第四話

「のう御坊」

「なんじゃい」

 宝幢院ほうとういん明賢みょうけんより来訪を受けた猷秀ゆうしゅうはつっけんどんに返事をした。

「御坊は先年、我等が宝幢院修築のために各院坊から銭集めしとったと思うんやが……」

「それがどないした」

「あのう……そのう……そろそろその銭で院の修築を……」

「まだ足らん」

「……えぇっ? そないなことあれへんやろ。あれから何年……」

 何年経った思とんや。

 不満と狼狽が入り混じった表情を見せる明賢。困惑のために二の句を継ぐことが出来ないでいる。

 明賢が言いたいことは至極真っ当な意見だった。猷秀が宝幢院修築のためと称して資金集めを開始してから既に五年もの歳月が経過していたが、宝幢院の本格的な修築は未だに果たされていたかったからである。

 その状況は釈迦堂関所でも同じであった。

 両施設とも、どう考えても建て替えが必要な状態だった。しかし猷秀は木材の一本すらも用立てることなく、費用を安く抑えるために、腐った柱に丹塗りを施し、酷いときにはそういった箇所を墨で塗りつぶすような、およそ修築と称すも憚られる小手先の方法で損傷箇所を隠すばかりだったからである。これでは施設の荒廃は免れない。

 だから明賢は猷秀に対してもっと詰め寄って然るべきだったが、大勢から集めた銭を金融に回していた猷秀は、既に宝幢院に対しても相当額を融資する債権者に成り上がっていた。

 これでは宝幢院や釈迦堂側がいくら筋の通った要求をしても

「ほな借金耳揃えて返してもらおか」

 凄まれて終わりである。

 状況は他の院坊も似たり寄ったりであった。猷秀は義円の傳燈相承式でんとうしょうじょうしきの用途献上を自ら望んだわけではなかったが、弁澄べんちょうに強要されて集めた資金が、山門内で突出した力を猷秀に与えることになったのは皮肉と言うほかなかった。

 こんな風だったので、山門では猷秀に話をしても無駄だという認識がここ数年で定着していた。そこで円明坊えんみょうぼう乗蓮坊じょうれんぼう、それに杉尾坊すぎおぼうといった山門使節は、猷秀の無道をたびたび幕府に訴え出た。

「猷秀が院坊修築のためと称して集めた銭を金融に回し、本来の用途に使うことなく利殖に励んでいるのは道理に反している」

 しかし幕府山門奉行の飯尾いのお為種ためたねが山門の訴えを真面目に取り上げることはなかった。猷秀が裏で幕府側に手を回していたことは言うまでもない。

 このような書き方をすると

「公儀の役人が賄賂を受け取って不公平な取扱いをするなど公務員倫理に反している」

 という誹りが聞こえてきそうだが、いちおう飯尾為種のために弁明しておくと、当時、彼のような吏僚は、三管領四職といった幕府宿老規模の分国を知行されていたわけでもなく、薄給でしかも多忙だった。薄給に甘んじる奉行衆が役職に応じた賄賂を受け取る行為は文字どおり役得と認識されており、飯尾為種ひとりが飛び抜けた腐敗公務員だったわけではなく、そのことは為種の名誉のために附言しておかねばなるまい。

 先に、このころの幕府政策は金儲けという一点において一貫していた旨を記した。金儲けに血道を上げるこのような姿勢は飯尾為種のような役人にまで押し並べて通底していたものと思われる。

 こういった例は室町幕府に限った話ではなく、現代でもまま見られる話だ。中央政府が腐敗しているのに、末端の公務員が優れた倫理感を持って職務に精励しているという例は聞いたことがない。多くの場合上下一致して腐敗を来しており、しかもかかる腐敗が問題と認識されていない点が根深い闇を思わせるが、これなど私個人の所感に過ぎず、しかも余談でしかない。

 話を戻そう。

 いくら奉行が

「役得だから」

 と言ってみたところで、そんなものは奉行側からみた一方的な理屈以外の何ものでもなく、訴え出た先の幕府でも邪険に扱われたとあっては山門の不満は膨らむ一方であった。

 猷秀は、蓄財の真の目的が義円の傳燈相承式執行のための用途である旨を飯尾為種には伝えていただろうから、いくら山門が理のある訴えを及んでも、そんなものが幕府に取り上げられるはずがなかった。なんといっても義円が天台座主に就任できなければ、室町殿(足利義持)の権威にもいくらか傷が付くのである。

 猷秀はもはや、弁澄による口添えなどに期待するまでもなく室町殿お気に入りの山門使節に成り上がっていたのだった。

 そして迎えた応永二六年(一四一九)一一月三日。

 最も格式の高い法衣「袍裳七條ほうもしちじょう」に身を包んだ義円が、延暦寺根本中堂ふもとの書院から姿を現すと、どよめきとともに合掌する者あまた。大衆だいしゅや学侶(学問に専念する僧侶)が人垣を作って見守る中、義円はゆっくりと歩を進め、書院に横付けされた殿中輿てんちゅうごしに座乗した。

 あるときは罵倒し陰口を叩き、またあるときは無視するなどして自分に対しありとあらゆる嫌がらせを繰り返してきた大衆連中が、いまは自らを推戴して殿中輿を担ぐ姿を、義円は悪くないと思った。

 境内を進む殿中輿は根本中堂に達した。

 多衆の吐く白い息と、焼香の煙とが渾然一体となって立ちこめるなか、堂内にいざなわれる義円。清華家や名家出身といった比較的身分の高い良家の僧が声明しょうみょうの声を揃え、ときおりしょう或いは妙鉢みょうばち鉦鼓しょうこの音が入り交じり、全山挙げて荘厳な雰囲気に包まれるなか、義円は伝教大師御影の前において歴代天台座主がその名を記してきた傳燈相承譜でんとうしょうじょうふに自らの名を記した。

 ここに初代修禅大師しゅぜんだいし義真より数えて一五三代目にあたる二六歳の若き天台座主義円が誕生したのである。

 式典を無事終えてひと息ついた義円は、青蓮院に猷秀を召し寄せ言った。

「なにもかも、すべて御坊のおかげです。御坊のご尽力がなければ拙僧は今日という日を迎えることは出来なかったでしょう」

 目に涙を浮かべながら猷秀の手を取る義円。猷秀はというと、こたび天台座主就任は義円様が教学に励み修練を積まれた結果。拙僧の如きにはもったいないお言葉ですなどと返辞をした。

 実際義円は

「天台開闢かいびゃく以来の逸材」

 と喧伝されたほどの才気を示し、この評にいくらかの阿諛追従は混入していても、全く努力知らずの馬鹿者だったならばこうは呼ばれなかっただろう。義円が勉学に励んだ事実は否めない。

 それと同じくらいの猷秀の努力があって、今日という日を迎えることが出来たと自負する猷秀。

 あるとき、猷秀は青蓮院の敷地内で弁澄とすれ違った。

「ふへ、ふへ、ふへへぇ~」

 弁澄は猷秀に道を譲る際、巨躯を窮屈そうに縮込ませながら、頭を下げて大袈裟に後ずさりした。

「かーっ、ペッ!」

 猷秀が吐き出した痰唾が頭頂部にベチャリと命中しても、弁澄は頭を上げることが出来なかった。この五年間で、両者の力関係はまったく逆転してしまっていたのだった。

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