第二話
古今稀なる凶事の
赤松邸から這々の体で逃げ出した宿老連中は即座に討手を差し向けるべきところ、
「赤松父子(満祐と教康)がここまで大それたことをやってのけた以上、他に与同者がいるに違いない」
と疑心暗鬼に陥っておのおの自邸に立て籠もり、互いに様子をうかがう有様だったというから文字どおりの麻痺状態だ。
赤松父子は間を置かず押し寄せてけるだろう討手と一戦交えて滅ぶ覚悟だったが、幕閣連中はこのように腰が抜けてへたり込んでいる有様だったので、自邸に火を放ち、討ち取った義教の首を掲げながら、播磨へ下国してしまった。
幕府は長蛇を逸するかたちとなった。
それでも管領細川持之以下は義教死去の事実を事実として受け容れ、翌日には早くも義教嫡男にして当時わずか八歳だった
「公儀の威信を示すためにもいち早く逆徒赤松父子を討伐する必要これあり。我と思わん御仁は是非名乗り出でられよ」
細川持之が切り出した。
合議の席には畠山持永、細川讃州(持常)、それに今回義教殺害に及んだ赤松惣領家とは袂を分かった赤松貞村、義教と共に犠牲になった京極加賀入道の甥、持清等が顔を並べていた。もちろんその中に山名右衛門佐持豊の姿もある。
「我こそ」と名乗り出たい衝動を抑える持豊。
確かに今回の赤松討伐は山名家が拡大する好機に違いなかった。三管領四職といった序列が確固としてあり、よほどの出来事がない限り権勢拡幅が果たせなかったこの時代、その「よほどの出来事」が発生したのである。
しかしだからといって軽薄にも
負担は分かち合い、手柄は独り占めする。これぞ持豊の目指すところである。
じっと目を閉じ沈思黙考するが如き持豊。視線に気付きふと目を開けると
「金吾殿、如何か」
――やりたいんだろう。やりたいんじゃないのか。
そういわんばかりに微笑を浮かべ問いかける管領。
「うおっほ~ん!」
もったいぶったような持豊の咳払い。
「勿体なくも御下知とあればこの持豊、
「いみじくも申したり金吾殿! 早速明日にでも……」
膝を打って喜ぶ持之だったが
「待たれい。そうは申しましてもそれがしには侍所頭人としての勤めもござる。政情不安定の折、そうやすやすと
持豊のこの言葉は、もったいぶって自らの出陣に箔をつけるための方便ばかりとはいえなかった。
この時代、代替わりのたびに徳政一揆が勃発するのが常の光景だった。今回もその例に漏れず、近江坂本方面では馬借車借といった、ふだん輸送業に従事している連中がきな臭い噂話を頻りに流布している情勢であった。これら輸送業者はその
当時持豊が勤めていた侍所頭人は京の治安を司る重職で、幕府内でもこの職を担うことができるのは赤松、山名、一色、京極のいわゆる四職家に限定されていた。徳政一揆が懸念される折節、その持豊が京を離れるに躊躇を覚えるのは当然のことであった。そんなことが知れ渡れば、土民が大挙押し寄せてくることだろう。
結局このときに決まったのは、持豊に代えて京極持清を侍所頭人に据えること、その持豊と、さらに細川持常、赤松貞村を討伐軍として赤松領国に差し向けるという大まかな方針だけだった。
こうして話し合いが難航している間にも、赤松父子は分国内の防備体制を着々と構築していた。のみならず赤松満祐は、備中国井原荘善福寺に潜伏していた足利家係累
このように赤松討伐の成否は時間との戦いだったが、編成が決定したあとも七月六日まで討伐軍は一向に出陣する気配がなかった。
持之から懈怠を責められた持豊だったが、却って
「管領殿はこれより命懸けで戦おうという武臣の心をお分かりでない。修羅の如き我が武臣どもにも一片の人心がございます。我が子や一門の行く末を思えば、差し違えてでも逆徒を討たんと志す忠節に曇りのひとつも生じましょう。与えられる褒美が示されぬうちから命だけ投げ出せと言われて肯んずる武士はおりますまい」
こう反駁して持之を閉口させた。
「なにが欲しい」
持之が単刀直入に訊くと
「播磨一国」
ためらうことなく即答してのける持豊。
「分かった、分かった。約束しよう、約束するから
「畏まって承り候」
持豊が勇躍本国但馬に下り出陣準備を始めたころには、義教殺害からすでに十日以上が経過していた。
このころ、徳政一揆が同時多発的に各所で発生しつつあった情勢は先述した。鎮圧の余力がなかった幕府は、一揆勢に畠山被官が含まれていた事情もあって徳政要求に屈している。借財は返さなくても良いことにされてしまったのである。
「そういうことなら……」
持豊がそう言ったかどうか知らないが、播磨出兵が間近に迫るなか、山名勢は「陣立てのため」と称して土倉に押し入り、質物だった武具を「借用」したという。借用などと称してはいるが、徳政令が幕府大法として発せられた以上、これは事実上の徴用であった。庶民どころか、幕府主要閣僚ですら徳政の旨味に飛びついて、これを利用したのである。
九月一二日、持豊は播州
約束どおり山名には播磨一国が与えられた。徳政による質物の徴用と相まって、戦争は持豊の身代を大きく肥やした。
「武に
軍功により名声と実利を得た持豊が、嘉吉の変に端を発する一連の抗争のなかで、この認識を新たにしただろうことは想像に難くない。
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