第五話

 長禄二年(一四五八)八月、宗全の姿は堀川上立売の山名邸にあった。三年間、主を欠いていた屋形は隅々まで掃き清められ塵ひとつ見当たらぬ。謹慎期間を終えて今日、遂に宗全は京都政界へと復帰を果たしたのである。

 家中衆の出迎えを受けたあと、祝賀に訪れたのは女婿細川勝元であった。勝元と面会した宗全はしかし、不機嫌そのものだった。

「宗全の地歩は婿殿が命に代えてもお守りいただけるという約束だったはずだが……」

 短い言葉の中に宗全の憤懣が渦巻いている。

 勝元は心外とばかりに返した。

「約束どおり舅殿のお立場は三年前と少しも変わってござらぬ。それどころか彦五郎を討伐した軍功により武名はいっそう高まっております。ご安心召されよ」

「ふんっ!」

 鼻で笑い飛ばす宗全。

「確かにこの宗全、三年の長きにわたり但馬に逼塞しておったが、なにも知らんと高をくくっておられるなら大間違いぞ婿殿」

「なんの話でしょう」

「赤松の小倅(次郎法師、のちの赤松政則)のことよ!」

 手にした扇をぴしゃりと閉じて、宗全は大喝した。

 赤松次郎法師は、嘉吉の乱で宗全が討ち滅ぼした赤松満祐の弟、義雅の孫であり、赤松惣領家の血をもっとも色濃く受け継ぐ人物として当時から広く認知されていた。主家を失った赤松旧臣は乳児だった幼君を推し戴いて、ことあるごとに赤松再興を政界に、そして世間にアピールしていたのである。

 悲願成就の好機がやって来た。さる嘉吉三年(一四四三)以来、吉野に残存する後南朝勢力によって強奪されていた神璽を奪還すれば御家おいえ再興を認める旨の勅諚が康正二年(一四五六)、赤松旧臣に下されたのである。

 神璽はいわゆる三種の神器のひとつで、神剣が壇ノ浦に沈んで以降、神鏡と並び皇統の正統性を象徴する最高文物とされてきたが、後南朝による強奪以降、一三年間もほったらかしにされていた懸案が動き出した背景こそ、赤松旧臣による主家再興運動そして、間近に迫った宗全の政界復帰問題だった。

 確かに勝元にとって宗全は盟友だったが、もしなにも手を打たず、謹慎期間を経過したからといって漫然と宗全の入京を許したならば、前述のとおり宗全は彦五郎則尚を打倒した後だから、武名を増して帰ってくることになるのである。

 盟約を結ぶ相手とはいえ、細川京兆家を上回る政治力、軍事力の出現はもとより勝元の望むところではない。そこで勝元が目をつけたのが宗全の天敵赤松だった。

 もし赤松家が神璽奪還に成功すれば、これほどの大手柄はそうそうないから、おおっぴらに赤松家を再興できるというものだったし、失敗しても勝元にダメージはない。宗全に対する牽制は他の手段を考えればいいだけだったし、いまどうあっても牽制しておかなければならないというほど差し迫った問題とも考えられてはいなかった。互いの肚の裡はどうあれ、表向きは両者盟友の立場を依然崩してはいなかったのである。

 要するに赤松家再興は、勝元にとってはほとんどノーリスクの政治工作といえた。

 一方の宗全からしてみれば、彦五郎則尚の排除に成功して自領の安全を確保したそばから、赤松次郎法師という新たな敵が出現したのも同じであった。

「また赤松か」

 さぞかしげんなりしたことだろう。

 宗全が勝元に期待していたのは、このような事態になっても赤松再興を妨害し、山名の権益を保護する役割だったはずで、これでは傀儡化どころかまったく期待はずれだったことになる。

 なんとなれば赤松再興という重大決定に細川京兆家の家督者が関わっていないはずがなく、これが実現した以上、勝元は赤松再興を少なくとも了承したものと解釈しなければならなかった。

 現に目の前では

(手柄を挙げた赤松を取り立てないわけには参りますまい)

 そんな台詞が聞こえてきそうな、ツンとした佇まいの勝元。

 宗全はぐぬぬとばかりに奥歯を噛み締めるしかなかった。

 先に、赤松再興運動は勝元にとってノーリスクの政治工作と記した。その勝元に誤算があったとしたら、このとき宗全が勝元に抱いたであろう不信感ではなかったか。仇敵赤松に抱く宗全の敵愾心は、冷徹な政治家だった勝元にとって計算外の情念だったかもしれない。

 ただ不信感が芽生えはしても、このころの両者は融和姿勢を崩してはいない。長禄四年(一四六〇)年には、不和に陥っていた宗全、教豊父子の仲直りを勝元が仲介してもいる。なんだかんだいっても山名細川のつながりは強固だった。

 ここで再び目を向けておかねばならないことがある。そう、畠山家の御家騒動である。

 一度は弥三郎派の勝利に帰したかに見えた騒動が再度流動し始めたのは宗全の但馬下向がきっかけであった。宗全追放に成功した将軍義政が、ここぞとばかりに義就よしひろを京に呼び返したのである。

 宗全という軍事的後ろ盾を失った弥三郎は大和への没落を余儀なくされた。弥三郎派に与した経緯から勝元は、弥三郎赦免をたびたび願い出たが、その政治運動が結実する前に弥三郎を殺しておきたかった義就は、大和に派兵し上意を騙って諸方を荒らし回ったという。

 この義就の軍事行動は、ほんらい義就派だったはずの将軍義政でさえも激怒させた。大和で勝手放題振る舞う義就への幻滅からか、義政は弥三郎を赦免し再度入京させたが、弥三郎はその直後、長禄三年(一四五九)七月に没している。弥三郎の跡を襲ったのがその弟弥二郎(のちの畠山政長。以後すべて政長と表記)であった。畠山の対立構造はいつまで経っても解決の目処が立たなかった。

 長禄四年、義政は義就の隠居とその猶子政国への家督譲渡を命じた。義就でも政長でもなく、分家である能登畠山家出身の政国に家督を継がせることで、内紛にけりをつけようとしたのである。

 たとえ将軍といえども畠山家の相続問題については追認しか出来なかった事情は先述したが、そうはいっても畠山家が主体的に相続者を決定できない以上、介入に際して誰よりも強い指導力を発揮できるのは将軍しかいないというのもまた現実だった。

 しかしそれを受け容れるかどうかはやはり畠山次第だった。義就は都落ちに際して家臣たちの邸宅を焼いた。家政かせいの維持運営を困難たらしめ、延いては幕府の決定に抗議を表明するための自焼行為である。

 怒った義政は義就討伐を命じる次第となった。 

 勇躍出陣準備を命じる宗全。但馬下向は宗全にとって政治的停滞であったが、今回の軍事行動はその遅れを取り返す好機であった。

(武にくなし)

 猛進しようという宗全の裾を踏む者がある。細川勝元であった。

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