第四話

「……これを捌かねばならんのか」

 眼前に積まれた大量の訴状を見てげんなりする義政。もう何日も訴訟沙汰に取り組んでいるが、日々持ち込まれる訴状の束は一向に減る様子がない。

 これらの訴訟は従前、管領細川勝元が一手に引き受けていたが、磯谷四郎兵衛切腹の沙汰に憤激した勝元が出仕を取りやめたことから行き場を失い、御所に持ち込まれるようになったのである。

 勝元の当てつけに対しさすがは若き室町殿義政、今こそ将軍専制を確立する好機とばかりに体力にものを言わせ、当初こそ意欲的に取り組んでいたが、掃いても掃いても次から次に湧いて出てくる訴訟沙汰は義政を容赦なく疲弊させていき、今ではもう紙束を見ただけで吐き気をもよおす始末だ。

 義政には

「ほぅら、それがしがいなければどうにもなりますまい。下手に独自色を出されぬ方が御身のためですぞ」

 そう言って舌を出す勝元の表情が目に浮かぶようだった。

 畠山の御家騒動に関して、確かに義政は畠山家中衆の決定を追認する存在でしかなかった。義政が無定見に見えるのは畠山の決定そのものが振幅していたからで、義政に責任はない。

 しかしそうは言っても、畠山に引き摺られるかたちで決定を二転三転させる行為が決して好ましいものではないという自覚はどうやら義政にもあったらしい。

 弥三郎一派を匿っただけでとても罪があるとは思えない磯谷に切腹を命じた所以は、

「畠山の決定は尊重するが、自分が支持していたのは飽くまで義就よしひろである」

 という義政のぶれない信念を示すためでもあったが、それはそれとして、意地を張るのももう限界だった。

 義政は、磯谷切腹の沙汰に腹を立てて今日も出仕しない勝元の邸宅に自ら足を運ぶこととした。

「戻ってきてはくれぬか」

 辞を低うして頼み込む義政に対し

「では先に磯谷を返してください」

 つっけんどんに答える勝元。

「それは……」

 義政は脂汗を浮かべるしかなかった。

「分かり申した。これ以上駄々をこねて御所様を困らせても詮なきこと」

「恩に着るぞ勝元」

 喜ぶ義政に勝元は釘を刺した。

「出仕を再開するにあたりひとつ条件がございます」

「なにか」

「政務は今後、我等宿老にお任せあらんことを」

 下手に口出しするとまたこうなるぞという恫喝であった。義政は従うしかなかった。

 かくして義政と勝元の対立は勝元有利のうちに終結したが、義政も負けてはいなかった。

 この時期(康正元年、一四五五)を境として、将軍しょうぐん御内書ごないしょ副状そえじょう発給者に伊勢貞親の名が頻出するようになるのである。伊勢貞親といえば義政側近として後世にも名が知られた人物だ。自前の実務集団を取りそろえ、宿老政治からの脱却を試みた義政の明確な意図が読み取れる。

 勝元相手に一敗地にまみれた義政だったが、反撃のネタはまだあった。標的は宗全であった。享徳三年(一四五四)一一月二日、義政は突如宗全追討を表明した。

 その理由は定かではないが、当時義政に近侍していた赤松あかまつ則尚のりひさ(彦五郎)への播磨割譲が、待てど暮らせど果たされないことに対する報復が名目ではなかったかと研究者は口を揃える。

 赤松則尚は、赤松惣領家が嘉吉の乱で滅亡した後、一人逃亡して行方が知れなかった赤松あかまつ則繁のりしげを討ち取った功績により、文安五年(一四四八)、播磨拝領の下知をいただいていたが、宗全が引き渡しを拒否し続けていたので、義政の下知が不履行状態に陥っていた。

 畠山家の御家騒動で宗全が義政の意向に反したことが、六年も棚上げにされてきた播磨割譲問題を再燃させるきっかけになったとしか思えない。

 前述のとおり、弥三郎を支持した勝元への攻撃は失敗している。義政にとって残る標的は宗全しかなかった。

 ただ簡単に追討といっても山名といえば全国有数の大大名である。領する分国多数、勇将の下に弱卒なしと本文ほんもんにもあるとおり、宗全を筆頭に実戦経験豊富な荒くれ集団を取りそろえているとあっては誰しも山名追討に消極的で、噂を聞いた市中は上を下への大混乱に陥ったという。

 業を煮やした義政は朝廷に対し、宗全治罰綸旨発給の奏請すら検討したとされるが、これらが沙汰止みになったのは勝元が宗全赦免を願い出たからだった。

 勝元は宗全を訪ねた。屋敷は既に臨戦態勢、広間に置かれた床几にどっかりと腰を据える宗全の背後には愛用の大鎧が鎮座している。

 勝元は言った。

「御所様(義政)もああは仰せですが決して市中での合戦を望んでおられるわけではありません。ここはどうか、ご自重あらんことを」

「この宗全がひと暴れすれば市中はたちまち灰燼に帰するであろうが、それなんもとより宗全の望むところにあらず。そもそも播磨は御所様御父上(義教)の敵を討って公儀より拝領した分国。これを今さら彦五郎(赤松則尚)づれに引き渡せなど……。その上でこの宗全を討つというのであればよろしい、みやこが灰になるも厭わず武家の本分に立ち帰ってひと合戦やるまでのこと。止めてくれるな婿殿」

「そのことでござる。御所様がお望みでないのは飽くまで市中での合戦。もし宗全入道と彦五郎が播磨においてサシで勝負なさるなら止めないし、結果は受け容れるとの御諚。如何」

 勝元は、御所様の手前もあるので舅殿には謹慎名目で但馬に下向してもらうが、彼我の兵力差からいっても舅殿の敗北は万に一つもあり得まい。しかし勝って早々京に凱旋というのでは御所様の面目を潰しかねないので、但馬にてしばらく謹慎して頂くが、舅殿がこれまで築かれてきた京における政治的地位はこの勝元が命に代えてお守り申すと続けた。

「婿殿がそうまで申すなら……。して、勝ってもしばらく謹慎とのことであるがどの程度か」

「三カ年……!」

「……相分かった!」

 一二月六日、宗全は百騎を率いて但馬に謹慎した。

 播磨赤松家の祖はもともと関東御家人であり、六波羅配下だったとの見解が今日示されている。西遷御家人は承久の乱(承久三年、一二二一)における闕所地処分をその嚆矢としているので、赤松家が播磨に根ざし始めたのは鎌倉時代の初めごろのことになる。

 現に播磨を領する宗全に対し、分国を持たない赤松則尚は手もなく捻られるのではないかと思われたが、これが存外しぶとかったのは、二百年にもわたって赤松家が播磨に脈々と営んできた経営の賜物か。

 しかしそれにも限度があり、健闘虚しく赤松則尚は翌年五月、敗死した。

 義政にしてみれば勝元のみならず宗全に対する反撃も不発に終わったわけで、義政がこの結果に不満を募らせただろうことは想像に難くない。

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