第三話

 〽️高砂や、この浦舟に帆を上げて――


 小川通と堀川に挟まれた広大な細川邸に高砂のうたいが響く。

「さ、さ」

 本日婿に迎えた右京大夫細川勝元に宗全が盃を勧める。ありがたくも押し戴いてぐいと飲み干す勝元。

「これよりは新しき時代。両家打ち揃って泰平の楽を供に致そうぞ婿殿」

 宗全の言葉に

「ありがたきお言葉にございます」

 と答える勝元。

 文安四年(一四四七)二月、山名宗全(嘉吉二年、一四四二に入道した持豊が当初名乗った法号は「宗峯そうほう」。よく知られた「宗全」を名乗るのは長禄年間(一四五七~一四六〇)のこととされるが、煩雑なので以下すべて宗全と表記する)は自らの養女を細川京兆家当主右京大夫勝元に嫁がせた。これにより両家の連携が成立したのである。このころ、両家にとっての共通の敵は畠山持国であった。

 嘉吉二年、細川持之は赤松満祐滅亡を見届けたかのようにして死んだ。享年四三。短命だったのは、嘉吉の変に端を発する一連の抗争事件のストレスによるものか、細川京兆家の遺伝的要素によるものか、それは分からない。

 父の死後を襲ったのが当時一三歳の勝元だった。細川京兆家の家督は兎も角、さすがにこの歳では管領職の遂行には無理があると言わざるを得ず、亡き持之に代わってその職に就いたのが畠山持国だった。

 持国は生前の義教の勘気を蒙り、家督を無理やり弟の持永に譲らされるという苦汁を味わった人物である。結城合戦への派兵を断ったのが原因とされている。

 確かに義教は持国のあるじなのだから、その命令を断った持国が更迭されるのは当然といえば当然だ。しかしこの措置は諸大名の同情を買った。そもそも在京諸将にとって関東派兵になどなんのメリットもなかったからである。

 現代では、出張を命じたら、その下命者である会社が社員に旅費を支給するのが当たり前だが、当時はそうではなかった。関東派兵を命じた義教が軍費を負担するわけではなく、命じられた畠山が全額負担するのが当たり前だったのである。

 加えて関東は敵地であり勝敗のほどは見通し困難、勝っても与えられる知行地はいきおい関東周辺になるだろうから、いくらなんでも遠隔に過ぎる。経営には困難が伴ったことだろう。

 要するに勝っても負けても莫大な戦費負担に耐えられず、畠山が傾くことは間違いない過酷な任務だった。持国は子供のように駄々をこねて出兵を断ったわけではなかったのである。

 だから幕閣の間では義教が死んだ以上、持国の政界復帰は既定路線として認識されていた。持国は弟持永を押しのけるかたちで畠山当主に復帰した。

 このころ三管領家の筆頭である斯波家は内紛を抱えており、細川京兆家は先述のとおり持之から勝元への過渡期であって、畠山持国の一人勝ちという情勢であった。なんとか敵し得たのは嘉吉の乱で播磨分捕りに成功した宗全だけだった。

 宗全養女と勝元の婚姻は、両家にとっての共通の敵、畠山持国に対抗するためだったのである。

 むろん宗全も単なるお人好しではないから、勝元を無償で扶けてやろうなど露ほども思っていない。なんとなれば若い細川京兆家当主を己が意のままに操ってやろうとさえ考えていた。

 両家の思惑が絡まり合う婚儀の席に、名状しがたい緊張の趣が漂っていた。

 その連携の実が試されるときが来た。享徳三年(一四五四)四月のことであった。

「火急の用これあり」

 夜陰に紛れて堀川上立売の山名宗全邸宅にやって来たのは細川勝元本人であった。

「これはこれは婿殿、かような夜分にいかなる用向きで……」

 宗全が出迎えると、勝元は挨拶もそこそこに用件を切り出した。

「畠山の御家騒動は舅殿もよくご存じかと思いますが……」

 このころ畠山家では持国の後継者を巡って争いが発生していた。前述のとおり持国は持永を押しのけるかたちで当主に返り咲いたが、持永の弟(つまり持国の弟)持富を後継者に指名することで内紛の激化を抑えた経緯があった。持国の実子、義夏(後の畠山はたけやま義就よしひろ。以下すべて義就と表記)は母親の身分が賤しかったとされており、家臣団が家格の下落を恐れて忌避したのであろう。

 しかし持国は我が子可愛さからかこの約束をたがえ、文安五年(一四四八)に突如義就を後継者に指名しなおしたのである。

 持富本人は大人しく引き下がって後、ほどなく病死したが、納得しなかったのが家中の旧持富派だ。持富の遺児、弥三郎やさぶろうを引っ張り出してきた神保じんぼ椎名しいなといった旧持富派は持国、義就父子の襲撃を受け、この日、細川勝元の被官である磯谷いそがい四郎兵衛しろうひょうえの邸宅に逃げ込んできたというのである。磯谷からの急報に接した勝元は、舅である宗全との早期の連携を図るために自らやって来たのだった。

「窮鳥が懐に飛び込んで参ったか。では一も二もなく扶け奉ろうではないか」

 宗全はほとんど反射的ともいえる早さで応じた。

 確かにこの時代、助けを求める者があれば詳しい穿鑿を後回しにしてでも扶けてやらねばならない不文律があった。畠山家の内紛に何の関係もなかったはずの磯谷が、弥三郎派の被官を匿ったのはそれに倣ったからだ。

 同時に宗全が思い至ったのが

(好機来たれり)

 畠山の内紛に介入し、これを煽り立て持国を追い落とす。

 今回の騒動は、畠山家の弱体化を図るまさに好機であった。勝元とて、もとよりそのつもりでわざわ山名邸まで足を運んできたのである。

 現時点、持国、義就父子は、義就による家督相続の方針を将軍義政に認められており優勢だった。弥三郎派への肩入れは将軍の方針に反することになる。

 しかし

「武家の棟梁なればこそ勝者を顕彰こそすれ、など敵視する謂われあらんや」

 要するに勝てば良いのである。

 宗全は少しも怯まなかった。

 八月二一日、山名細川の助力を得た弥三郎派は畠山持国邸宅を襲撃し逆襲に転じた。建仁寺に逃げ込んだ持国は隠居を強制され、義就はみやこからの没落を余儀なくされた。

 身柄を拘束された持国は、弥三郎派の面々に取り囲まれながら弥三郎を伴って九月一〇日義政に拝謁。家臣たちに脅されながら弥三郎への家督変更を願い出てこれを認められた。

 応仁の乱の原因のひとつに、必ずといって良いほど挙げられるのがこの義政の無定見だ。確かに一度は義就を相続人として認めておきながら、弥三郎優勢とみるや、前言を撤回して指名替えに応じてしまうあたり、定見があるようには見えない。

 しかし畠山の御家騒動に関していえば、誰を後継者に据えるかなど畢竟畠山の人間が決めるべきことなのであって、将軍といえども他家の人間が首を突っ込む話では本来ない。畠山の家中衆が弥三郎を選んだ以上、義政はその主体的な決定を追認するしかなかった。無定見云々の批判は少し酷かもしれない。

 弥三郎派の面々に囲まれ、項垂うなだれながら花の御所を去る持国。痩せた憐れな背中を見送ったあと、義政は一瞥すらくれることなく次のように勝元に言い放った。

「磯谷に切腹を命じよ」

 血の一滴さえも通わない、冷徹な言い方であった。

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