいなんとかなるだろう。

「ふふん、ふん、ららー、並木ある~我が母校よ~」

 知らず、口ずさむ校歌。嬉しいとき、クララはなぜか校歌を歌う。


 ピンポーン


 チャイムの音。

「パパかしら?」

 壁に掛けてあるインターホンを押し、モニターを見る。映ったのはなぜかサカキ。ついさっきまで電話していたのに。

「おじさま?」

 モニターの向こうのサカキはニィッと笑顔を作った。

『クララちゃーん』

 子供が遊びに来たかのような呼び方である。

「家の前から電話してたの?」

『そうだよん』

「んもぅ、」

 唐突な登場の仕方は相変わらずである。クララはロックを外し、玄関へと向かった。


 カチャリ、


 ドアが開くと共にタキシードをびしっと着こなしたサカキがうやうやしく礼をする。

「お招きに預かり、光栄です。姫」

 クララの手を取り、甲に軽くキスをする。いつものことながらクララは思う。誰が招待してるの? と。

「まぁ、きれい」

 サカキの右手には抱えるほどの薔薇の花束。そしてアホみたいに大きなクマのぬいぐるみを背負っている。

「どうぞ」

 サカキが花束を渡す。そしてクララが花束に顔を近付けて匂いを嗅いでいる隙にしょっていたクマを背中から下ろし、素速くリボンを掛けた。


「マサル、十四号です」

 声色を変え、クマを動かす。十四号。つまり、今までにもいろいろなぬいぐるみを贈り付けているのである。そして自分の名前をつけては喜んでいるのだ。

 サカキ マサル。端から見たらかなりの変態行為である。


「ありがとう」

 クララは素直に喜んだ。受け取ったマサル十四号にキスで挨拶をする。その光景を見、鼓動が早くなり、胸が熱くなるサカキであった。

「おじさま、上がって。パパ、もうすぐ戻ると思うから」

「じゃあ、お邪魔させてもらおう」

 両手に荷物を抱えたクララにさりげなく気を遣いつつ、サカキは勝手知ったる他人の家に上がり込んだ。何度となく足を運んだ家だ。留守がちのカルロ以上にこの家の中のことは知っているつもりだった。


「いい匂いだ。今日はシチューだね?」

「よくわかったわね」

「そりゃ、わかるさ。クララの作るシチューはそんじょそこらのものとは比べ物にならない。天下一品だ」

 卑しくなく、ダンディーに決める。こういうちょっとした言葉で相手を喜ばせることがサカキは得意だった。の、割にモテないのは「いい人」で終わってしまう三枚目の宿命だろう。世の中やはり、顔なのだ。

「パパが帰ってきたらすぐに食事にするわ」

 そう言うと、台所へと向かう。サカキは一人、考えた。


(十二歳と三十八歳。今はまだ犯罪だが、あと十年も経てば……うむ、いける)


 十年経ったっていけなかろう。


 サカキはカルロに個人的憎しみを抱いている。カルロの妻、アルロアのことでだ。

 アルロアはサカキとカルロの後輩で、二人は当時、彼女を巡って熾烈な争いを続けていた。(と思っているのはサカキだけで、アルロアは初めからカルロと相思相愛だったのだが)

 アルロアがカルロと結婚すると聞いたときは三日三晩泣き腫らしたものだ。それでも笑顔でおめでとうを告げ、彼女の幸せだけを望んで生きてきた。


 それなのに……。


 アルロアの死を看取ったのはサカキだった。カルロは事件を追っていて、不在だったのだ。死の縁で、彼女はカルロの名ばかりを呼んでいた。そしてサカキは、カルロを演じ切ったのである。最後の最後まで、カルロとして、手を握り、声援を送り続けた。彼女の最後の言葉は、『カルロ、愛してる』である。どれほど悔しかったことか。それは言葉では言い表せない。愛した人の幸せは、自分の幸せ。そうは思っていても、アルロアが求めているのは自分ではない。


 サカキはとうとう自分の名を証すことのできぬまま、そして想いを告げることなく彼女と永遠の別れを遂げた。そしてその時、決めたのだ。アルロアの娘であるクララだけは、自分が幸せにするのだと。いつも家にいないカルロになど、任せられない、と。


 プルルル、プルルル、


 鳴りだした電話の音に驚き、我に返った。頬を伝う涙を慌てて拭い、電話に出る。

「もしもし、」

『……その声は、サカキか?』

「何だ、カルロか」

『何だとは何だ。そこは俺の家だっ』

「何か用か?」

『クララを出せ』

「嫌だね。クララは今、俺のための食事を作ってるんだ」


 アルロアのことを思い出していたせいで、口調が厳しくなっていた。そして勘違いも甚だしい台詞をしれっと言ってのける。

『……じゃあ、伝えておいてくれ。急な仕事が入っちまって、今日は遅くなる』

「ああ、そうかい。安心しろ。お前なんかいなくても、俺がいる」

『……今日はやけにつっかかるな。まあいい、頼んだぞ』


 ガチャ


 電話は一方的に切れた。サカキは力まかせに受話器を置き、腕を組んで電話を睨み付け、呟いた。

「こいつを父と呼ぶことだけが問題だ」


 問題は他にも沢山あると思うが……。


「誰だったの?」

 クララがおたま片手に台所から顔を出す。

「カルロだ。仕事が入ったそうだ」

「またぁ?」

 クララは呆れ顔である。いつものことではあるが、やはり残念。せっかく今日は特別な日なのに。

「仕方ないパパ」

 ぷぅ、と頬を膨らませて見せる。サカキの胸が再びときめいた。


(っくぅ~。やっぱ可愛いいっ)


「いいじゃないか。私がいるんだから」

 とびきりの笑顔を作り、立ち上がる。

「そうね」

 クララもまた、サカキに気を遣い、笑顔を作った。サカキの気持ちは痛いほど感じるのだ。いつも留守なカルロに変わり、側にいてくれるサカキ。だからサカキの前では寂しそうな顔をしてはいけない。それはサカキを悲しませることになる。

「何か、手伝うかい?」

 サカキが袖をまくり上げ、言った。

「じゃあ、お皿を並べて、おじさま」

 出来上がった食事。父のいない食卓。怪しい他人。それでも自分は幸せなのだと、クララは思っていた。そう思うことで自分を慰めていた。若干十二歳である。


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