第六話

 畠山はたけやま義就よしひろが籠もった河内嶽山城は、周辺に配された金胎寺こんたいじ城、烏帽子形えぼしがた城、寛弘寺、観心寺、国見山といった支城群と連絡する強固な山城であった。曾て楠木正成が河内金剛山系に立地する千早城、赤阪城といった城塞群に立て籠もり、押し寄せる御家人どもをさんざん痛打した記録がまだ新しかったこのころ、かかる峻嶮の山城を攻略しようという幕府方の士気はともすれば阻喪しがちだった。室町殿の威令とはいえ自らの利益に直結しない争いに首を突っ込みたがらない人間本来の心理はこれまで縷々書き陳べてきたとおりでもある。

 ここに義就討伐を自らの利益とする赤入道がいる。山名宗全その人である。

「怨敵治罰綸旨が下されたと申すにこの宗全が出陣は無用とは、如何なる了簡か」

 いかにも憤懣やるかたないといった風情で物申す宗全。

 対する勝元といえば

「義就風情に舅殿の手を煩わせることはございますまい」

 暖簾に腕押し、まるで応じる気配がない。

 ちょうどこのころ、全国規模の飢饉が発生していた。前年(長禄三年、一四五九)の天候不順による不作の影響が本格的に顕在化しはじめていたのである。

 京洛に住まう人々はそのほとんどが消費生活者で、自前の生産活動では自らの胃袋を満たすことが出来なかった。この消費生活を支えるために、地方からみやこに向けて大量の食糧が日々輸送されていたのだが、すでに京に先立って地方で飢饉が進展していたのであろう。それでも相変わらず京に輸送される食糧を追うようにして、地方から大量の飢餓民が流れ込んできていたのである。

 八万二千もの餓死遺体が賀茂川の流れをせき止め、飢饉に打つ手がなく、花の御所造営に入れ込むことで現実逃避する将軍義政に対し、後花園天皇が漢詩を以て叱責したのはこの頃の出来事だ。

 たびかさなる台風と、そして洪水に見舞われたかと思えば一転して干魃。溢れ出てあたりを覆い尽くした泥は除去するいとまもなく渇き、人の顔も建物も、何もかもが一面の土気色に染まっていた。

 風に吹かれた無数の砂粒が顔を叩き、その風に乗って強烈な屍臭が鼻を衝いた。土まんじゅうのようなひとかたまりをよくよく見れば泥にまみれた飢餓遺体。そんなものが街の至るところに転がっていた。

 急激に数を増やした流民。

 皆無といっても過言ではない社会保障。

 土民蜂起のデマがあちこちで飛び交い、京の治安は急速に悪化していった。一揆の発生は時間の問題であった。

 地方からの収奪の上に成り立っていた京の虚飾は剥がれ、疲弊した地方の没落に伴い、京もまた零落しつつあった。

 むろん宗全とて京に邸宅を構える幕閣の一人であってみれば、かかる惨状と無縁でいられる道理のあるはずがなかった。急速に彩りを失った京の街区を見渡しながら

(もう奪えるほどのものはさほどあるまい)

 それは分かっていても、自らが内者、被官として抱える人々の面倒を見てやらねばならない必要上、宗全は、義就討伐が命じられれば、嘉吉の変に伴い出陣が命じられたあのときのように、陣立てと称して、もうこの京にいかほども残っていないであろう物資を、無理やりにでも徴発するつもりでいた。人々を養うためにはなりふり構ってなどいられなかったのである。

 そんな宗全に待ったをかけたのが勝元だった。

 山名被官人は主人宗全に似て傍若無人の振る舞いが目に余り、たびたび京の人々と騒擾を引き起こすことがあった。

 嘉吉の乱の折、幕府がしぶしぶ認めた徳政令に乗じるかたちで物資を徴発した山名被官人の暴虐と、かかる暴虐に懊悩する父持之の姿を、勝元は記憶してもいたことだろう。

 物資徴発のアテが外れて不満を口にする宗全に対し勝元は、宗全の次男弾正是豊に出陣を求めることで妥協を図っている。山名家の面目を保ちつつ、宗全の武名を笠に着てほしいまま振る舞う山名被官人の暴虐を少しでも抑えようという苦肉の折衷案であった。

 この嶽山城攻略戦は防御側有利、寄せ手の士気が低かった事情もあり、二年以上にわたり繰り広げられることになる。士気が低いといっても戦いをやめなかった寄せ手が寄せ手なら、抵抗をやめなかった義就側の執念も相当のものだ。

 義就のパーソナリティが長期化要因として挙げられることが多いが、かかる飢饉の折節、義就が家督を相続するかしないかで身代が大きく変わってくる被官人たちの集合意識が、義就に徹底抗戦を選択させたように思われてならない。義就が相続しなければ飢えて死んでしまうような人々からしてみれば、畠山家の相続問題はひとり義就の問題にとどまらず、自分たちにとっての死活問題でもあったわけだ。

 よしんばこのとき義就が抗戦を諦め、投げ出していたとしたら、周囲は別の畠山を押し立ててでも戦う道を選んだだろう。途中でやめた義就は、それこそこういった被官人たちに殺されかねなかった。

「俺たちはお前を家督に据えるために血を流して戦ってきたのに、肝心のお前が途中でやめるとは何事だ」

 突き詰めて考えれば当然の理屈である。

 その事情は政長方にしても同じだったはずだから、妙な言い方だが御家騒動の長期化は道理にかなっているのである。

 さて弾正是豊は嶽山城攻略作戦に際して主に中国地方の軍勢を指揮している。これら中国勢に対して下された感状が多数現存していることから、『応仁記』でも活写されているように弾正是豊が本戦で中核を担ったことはどうやら間違いなさそうである。

 宗全は奮闘する息子を前線から呼び返して戦況を訊ねた。

「我等備後の武士団を率いて攻め上りましたところ、もとより峻嶮の山城、七度攻め上って七度切り崩されたところへ、義就、退屈だといわんばかりに自ら太刀をとって切り出してございます。それを我等……」

 不甲斐ない相手に軍功をあげても当たり前、敵は手強く、その手強い敵に斯くも奮闘したのですと主張したかった是豊に対し、宗全は突如はらはらと涙を流しながら

「弓矢を取っては当代比類ない働きである。不憫なことだ。今の世にこれほどの弓取ゆみとりがいるだろうか」

 優れた武勇を誇りながら朝敵にされてしまって……と、息子の軍功どころか敵対しているはずの義就を賞讃したというのである。是豊にしてみれば父の真意を疑ったことだろう。

『応仁記』ではこの変節ともいえる宗全の発言を


 濫觴らんしょう(物事の始まりのこと。この場合は乱世の始まりを意味する)ハ専ラ此ノ入道張行ちょうこうニテ(中略)ウツヽナキ心ニテ(後略)


 即ち、乱世の始まりはこういった宗全のわがままが原因であり、敵対しているはずの義就を賞讃したのは正気を失っていたからだと辛辣に評している。

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