最終章 時こそ例なり――応仁の乱
第一話
盛夏の候ではあったが昼間ふった雨のせいか、夕刻に至り肌寒く感じられる。
舞台上で演じられているのは『
宴もたけなわとなり赤松家の女中どもはみな忙しそうに立ち働いていたが、なかでも
その持豊がちらりと横目を使った。座の中央で観劇する主賓、当代室町殿である義教の様子を覗うためであった。
嘉吉元年(一四四一)六月二四日、室町幕府第六代将軍足利義教は、関東怨敵(鎌倉公方足利持氏)討伐成就の祝賀と称し、播磨、備前、美作三カ国守護赤松教康の招きを受けていた。降りしきる雨の中、未斜剋(午後二時から三時ころ)に赤松邸に赴いた義教は教康の歓待を受け、
手にした盃を取りこぼして船を漕ぐ義教の様子は、数人を挟んで横並びに観劇する持豊がさほど身を乗り出す必要がないほどよく覗うことができた。
「お疲れの御様子であるな」
持豊にそう言ったのは周防、長門、豊前、筑前四カ国を束ねる西国の太守、
「このところご一族相手のいくさが続いておりましたからな。ご心労が重なっていたのでございましょう……」
当初その予定がなかった義教が将軍に昇った所以は、将軍だった甥の
籤引きの結果、還俗して将軍に昇った義教は、そういった事情から幕府内になんの権力基盤も持っていなかった。後年「万人恐怖」と評されるほどの恐怖政治を敷いた義教も、治世初期は控えめな政権運営を余儀なくされていたのである。
しかし義教はめげずに将軍専制を志向し続け、
主賓が眠りこけている間にも舞台上に物語は進む。諸人が或いは猿楽に、或いはこれから口に運ぼうという盃にそれぞれ気を取られていたその時。
ドドドドド!
鈍い地響きがにわかに鳴った。
びくついて目を覚ます義教。
「何事じゃ」
目を据わらせたまま呂律の回らない口調で誰にともなく問う義教に対し、隣に座していた
「遠雷でございましょうか」
と答えたがこの音、どう聞いても雷ではない。
「門を閉じよ!」
慌ただしい声が響いて猿楽が中断される。赤松の侍が折り敷いて言った。
「申し訳ございませぬ。厩より馬が逃げ出しましたゆえ門を閉じてございます」
「左様か……」
よほど疲労が溜まっていたのか、安心したように再び目を閉じる義教。
「閉門完了!」
響いたのは何かの合図のような大喝であった。ほぼ同時に、幕閣歴々が背にしていた広間の
居並ぶ幕閣が雁首揃えて凍り付くなか、
「狼藉者!」
威嚇して不埒者共の機先を制したのは意外にも実雅であったが、公卿の声ひとつで怯む武者でもない。
武者のうち二人はまるで最初からそうするつもりだったかのように義教の左右に駆け寄せた。
「赤松家人
返り血を浴びて顔を真っ赤に染めた安積行秀が義教の首を掲げながら呼ばわる中、実雅が眼前に置かれていた金覆輪の太刀を手に取り狼藉者どもに斬り掛かったが、もとより武道の心得のない公卿のこと、あっという間に組み伏せられて無力化された。
それと比較すると大内持世や
「逃げるぞ
持豊は同族の山名煕貴に言ったが、煕貴は持豊の言葉が終わらぬうちに抜くや、狼藉者と斬り結び始めた。
「それがしは室町殿近習として取り立てられた身。ここで逃げ出して世上より嘲りを受けるのは死ぬより辛い恥辱。逃げるわけには参らぬ!
敵と競り合いながら吼える煕貴。持豊は背後を彼に任せて逃げるしかなかった。
見ればこの場から逃れようと塀を懸命によじ登る人々。その中には三管領家の一、畠山家当主
もっともこうなってしまえば恥も外聞もなかった。
持豊は同じように塀に取り付いてよじ登り始めた。親戚縁者まで打ち捨てて我が身ひとつ逃れようという浅ましいその姿とは裏腹に、持豊は内心、飛び上がりたいほどの高揚感に充ち満ちていた。
(好機来たれり! 好機来たれり!)
これまで室町殿に命じられるまま幾多の軍役に従事してきた持豊は、その戦いの中で培われた独特の嗅覚により、義教にとっての凶事が自身の身代を肥やす好機になることをこの時点で敏くも嗅ぎ取っていたのである。
室町殿を殺害した赤松家は必ずや討伐対象になるだろう。山名家はその赤松家が本拠を置く播磨を巡って競合しており、いわば潜在敵国であった。赤松家討伐は播磨を奪還する恰好の口実になることが見込まれた。こんなところで殺されている場合ではなかった。
「かくなる上は幕臣挙げて赤松討伐の軍旅を発すべし! 室町殿の仇討ちぞ!」
塀を乗り越えて安全が確保された途端、両の拳を握りながら吼える持豊。
呆気にとられる諸人がその姿を遠巻きに眺めるなか、持豊の瞳の奧には、播磨奪還にかける野望の炎が、不謹慎なまでに激しく燃え上がっていたのであった。
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