第五話

 応永三五年(一四二八)正月一八日、室町殿足利義持が薨去した。享年四三であったから、当時としても予期せぬ突然の死だった。ここで些か煩瑣ながら義持の発病から死に至る経過を記しておこう。

 年が改まって義持は、直後に我が身を襲うことになる病を思わせないほど精力的に活動している。元日には三条八幡に参詣し、以後病に倒れるまで幕閣邸宅への御成おなりを繰り返しているのである。

 事態急変は正月七日のことであった。尻に出来た腫れ物を入浴中に搔き破った、という些細な出来事が発端だった。八日の晩からはこの傷が化膿して盛り上がりはじめ、十日にはさらに馬蹄状に盛り上がったという。

 正月一一日は幕府にとってその年の評定を開始する「評定始ひょうじょうはじめ」の日だったが、義持は侍臣に手を引かれながら辛うじて出席すると、形ばかり顔を見せただけですぐに引っ込んでしまった。こんな風だったので義持は予定していた幕閣宅への渡御とぎょも取りやめざるを得なかった。一三日に面会した満済まんさいは、もはや座ることも出来ず寝たきり状態になった義持の様子を『満済准后日記』に書き残している。

 一六日、義持に呼び出された満済はそのあまりの衰弱ぶりに驚愕し、義持は義持で

「四三で死んでも悔いはない」

 と死期を悟った様子を見せた。

 権力者が生きているうちはなかなか後継者について話し合うことが出来ないから、これは

「自分はもう死ぬから後継者について話し合っておけ」

 という義持なりのゴーサインだったのだろう。

 これを受けて管領畠山満家、その弟満慶、或いは細川持元、斯波義淳等は寄り集まって後継者について談合したが難航した。

 実は義持には嫡男義量よしかずがあったが、彼は三年前の応永三二年(一四二五)、一九歳の若さで病没してしまっていた。一説によると過度の飲酒が原因だったらしく、それを裏付けるように義持は、義量やその近臣団に禁酒を強要するほどだったというからよほどの大酒飲みだったのだろう。

 ちなみに義量は闘病のなかでうなされながら、叔父である足利義嗣の名を何度も口走ったという。前章に記したとおり、このころ既に義嗣は政治闘争の末に義持に殺されてしまっていた。我が子が熱に浮かされながらかつての政敵の名を口走る様子を見て、義持の心中如何ばかりだったか。

 兎も角も義量が死んだ当時、義持はまだ四〇だったから、後継者誕生の可能性がまったくないわけではなかった。生前の義持が義量死後の後継者について考慮した形跡は見当たらない。

 義持の病状を知って肝を消すほど驚いたという幕閣の狼狽ぶりを見ても、みな押し並べて

「まだ間に合う」

 程度にしか考えていなかったのだろう。いない者を決めようとしても話がまとまるはずがなかった。

 そして正月一八日、発病から僅か一二日後、義持は死んだ。

 死に際して義持は後継者を指名せず、神託に任せ籤によって決するよう言い残した。本人にしても後継者に関しては全く見当もつかないというのが本音ではなかったか。

 死に際、義持は

「どうせ管領以下が納得しなければ自分が決めても意味がないので、あとはみんなでよろしく決めてくれ」

 と、後継者についてかなり投げやりな遺言を遺したことが知られている。

 義持が政務に対して投げやりになったと思われる事件が、死の直前、応永三四年(一四二七)一一月に発生しているので紹介しておこう。

 幕閣のうち、侍所所司を務めたこともある赤松満祐は重要閣僚であったが、その激情型の性格が義持に忌み嫌われたためであろうか、突如義持より

「分国播磨を満祐より召し上げ、分家である赤松持貞に与える」

 旨の命令を受け、激怒した満祐がみやこの屋敷を引き払い、播磨に逼塞してしまうという事件が起こった。

 義持は満祐の下国を謀叛とみなし、諸大名に赤松討伐を命令したが、そんな風雲急を告げるタイミングで突如持ち上がったのが赤松持貞の女性問題だった。

 皆さんももうお気づきだろう。

 満祐討伐になんのメリットもない幕閣が、うち揃って持貞失脚のシナリオを描き、ありもしない女性問題をでっち上げて持貞に詰め腹を切らせることにしたのである。

 実は義持自身も、持貞の身辺に女性問題など存在していないと承知していた節がある。

「まずは持貞を取り調べて事実確認すべきである」

 至極真っ当な意見を馬鹿正直に述べる満済に対し、義持は

「既に確認済である」

 と、これをはねつけているのである。

 この

「女性問題をでっち上げて失脚させる」

 という政治手法は、当時専横を極めていた義持側近の冨樫満成とがしみつなりを追い落とす際、細川満元等が駆使した手段でもあり、義持は再度同じ手で幕閣からノーを突き付けられる格好になった。

 義持にとっては持貞の女性問題が事実かどうかなどどちらでもよく、自身の方針が宿老連中と対立し、幕政運営に支障を来しかねない事実のほうがより重要だったに違いない。

 諸大名からしてみれば、如何に室町殿の仰せとはいえ、勝手気ままに分国を召し上げられてはかなわないので、一致団結して義持の方針に反対を表明したということだろう。かといって室町殿の面目を潰すのも本意ではなく、持貞をスケープゴートに仕立て上げ、些か強引ながら事件の幕引きを図ったのが真相ではなかったか。

 持貞が死んだので播磨召し上げはなかったことになり、諸大名の取り成しもあって満祐は義持に謝罪し、出仕を再開している。めでたく一件落着というわけである。

 その治世を眺めると、義持は諸大名合議を超えた側近重用による将軍専制の実現を何度か試みていることが分かる。持貞の重用と満祐排除はその政治志向と符合しているが、宿老たちの反撃に遭って後退した図式である。

 幕閣の側が義持に対してノーを突き付けるやり方には気遣いが感じられるが、それに対して義持がストレスを感じていなかったかといえばそれはまた別の話だった。

 この事件と相前後するように、義持の飲酒量が激増するところをみると、思うに任せぬ幕政運営に対し、彼なりのストレスを感じていたのではなかろうか。過度の飲酒で免疫力が低下しているところに、不意の外傷から浸入してきた細菌が敗血症を引き起こしたことが死因とされる。

 後継者は義持の遺言どおり神託に任されることとなった。

 結果は皆さんご存じのとおり青蓮院門跡の義円であった。

 四人の候補者のうち最も年長だった義円が選ばれ、結果が順当すぎることから作為を疑う声はいまもあるが、それを裏付ける証拠はない。当たり籤を引いた義円がそれでも数度固持したのは本音かそれとも単なる社交辞令か。

 兎も角もこれで困った立場に追いやられたのは猷秀ゆうしゅうだった。最大の後ろ盾が青蓮院からいなくなってしまったからであった。

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