第九話

 足利義嗣出奔事件については謎の部分が多く、事件から六〇〇年以上を経たいま、その真相を明らかにすることはほとんど不可能といってよい。何故義嗣主従は禅秀蜂起のタイミングで出奔しなければならなかったのか。まずもってこの点にしてからが謎なのである。

 作中著したとおり、禅秀の娘を側室に持っているという縁を頼んで義嗣が謀叛を企てたのだとする噂は当時から流布されていた(『看聞日記』等)。

 義嗣は禅秀を焚き付け謀叛に駆り立てた上で、在京大名のうちから禅秀に同調する者が現れると見込んでいたが、案に相違して中央政界が反乱軍討伐で一致したことから、一転危機に陥った義嗣が自ら没落の道を選んだとする筋書きである。

 禅秀の視点から見れば、関東武士団独自の力学が蜂起の要因であり、義嗣の指嗾が入りこむ余地など寸分もなかった。

 確かに義嗣陣営が禅秀蜂起に一方的に期待した心理は否定できない。それでも即時の連絡手段に欠けていた当時、成否のほどがまったく明らかでない関東兵乱の帰趨にすべてをかけるほど義嗣陣営も不見識とは思われず、禅秀と義嗣の間に連携があったかのような筋立てにはやはり無理があるといわざるを得ないだろう。

 私には、南都北嶺にもたらされた慈松発送にかかる回文が鍵を握っているように思われるのである。その内容は今日に伝わっていないが、禅秀蜂起の混乱に乗じ、義嗣を担いで挙兵を促す内容だったのではなかろうか。

 ちょうどこのころ、義持と日野康子は慈松の不行跡を原因として不和に陥ったとされており、その慈松の不行跡というのが南都北嶺に回文を宛てた行為だという見解が示されている(吉田賢司著『足利義持』)。

 先ほど少し触れたが、義持は北野明神信仰が行きすぎるあまり、他の寺社勢力の権益を侵犯してしまうことがあった。北野麹座における麹独占販売のことである。自身も麹座を傘下に置いていた延暦寺は、既得権を侵されてさぞ不満だったことだろう。

 そして義嗣陣営にとっては、遠く離れた関東の情勢よりも、これら南都北嶺が抱える不満の方がより見えやすい風景だったことは想像に難くない。禅秀にはきっかけ程度の期待しかしていなかった義嗣陣営も、南都北嶺の挙兵には本格的に期待したものと思われる。自分たちのひと突きで、はち切れんばかりに膨れ上がった不満が爆発することを期待したのだろう。

 しかし前述のとおり京都政界は混乱を来すどころか義持のもとで一致団結してしまい、南都も北嶺も及び腰になってしまったことから、行き詰まった義嗣主従が計画の露顕を恐れて逃げ出した、というのが真相なのではあるまいか。要するに義嗣陣営の独り相撲だったわけである。

 幕府に回文を披露したのが園城寺だったという話も考えてみれば示唆的だ。園城寺と延暦寺は古くから抗争を繰り広げてきた謂わば仇敵同士であり、どういった経緯かは知らないが回文を入手するに至った園城寺側が、延暦寺の失点をあげつらうために幕府に回文を提出したとも考えられるからである。

 余談はさておいて、義嗣にはやはり、兄義持に次ぐ正二位しょうにい権大納言ごんだいなごんの高位高官に叙任されたはいいが、いよいよ出世が頭打ちになった焦りがあったように思われる。足利家全体の権威を高めるという目的からすると、極位極官に達した時点で義嗣の利用価値は失われたも同然だった。義持は次なる足利を取り立てることになるだろう。その対象は義量以外にない。

 しかし冷静になって考えてみれば、出世コースに乗せるという形での利用価値はなくなっても、高位高官にあるのだから義嗣に失点さえなければただそこに立っているだけでも存在価値は失われないということになる。義嗣がいなくなればその分の権威が足利家全体の権威から差し引かれる理屈は、義満が死んだときとなんら変わりがないのである。

 義嗣を引き立て、苦労して足利の権威の補填に取り組んできた義持だからこそ、義嗣の存在価値を明確に理解していたことだろう。

 回文の披露をきっかけに、義嗣は林光院にしつらえられた座敷牢に閉じ込められることになる。

『看聞日記』応永二三年一二月一六日条には


(前略)仍臨光院如楼舎拵之、而偸盗忍入軒格子切破、番衆見付之間盗人逃了、是亜相為取出云々(後略)

(よって林光院牢舎の如くこれをこしらえ、しこうして偸盗ちゅうとう忍び入り軒格子を切り破り、番衆見付けるの間、盗人逃れおわんぬ。これ亜相(義嗣)取り出さんがためと云々)


 とあり、盗人が義嗣の監禁場所である林光院に忍び込み、義嗣を逃そうと軒や格子を切り取ったという話が伝聞として記されている。誰が義嗣を座敷牢から救い出そうとしたのか謎を残したまま、盗人は逃れてしまったという。

 畠山満家が危惧したように、義嗣を担ぎ出そうとする何者かがいたことが示唆されているのである。

 この逃走幇助があった時点で義持は、義嗣殺害にゴーサインを出しても不思議ではなかった。座敷牢から逃がされ、何者かによって謀叛に担ぎ出されかねない具体的危険性が明白となったわけだから、義嗣が存在することによってもたらされるデメリットは、メリットを上回ったと見做しても差し支えないはずだった。

 しかし義持は、

「次に同じことがあれば成敗する」

 とだけ言って義嗣処断を先延ばしにしたという。

 ことここに至って、なお義嗣の存在価値に重きを置く決断をしたのである。

 永年傾斜して憚らなかった兄弟愛を説く宋学の素養も、義持のそういった決断を後押ししたかもしれない。

「日頃は忠孝ちゅうこうと小うるさい室町殿も、俗人と変わらぬ」

 こんな世間の声を気にしていた側面もあるだろう。

 しかしそれよりなにより義持は、根底の部分では

「弟は担ぎ出されただけで、加担の度は大きくない」

 そう義嗣を信じていた節がある。

 永年義嗣の権威に寄生し、義嗣の累進に伴って出世を果たしてきたような取り巻き連中が、渋る義嗣を担ぎ上げて謀叛に駆り立てたのではないのか。

 廃屋で二人きりになって帰参を促したとき、義嗣が激昂しながら

「自分を将軍にしてくれるか、兄上にそこまでの覚悟はおありか」

 と言ったやりとりを義持は思い出していた。

 最高権力に昇り、これまで自分のために尽くしてくれた者たちの労に報いようとしたものか。

 人々の思惑が絡まり合って、仲の良かった兄弟の間柄を否応なく引き裂いていく。

 義持の心痛、筆舌に尽くしがたいものがある。

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