最終話
鎌倉のみならず京都政界すら震撼させた関東兵乱は、蜂起の翌年(応永二四年、一四一七)正月、禅秀切腹で幕を閉じた。しかし義持の気が晴れるということはなかった。義嗣の処遇問題に解決の目処が立たなかったからである。
常識的に考えれば、義嗣はもはや失脚し、政治的に抹殺されたも同然の存在だった。何事もなかったかのように装って、何食わぬ顔をしながら以前の立ち位置に戻すなどもう不可能だったし、次期室町殿に据えるなどどだい無理な話であった。
加えて今年は嫡男義量一一歳の年に当たっていた。父義満の例に倣うなら、今年のうちに義量は元服を遂げねばならないということになる。嫡男を次期室町殿に据える方針を内外に公にするわけだから、一時はその義量の競合相手とも見做されていた義嗣の存在は、いまとなってしまえば障害以外の何ものでもなかった。
(もう伯夷も叔斉もない)
あるのはお手本のような権力闘争の図式だけだった。義持はこれ以上、義嗣殺害の決断を先延ばしにはできなかった。
年が明けて応永二五年(一四一八)正月二〇日、
(前略)去廿日旗雲聳天、陰陽師晴了被占之處、兵革瑞也、背御意輩急ニ可被討伐、若不然者兵乱可在于近之由占申(後略)
(去る二〇日、旗雲天に聳える。陰陽師安倍晴了これを占われるところ、「兵革の瑞なり。御意に背く輩、急に討伐さるべし。もししからずんば兵乱近きにあるべし」との由、占って申す)
天にたなびく旗雲を陰陽師が占ったところ、逆意を抱く者を討伐しなければ兵乱が起こる旨を申し立てたというのである。相当に胡散臭い話だが、『看聞日記』の著者である
「義嗣殺害は我意にあらず、天意なり」
そう言い訳した上で義嗣殺害を命じたとも解釈できるだろう。
正月二四日、義持は冨樫満成に義嗣殺害を命じた。命じはしたが、密かにその失敗を望む自分もいる。もし冨樫が義嗣殺害に失敗したとしたら、今度こそ義持は、逐電した義嗣のこれ以上の探索不要を宣言するつもりでいた。もうどこぞにでも逃げ散って、それこそ修験者にでも身をやつしながら体ひとつ生き延びてさえくれればそれだけで良いと思った。
密命を帯びた冨樫はあっという間に行って、帰ってきた。
「首尾良く討ち取りました」
首桶を携えながら三条坊門第に帰ってきた満成は、義持の一縷の望みを打ち砕いた。義持は義嗣殺害を命じた我が身のことも忘れ一瞬大喝するところだったが
「大儀であった。下がって良い」
意に反した言葉を口にしなければならなかった。
時は丑の刻の終わりごろ(午前三時ころ)であった。義持は首桶から義嗣を抱き上げた。栂尾以来の対面であった。
ゆらゆらと揺れる燈火に照らされて、ぼんやりと映し出される義嗣の首。一年以上見ない間に頬は痩け、艶やかだったはずの黒髪には白いものが目立つようになっていた。
二五歳という若さで非業の死を遂げた弟の首を片腕に抱えながら、義持は余った手で愛おしそうに、いつまでもいつまでも、その
ここからは後日談である。
義嗣の死後も、冨樫満成はその存在を最大限権力闘争に利用し続けた。義嗣の死の五箇月後、
有力者の蹴落としに成功した満成は、「近日権威傍若無人」(『看聞日記』)と評されるほどの権勢を誇るようになり、管領細川満元は満成を重用する義持に対し、訴訟沙汰を懈怠することで抗議の意志を表明するほどだった。
一一月、例によって北野社に参籠中の義持の前にまろび出る女がいた。亡き義嗣の愛妾、
女は義持に対し、満成に言い寄られて不義密通を強要された旨を訴え出た。加えて林歌局は、義嗣に謀叛を勧めたのは満成だったことや、その露顕を恐れて口封じのために義嗣を殺害するよう仕向けたのが満成だったことを直訴したという。
義持はこれらの訴えを聞き届けて激怒したと伝わるが、満成を取り調べもせず、真贋断じがたい陰謀論を一方的にまくし立てられた義持が、その場でこれら与太話を信じたというのはいささか飛躍が過ぎよう。
現代でもそうだが女性問題は政治家にとっては致命傷になりかねないスキャンダルであった。満成に問い糾したところで否認するだろうことは目に見えており、事実かどうか証明できない以上、義持はこのスキャンダルを別次元で解釈する必要があった。
要するに派閥抗争の勃発である。
義持は義嗣未亡人まで動員した反満成派の優勢を瞬時に察知したことだろう。反満成派は、義持が満成排除の沙汰を下しやすくするために女性問題をでっち上げ、義持は義持で、極めて冷静に情勢を判断した上で激怒してみせ、反満成派が敷いたレールに敢えて乗った図式が垣間見える。義持にとって所詮満成など、幕府中枢を占める宿老連中を敵に回してまで守らなければならない存在ではなかったというだけの話だった。
義持に見放され、高野山に逐電した満成だったが、赦免の沙汰に釣られて河内まで出てきたところで畠山満家に殺されている。義持の下命或いは容認があったことは疑いがない。もしかしたら義持は、自ら命じたとは言いながら、義嗣殺害を実行した満成を心の底では憎んでいたのかもしれない。
物故者ですら権力闘争のダシに使った冨樫満成の、これが末路であった。
話を亡き義嗣に戻してこの物語の締めくくりとしたい。
永享元年(一四二九)九月、没後一一年を経て義嗣に
死後のこととはいえ、このような栄典が謀反人に沙汰されるはずがない。義嗣殺害の表向きの理由は飽くまで林光院に火を放ち逃走を企てたためだったのであり、謀反人として誅殺されたわけではないという建前と符合している。
とはいえ義持存命中はそれが果たされなかったのもまた事実だった。義嗣事件は極めてセンシティブな取扱いを求められる事件だったのであり、事件関係者のうちで最大の大物だった義持存命中の追贈はさすがに憚られたのだろう。
追贈の前年(応永三五年、一四二八)正月に義持は病没しているが、義持が義嗣への従一位授与を遺言した記録を私は寡聞にして知らぬ。しかし私にはやはりこれが、望まぬ対立の結果殺すに至った弟に捧ぐべく、義持が遺言した鎮魂の追贈に思われてならないのである。
第一章『伯夷たらんと欲す』 (終)
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