第四話

 ころは応永一六年(一四〇九)冬を迎えていた。このころ義持は義嗣を伴って北野社に参籠している。先代義満の死後も変わらない良好な兄弟仲を義持は世間にアピールしたのである。

 義持の身辺には将軍個人に忠誠を誓う武勇自慢の武臣数多あまた。翻って義嗣身辺には、山科教高やその縁者である山科嗣教、そして僧形となった日野持光(慈松)等が侘びしく付き随うばかりだ。

 話の途中だがここで日野持光について解説しておきたい。本作中では出家後の持光の法名を「慈松」と仮定したが、実はこの慈松の来歴についてはほとんど明らかになっておらず、持光と慈松を同一人物と明記する史料も存在しない。

 ただ『兼宣公記』によると、後に義持は継母日野康子と不和に陥るのだが、その原因は康子の弟慈松が不行跡をやらかしたからだと記されており、康子の弟でこのころまでに出家している人物が日野持光以外に存在しないことから、慈松と持光は同一人物なのではないかとの見解が示されている(吉田賢司著『足利義持』)。

 本作ではこの見解に則り、慈松と持光を同一人物として書き進めていくのでその旨ご了承願う。

 さて、その持光は以前に義持の面前で放った要らざるひと言で義持の怒りを買い、出家させられていた。無論義持とてあの時の持光の発言が、持光の主体的意思で放たれたものだったとは考えていなかった。持光の口を借りて康子が上げた観測気球だったことなど重々承知している。そのうえで、なお義持は康子を牽制するために持光に出家を命じたのである。

 持光の立ち位置は、義嗣を推す康子グループと義量よしかずを推す栄子グループとの権力闘争の最前線だったのであり、激しく矢弾の飛び交うなかで狙い撃ちされたのが、康子グループの尖兵だった持光、つまり慈松だったのではあるまいか。

 余談が過ぎたが、兄弟仲をアピールできて満足そのものの義持は、愉しまぬ義嗣の表情に気付くことはなかった。

 実際義持は義嗣に不満があるなどつゆほども思ってはいなかっただろう。なぜならば、父の死により削り取られた足利の権威を補填しなければならない、という命題を抱えていたこのころの義持は、義嗣に肩入れする政策を後退させるどころか、むしろ推進していたからである。

 その証拠に、義嗣は義満存命中と変わらない昇進を遂げている。

 応永一六年七月には任権中納言ごんちゅうなごん、翌年正月五日には正三位しょうさんみ叙位。更に応永一八年(一四一一)一一月二五日には任権大納言ごんだいなごん、三日後には叙従二位じゅにいといった具合だ。

 応永一九年九月には院司いんのつかさに任じられており、これは八月に称光天皇に譲位して院政を開始した後小松上皇を補佐する目的で、義持が義嗣に命じたものであった。職務遂行の用途を捻出するためか、院司任命に先立って義嗣は、義持から加賀国内に御料所を賜っている。

 確かに義持は将軍として数多の武臣を従えてはいたが、ではこういった連中が院政の執行機関である院司の仕事を滞りなく遂行しえたかといえば答えは明らかに「否」であった。朝廷の儀礼式典に通じ、しかも官位に申し分のない人物として、義嗣以上の人選は考えられなかった。義嗣は当時一九歳の若者に過ぎなかったが、官界デビューからわずか四年で、彼が無視できない影響力を朝廷に行使しえたなによりの証拠である。義持は、義嗣に全幅の信頼をおいて公武の架け橋の、そして朝廷監視の役割を与えたのであった。

 そして応永二一年(一四一四)正月五日、遂に義嗣は正二位しょうにいに昇叙された。前述のとおり義持は既に従一位じゅいちいに叙されていたから、これは義嗣が兄に次いで極位ごくいに達したことを意味していた。

 義持は、生前の義満から偏愛された義嗣を嫌っていたとする評伝は多いが、義満死後も続いた義嗣の昇進を見る限りその評は当たるまい。

 このころの義持は、並み居る荒くれの武臣どもをよく統制し、異母弟義嗣にテコ入れすることで朝廷にまで睨みを利かせ、自信を持って幕政を運営していたものと思われる。ときに義持、二九のころであった。

 事態が急変するのは応永二三年(一四一六)一〇月一三日のことである。駿河守護今川範政より放たれたという早馬が、管領細川満元の邸宅に転げ込んできて申し立てた。

「前関東管領上杉禅秀挙兵!」

 汗と泥にまみれた早馬の使者は細川被官人から差し出された柄杓の水を飲み干すと、

「鎌倉公方持氏公と現関東管領上杉基憲は鎌倉を捨て駿河へ下向中!」

 血を吐くような声で続けた。

 驚愕した細川満元は平等寺因幡堂に参籠中だった義持に凶事きょうじ出来しゅったいを報告すると、義持は更なる情報収集を命じてひとまず参籠を継続することにしたという。

 義持が事態急迫を本格的に悟ったのは一五日のことだ。

 今川より

「鎌倉公方及び関東管領御討死おうちじに

 との報告がもたらされたのである。

「なんたることだ!」

 義持はついぞ上げたことのなかった怒号を発した。普段の面相からは想像もつかないほど目尻は吊り上がり、唐人を真似て伸ばした頬髭までが逆立って見える。

「持氏」の名が示すとおり、彼は義持の偏諱を受けた謂わば室町殿公認の鎌倉公方であった。義持の死後、持氏は将軍位を望んだが果たせず、「くじ引き将軍」と揶揄された義教を殊更に軽んじて、その結果討伐を受けることになるなど相当に問題のある人物だったようだが、生前の義持に対しては反抗の姿勢を見せず、両者の関係は良好だったから、義持の怒りは当然だった。

 持氏敗死は誤報と判明したが、いずれにせよ鎌倉失陥とあっては看過できぬ。義持はさっそく幕閣を招集し対応策を協議したものの、自らの利害に直結しない武力闘争を厭うのは古今東西を問わぬ人の心理だ。弓矢の道に生きる武士といえどもそこは同じで、招集された幕閣はいずれも関東兵乱への関与を嫌がってだんまりを決め込んだという。結局軍議で決まったのは「援軍派遣、禅秀鎮圧」というざらっとした大方針だけで、個々具体的なことはなにひとつ決まらなかった。

 乱発生の凶報を得るまでは因幡堂に参籠しながら心静かな一時を過ごしていた義持だったが、短期間の内に心の平穏は喪われてしまっていた。その義持の心を更に掻き乱す噂話が聞こえてくる。

「このたびの関東争乱は新御所の指嗾しそうによるものだ」

 そんな噂である。

 これは義嗣の側室が禅秀の娘だったことから発生した噂話に過ぎず、実際遠く離れた両者がわずかな血縁を頼ってここまで大それた叛乱を共謀できるわけがなかった。

 前年(応永二二年、一四一五)四月には伊勢で北畠満雅が叛乱を起こしているが、義嗣の関与はこの兵乱でも噂に上っていたのである。如何にも京童きょうわらんべどもが好みそうな類いの噂話であった。

(そのようなことがあるはずがない。義嗣は実際……)

 父への追悼文で自分に対し服従を誓ったではないか。

 自分は自分でその弟をことあるごとに引き立ててきたのだ。その義嗣が謀叛などあり得ない話だ。

 噂話を脳内で打ち消すのに、義持はさほど苦労しなかった。

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