第二話

「のう猷秀ゆうしゅう

 ドスの利いた声で呼びかけたのは金輪院こんりんいん弁澄べんちょうだ。黒の法衣ほうえに包まれた体躯は見るからに大柄で、そこいらの木っ端武者であれば束になってかかっても敵うまいと思われるほどの威容を誇る山門使節の最有力僧である。

 その弁澄に呼び止められたから、同じ山門使節の中でも最も力の乏しい猷秀は恐れ入るばかりだ。

「へい、なんでございましょう」

「俺はな、決めた。決めたで猷秀」

「なにをでございましょう」

「分からんか猷秀。俺がなにを決めたか分からんか」

「へぇ、とんと……」

「せやからわれぁあかんねや」

「へぇ、すんません」

 愛想笑いを浮かべながらへりくだる猷秀に、弁澄は続けた。

「俺はな猷秀。あの義円を天台座主てんだいのざすに据えたろうと決めたんや」

「ええっ!? 義円を?」

 青蓮院しょうれんいん門跡として入室した義円に対し、息のかかった大衆だいしゅ連中を駆使して有形無形の嫌がらせを繰り返してきたのが他ならぬ弁澄だったのだから、猷秀の驚きは当然だった。

「いったいどないな風の吹き回しで?」

 目をぱちくりさせながら猷秀が訊ねると、そんなことを聞かれるのは心外だと言わんばかりに次の如く答えてのける弁澄。

「どないもこないもあるかいな。義円は元を正せば天台座主になるために入室してきた貴種僧や。それを前々から決められとったとおりに天台座主に据えたるっちゅうんやから、おかしなことなんぞあるかいや」

「いや、そらまぁそうですが……」

 ――その義円を散々いじめ倒してきたんはあんたやないか。

 そんな言葉が口を衝いて出そうになるのをぐっと堪える猷秀。

 おおかた、弁澄は先を見切ったのだろう。もし義円を追い落とすなら、つい先日、泰村法眼たいそんほうげんを召し籠めて義円を逐電に追いやったあの時こそが最大の好機だった。青蓮院門跡の不在状態がもう少し長引いておれば、弁澄はきっと

「出奔した義円に天台座主の資格なし」

 などと唱えて本当に義円を追い落としてしまうつもりだったに違いなかったのである。しかし案に相違して、義円はすぐに青蓮院に戻ってきてしまい、弁澄の目論見は潰えた。

 こうなってしまえば義円の天台座主就任は既定路線に乗ったも同然だった。これ以上室町殿の方針に楯突いたところで満足するのは自尊心だけで、下手をすれば山門使節の資格を剥奪され、放逐の憂き目すら見かねなかった。

 弁澄はその鋭い政治的嗅覚を存分に発揮して、にわかに従来の方針を捨てたのである。

(あんたっちゅうお人は……)

 呆れてモノも言えぬ猷秀が

「そこでや猷秀」

 弁澄に不意を衝かれた。

「へ……へぇ、なんでございましょう」

「俺は汝を取り立ててやることにした」

「……」

 いやな予感しかしない。

 自ら取り立ててほしいと懇願したというなら兎も角、こちらが希望もしないうちから一方的に取り立ててやるなどと言われて手放しで喜ぶことなど出来るものではなかった。

「せやから猷秀」

 そぅら来た。

「汝に義円の傳燈でんとう相承しょうじょうしき(天台座主の就任式典)の用途献上を命じたる。望んでもなかなかかなわん大役や。それをわれ宛行あてごうたるんや。喜べやこのうすのろ」

「……」

 傳燈相承式は確かに重大な国家事業であったが、しかしだからといってその費用を幕府なり朝廷が肩代わりしてくれるような代物ではなかった。これらは延暦寺が、もっといえばこれから天台座主に就任しようという義円自身や、その義円が入室した青蓮院が負担すべきものだったのである。青蓮院門徒の山門使節として権勢を誇る弁澄には、きっと莫大な経済的負担がのしかかってくることになるだろう。

 そもそも権門勢家や将軍家、有力大名が寺社にせっせと荘園を寄進した所以は、豊穣或いは国家鎮護といった重要な祈祷や、菩提追善供養などの仏事を滞りなく執行してもらうためであった。こういった仏事は途絶えることがないから、ただ単に蓄財しているだけでは駄目で、貸し付けるなどして殖やしていかなければならない。

 こうやって弁澄が蓄えてきた財は既に相当額にのぼっており、それは所期の目的からいっても義円の傳燈相承式に使われて然るべき銭であった。弁澄はただ単に荘園経営を委任されていただけで、手間賃を越える銭を弁澄がわたくしできる根拠などどこにもなかった。

 とはいうもののそれなん建前であって、人間いちど手にした金を手放すことなどそう簡単には出来ないものだ。

 義円の天台座主就任が既に政治日程に上ったも同然の今日、弁澄がとることの出来る次善の策は経済的負担の軽減であった。弁澄はそのために、いくらかを猷秀に負担させようとしているのである。

「そないに嫌な顔すなや」

 弁澄がそう指摘するくらいだから、よほどのしかめっ面を見せていたのだろう。もっとも猷秀は、その表情を隠そうとは思わなかった。このしかめっ面ですべてを察してもらい、諦めてくれたならばそれに越したことはないとさえ思っていた。

「もし汝が頑張ってなんぼか用途を献上したら、俺が室町殿によろしくお伝えして、いまよりもっと取り立てるようにお願いしたろ。どないや。悪い話ちゃうと思うんやけどな……」

 もし用途捻出の奉行などに任じられたら、大衆だいしゅ連中を通じて金集めをすることになるだろう。負担は下へ下へと下りてゆき、やがては各院坊が経営する荘園の住人に行き着くのである。猷秀のもとにはきっと怨嗟の声が集中するに違いなかった。

 ――どないもこないもあるかいな。この任、どない考えても断るに限る。

 猷秀がいつものように愛想笑いを浮かべながら

「へぇ、その任はどうやら拙僧には荷が重すぎるようで……」

 そう答えた次の瞬間、

「この、ド阿呆!」

 大喝とともに飛んできたのは弁澄のゲンコツであった。

「うひゃは~!」

 ちょっとした木魚よりも大きな弁澄の拳が猷秀の顔面にめり込んだ。噴水のように鼻血を吹きながらもんどり打って倒れる猷秀。

「ほげぇ~」

 骨折でもしたのか、両の鼻孔からボタボタと血が流れ落ちる。

「義円様の傳燈相承式の用途献上を断るなど青蓮院門徒にあるまじき懈怠!」

 這いつくばって逃げようという猷秀の土手っ腹を蹴り上げる弁澄。なお追撃の手を緩めない。

「おごぉ~!」

「今いちど問う。用途献上を担うのは……」

「はひっ、はひっ、拙僧にございます。この光聚院こうしゅいん猷秀ゆうしゅうにどうか、どうかお任せあれぇ~」

 猷秀が言うや、弁澄は斯くのたまった。

「いみじくも申したり光聚院猷秀。御坊の忠節、末永く山門に伝えられるであろう。

 いま言うた言葉、忘れんなよ」

 一転して満足そのものといった弁澄に対し、

(このクソ坊主、いつか殺してやる)

 復讐を誓う怨念の炎が、猷秀の胸のなかで静かに、じわじわと燃え広がっていったのであった。

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