第9話
男は壁に寄り掛かり、タバコをくゆらせていた。室内だというのにトレンチコートを着たままである。
「で、」
遠慮なく灰を床に落とす。
「その……カルロ・ベルってのが今回の?」
冷ややかな瞳を天井に向け、煙を吐く。この際、注意しなければならないのは、決して鼻から煙を出してはいけないということである。オヤジ臭いからだ。
「いいや、」
室内とはいっても夕暮れ時である。電気の付いてない部屋の中は薄ぼんやりとしていて視界が悪い。大きな机の向こうにどっかりと腰を落ち着けている初老と思われる男の顔は半分シルエットになっていて、確認することが出来なかった。
もちろん、確認する必要などないのだ。相手は依頼主。用件を聞き、金を戴きさえすれば、顔を知る必要などない。
「ボギー、」
しゃがれた声で初老の男は殺し屋の名を呼んだ。ボギーは上手に方眉を上げ、男を見た。男の手には一枚の写真が握られている。
スッ、
まるで手品でも見ているかのようにその写真はボギーの体に向け、飛ぶ。
「……ほれは?」
うまいこと口でキャッチし、写真を咥えたまま、問うた。
「クララ・ベル。カルロの一人娘だ」
「ほぅ、」
改めて写真を眺め、冷やかすような声を出す。今回の依頼は簡単だ、と思った。相手はガキんちょ一人である。大きな組織相手に長年『裏』を渡り歩いてきたボギーにとって、たかが一人の子供を消しさることくらい朝飯前である。この程度の仕事なら、何も自分が関わるほどの問題ではないとさえ感じた。
「今回は殺しじゃないんだ」
依頼主の言葉に、しばし呆けるボギー。
「……なんだと?」
自分の専門は殺しである。それを知っての依頼だとばかり思っていたのだ。それを、殺すなとはどういう了見だというのだろう?
「誘拐だ」
「誘拐?」
「そうだ。そして子供は殺さずに生かしておけ。サツに見つからないように隔離するんだ」
「おいおい、俺をその辺のチンピラと同じだと思ってくれちゃあかなわないぜ。そんなせこい仕事はごめんだよ」
プッ、
タバコを床に落とし、踏み付ける。きびすを返して立ち去ろうとした瞬間、
パン!
「最後まで話は聞くもんだ」
ボギーの立ち位置から十センチほどの壁に穴があいていた。
「なんだってんだ?」
ボギーは顔色一つ変えない。撃たれるとは思っていなかった。相手に殺気はない。ただの脅しだ。だが、脅しというのは一度きりである。次に同じことをされた場合、自分の体に穴があくだろう事は確かであった。尤も、おとなしく穴をあけさせるほどボギーも間抜けではないが。
「今、この街でカルロ・ベルがどれだけの力を持っているかは知っているな?」
「新聞で読んだよ。かなりのやり手らしいな」
「そうだ。そしてあいつ一人のために私の部下たちが何人もパクられている。仕事がやり辛くてね」
「それで?」
「奴の娘を誘拐する。監禁して、規則的に声を聞かせて生きていることを強調するんだ。要求は金じゃない。仲間たちの自由さ」
「はん、興味ないね。俺は同業者は少ない方が有り難いんだ」
「金は? 欲しくないのか?」
「……それは欲しい」
「五億ゼニー出す」
「ご、五億っ?」
とんでもない金額である。
国の要人を始末したところで、せいぜい相場は一億がいいところだ。それを、五億とは…。あまりに破格過ぎて、一瞬別のことが脳裏を過る。
「奴の動きを封じればそれだけの、いや、それ以上の儲けが俺の手に入る。娘を生かし続ける限り、ずっとだ。悪い話ではあるまい?」
「……どうして娘を生かしておく必要があるんだ? 生きていることにすればいいだけだろうに」
生かしておく、というのは面倒な作業である。そんな手間をかける意味が?
「カルロはその辺のデカとは違う。いたぶって、苦しませて、最後に娘を殺す。奴の目の前で、だ」
娘が誘拐され、そのせいで街に事件が増える。言うなりになれば街の秩序が乱れ、職務を続ければ娘の命が危なくなる。苦しませ、苦しませた挙げ句、最後にカルロにとどめを刺そうというわけか。娘の死という、身を切られるよりも辛い思いを味わわせようというのだ。……よっぽど苦い水を飲まされたとみえる。
「悪趣味だねぇ」
「お前ほどではないさ」
ボギーは軽く肩をすくめた。
「で、いつ決行すればいいんだ?」
「……三日後に」
「了解。……あんたの事は、何と?」
依頼主の呼び名。どうでもいいようで実は大切なことなのだ。いわゆる、この世界での通り名である。
「
(……神……ねぇ……)
自分を神だと言い切ってしまう人種。ボギーの一番嫌いなタイプであった。
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