第二章 万人恐怖――永享の山門騒動

第一話

「勉学に励み仏法を極め、それよく兄将軍を護持せよ」

 亡き父鹿苑院殿義満からそのように言い聞かされ、青蓮院に入室して以来一一年。義円(後の足利義教)はいま、無力感に苛まれていた。

「勉学に励んで僧階の高位に昇るは、忠節に励む諸侍が主の寵を得るに似たり。勉学に励まざれば僧階以て昇るあたわず。

 私は今日までそう信じて勉学に励んで参りました。それだというのに……」

 ようやく絞り出す義円。

 継ぐべき言葉が山ほどあるからこそ発せられない言葉がある。抑えようにも抑えられない口許のわななき。無理に何事か発しようとすれば、およそ意味をなさぬ咆哮が口を衝いて出るのは間違いないことだった。

 狭い一室で身を屈める義円。その義円に対座するのは満済まんさい。義円が青蓮院から逐電したと聞いた将軍義持が、その存念を聴取すべく満済を義円の出奔先に派遣したのである。

 その満済は、自身も権大納言今小路基冬の子息として三宝院に入室した貴種僧であった。だからこそ満済は、自分たちのような貴種僧が、僧階の過半を占める凡僧層から激しく嫉視される現実を知っていた。義円が抱える苦衷のすべてを察したかのように、話を急かすことなくじっと聞き役に徹する満済。

 応永二一年(一四一四)七月二日早朝、義円は青蓮院を逐電した。その理由は定かではないが、これに伴い青蓮院前庁である泰村たいそん法眼ほうげんが召し籠められたというから、青蓮院門跡を巡るなんらかの軋轢があったことだけは間違いない。

 このころ、足利将軍家は義満、義持父子が、そろいもそろって北野社信仰に傾斜している真っ只中であった。北野麹座に対しては酒造に欠かせない麹製造の独占権が付与され、自身もみやこじゅうに麹座を抱えていた延暦寺は文字どおり商売あがったりだったことだろう。

 そこへ持ってきて、その憎っくき義満の子息、義持の実弟である義円が、貴種僧として送り込まれてきたのだから、これで下級山徒の面白かろうはずがない。義円に対して有形無形の嫌がらせが行われただろうことは容易に想像できるし、青蓮院は義円に取って決して居心地の良い場所などではなかったに違いない。

 しかしだからといっていじけてしまい、怠学に及ぶなどほしいままに振る舞えば、それこそ彼等凡僧の思うつぼであった。きっと義円の不行跡を山門使節に訴え出て、この機に乗じて義円排除に動くことは間違いないことだった。

 当時、「三千さんぜん大衆だいしゅ 」(いわゆる僧兵)とも称された自前の軍事力を保有する山門(延暦寺)は、その武力を背景として自らの意向に反する政策や為政者に公然楯突くのが常であった。京都に基盤を置いた歴代政権にとって、折に触れ反抗的態度を取る山門への対策は政治課題でありつづけ、朝廷が各門跡に子弟を送り込んだ所以は山徒懐柔策の一環だったと考えて良い。しかし時代が下るにつれてこういった形での懐柔策も次第に形骸化を余儀なくされていく。圧倒的多数を占める凡僧の前には、如何な貴種僧をトップに据えようとも統制が行き届かなくなるのは当然の成り行きであった。

 そこで義満が目をつけたのが各院坊の有力僧であった。

 有力僧といっても特別知識に優れていたとか学識が深かったわけではない。有り体に言えばその力の源泉は経済力、それに武力であった。こういった有力僧は平時は保有する荘園の経営に携わって金儲けに邁進し、有事に際しては「合戦大将」として自ら武具に身を包み出陣する、半僧半俗の人々であって、いわば「三千大衆」の親玉のような存在だったのである。

 義満はこれら荒くれの下級僧の元締めたる有力僧を山門使節に任じ、彼等を通じた間接的な山門支配を試みたわけだが、いくら幕府から「山門使節」なる仰々しい役職を与えられたところで、所詮は大衆に毛が生えた程度の存在であってみれば、お察しのとおり権力に容易に迎合しない山門特有のメンタリティーは他の大衆と大差ないのが現実だった。

 余談が過ぎたが、もし義円が山徒の嫌がらせに屈服して不行跡の振る舞いに及べば、これら下級僧の元締めである山門使節を通じて幕府に讒訴される恐れがあった。讒訴はやがて室町殿(義持)の耳に達することとなり、義円は山徒の支持を失ったものと見做され、殺されることはないにしても、門跡を外され浮かばれぬ一生を過ごすことになるのは今から明白だった。

 このときの義円の立場は、現代でたとえるならばキャリア官僚のようなものだった。

 中央人事のお墨付きを得て出先機関に出向しては来ても、現地役人の反感を買うなどして組織統治に失敗すれば、やはりその責任は本人に帰せられるのである(もちろん反抗した現地役人の側も無事では済まされないのだが)。

 義円は室町殿のお墨付きを得て青蓮院に入室したが、お墨付きを得ているがゆえに現地に巣くう山徒のやっかみを買い、山門統治が覚束ないものになりつつあった。このままでは既定路線と見做されていた天台座主就任が危うい。

 だから義円は嫌がらせを受けているからといって投げやりになるわけにはいかなかった。ここで引き下がれば自身のキャリアは終焉するのである。踏ん張りどころだった。

 嗚咽を圧し殺したような吐息が室内に響く。

 どれほどの時間が経過しただろう。

 沈黙を破ったのは満済ではなく義円のほうだった。

「少し落ち着きました……。兄上にもご心配をおかけしましたがもう大丈夫です。すぐに青蓮院に戻りましょう」

 吹っ切れたようなものの言い方であった。

「しかし……」

 いま戻っても義円の後ろ盾となるべき泰村法眼は召し籠められて不在、単騎敵中に斬り込む同様、無謀の試み以外の何ものでもない。

「いや、もう本当に大丈夫ですから。これ以上わがままを言っては大衆どもに足許をすくわれかねません。早く戻らねば……」

 義円から重ねて言われると、満済はこれ以上義円を引き留めることが出来なかった。

 義持から義円との面接結果について復命を求められた満済は、将軍に対し

「条々の儀これありと云々(いろいろあったみたいです)」

 と陳べるに留めている。

 万感込められた、意味深長な復命といえよう。

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