最終話

 その後の神璽の行方について記しておかねばなるまい。結論からいうと、小寺性説こでらしょうせつは大和国民(他国における国人と同義)小川左衛門大夫と協力して南方御母在所より神璽を盗み出すことに成功している。

 長禄二年(一四五八)八月、神璽は小川左衛門に護られながら禁闕の変以来一五年ぶりに内裏に還されることとなった。

 ただし小寺性説と小川左衛門がどのようにして神璽を奪還したのか、その詳細は必ずしも明らかではない。「南方御退治條々」においては


小寺藤兵衛入道廻不思議之了簡、重而神金玉奉取返

(小寺藤兵衛入道、不思議の了簡をめぐらし、重ねて神金玉を取り返し奉る)


 或いは


為神金玉出現計略、小寺藤兵衛入道性説和州罷下、小河中務少輔相共種々廻調略、重而奉取返

(神金玉出現の計略のため、小寺藤兵衛入道性説和州に罷り下り、小河中務少輔相ともに種々の調略をめぐらし、重ねて取り返し奉る)


 と陳べられているだけで、如何なる計略が駆使されたものか明示されていないのである。

 もし大胆な推測が許されるのならば、南方御母にとって神璽は忌まわしいものでしかなかった。生き別れてから十年以上が過ぎた二王子と念願の再会を果たしたというのに、神璽がそこにあるという自分には責任がない事由によって、愛息二人が一度に死ぬこととなってしまったのだから、南方御母にとって神璽はひたすら忌まわしいだけの存在だっただろう。

(こんなものがあるから血が流されるのだ)

 忍び入った小川の手の者が南方御母結衣に神璽を要求すると、刃物を突き付けるまでもなく自らこれを差し出すくらいのことはしたかもしれない。

 神璽を取り返した小川の手の者が、前回はあれだけ苦労した南山からの脱出に難なく成功したというのもよくよく考えてみればおかしな話だ。小寺性説や小川左衛門の計略が特別に優れていたというよりは、両宮を失った吉野郷民に、もはや余所者よそものを糾問したり追撃する気力がなかっただけのように見えるのである。

 前年の苦心惨憺を踏まえると、神璽を取り返したからといって、あまりにも呆気ない幕切れに他ならぬ赤松旧臣自身が

「詳細遺すに値しない」

 と、後世に伝えかねたものとも考えられる。

 ただ神璽再奪還に至る経緯については異説もある。「南方紀伝」等では、そもそも自天王、忠義王を円胤の子としており、さらに末子尊雅王たかまさおうがあったとしている。吉野郷士が取り返した神璽はひとり生き残った尊雅王に託され、長駆して紀伊国は熊野高尾谷たこだにまで逃れた尊雅王だったが、そこも赤松旧臣の襲撃を受けて遂に神璽は奪還されたとする伝承である。

 繰り返すが浅学の私は、地元に伝わるこれら伝承を否定する資格を持たない。

 いまはただ、高尾谷襲撃が史実だったとして、それほどの手柄を上月満吉が「南方御退治條々」に書き残していないのは如何にも不自然であると陳べるにとどめおきたい。

 多少の紆余曲折はあったものの両宮生害と神璽奪還を遂げた赤松は、勅諚並びに御内書で約束されたとおり念願の御家再興を認められた。当初その分国ぶんこくは加賀半国、備前国新田庄にゅうたのしょう、出雲国宇賀庄、伊勢国高宮保等とされ、本懐である播磨復帰とまではいかなかったものの、改易このかた流浪を重ねた赤松旧臣はようやくにして安住の地を手に入れたのであった。

 その赤松が播磨奪還を果たすときが来た。応仁元年(一四六七)に勃発した大乱を機に、みやこでのいくさにかまけていた山名宗全の虚を突く形で赤松政秀が播磨に乱入、遂に旧領回復を果たしたのである。

 しかし時代は赤松に播磨安住を許さなかった。既に陳べたとおり山名による播磨経営はそれなりの実を挙げており、応仁の乱以降も赤松と山名は播磨をめぐって一進一退の攻防を繰り広げることになる。

 赤松は、山名のみならず一族重臣との角逐の過程で次第に力を磨りつぶしてゆき、当地はやがて、四職家の一としてかつて威勢を振るった赤松家が見向きもしなかったような連中(たとえば尼子、毛利、織田といった諸氏)の草刈り場になってしまうのである。

 いたずらに虚無感を弄ぶつもりはないが、筆舌に尽くしがたい辛苦を重ねて本懐を遂げたはずの赤松家が、それでもなお闘争を強いられつづけた歴史を眺める時、興亡を宿命づけられた武家が、いま流行りの持続可能性とは縁遠い存在だったことを思わざるをえない。

 戯言はこれくらいにしておいて、南方御一流のその後について簡記し、本稿の締めくくりとしたい。

 大乱勃発から四年が経過した文明三年(一四七一)八月、山名宗全率いる西軍諸将に推戴された後醍醐流(南方御一流)宮家、小倉宮の末子は北野松梅院に入り、西陣南帝として祭り上げられる。『大乗院日記目録』は文明三年八月二六日条において西陣南帝を「岡崎前門主御息」としているが、その血筋を系譜その他からたどることは例によって難しい。

 宗全陣没後、引き続きこれを擁立しようという者はなく、西軍諸将の支持を得られなかった西陣南帝は、北陸或いは出羽、または甲斐、いや相模に落ち延びたのだとされている。

 要は行方知れずになったのである。

 西陣南帝の例をみるまでもなく、室町幕府に楯突く者が出現したとき、南方御一流はたびたび対抗の旗印として祭り上げられた。皮肉なことにその利用価値は敵対者である幕府の権威にこそ裏付けられていたのであり、後南朝の活動は、北朝後援者である室町幕府の没落と同期するように停滞し、その消滅とともに歴史の波間に埋もれていくことになる。

 南朝忠臣橘将監は、後南朝を見舞うことになるこれらの歴史を知ることなく、南山が神璽を失った翌長禄三年(一四五九)一一月一日、伯母谷で病没したとされる。

 追贈された天英大明神の神号は、ほそぼそとではあるが今もなお、斜陽の後南朝を支え続けた橘将監の忠節と武勇を伝えているのである(川上村教育委員会設置にかかる説明板『橘将監の墓』より抜粋)。


 第三章『南山の苔にうづもるとも』(終)

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