第八話

 生前の義満から、自身の出生にまつわる逸話を何度も聞かされて育ってきた。赤子(義持)の誕生が間近に迫るや義満は、北野社に対し、文字どおり一社特命で安産祈祷を命じたという。

 義持には異母兄があったが家督相続に関しては争いがなかった。この兄の血統にかねてから疑問符がつけられていたからだと伝えられている。義持はまさに「生まれながらの室町殿」だったわけである。

 出生の無事や争いなき家督相続。これらはすべて北野明神の加護によると義持は信じている。その信仰はひととおりではなく、当時の記録によれば義持は、閑さえあれば北野社参籠を繰り返したとされる。

 また、北野社傘下の麹座は、運上金の上納を幕府に持ちかけてみやこじゅうの麹販売を独占したというが、そこには北野明神信仰に傾斜する義持の意向もあったに違いない。

 麹は酒造に欠かせない原材料だ。泥酔文化(?)が花開いたこの時代、麹販売の独占は莫大な利益を北野社にもたらしたことだろう。

 北野信仰に傾斜する義持は、その御加護のあるうちは自身の身辺に危難が及ぶことはなく、もし危難が及んだのだとしたら既に自分は北野明神の御加護を失った身なのだから、死んだとしてもやむを得ないと本気で信じている。

「義嗣に与同する者があって自分を殺そうというのならやればいい。北野明神の御加護があるなら殺されることはなかろうし、殺されてしまったということは御加護を失ってしまっていたというだけの話だ」

 神仏の思惑はおよそ人知の及ぶところではない。天命を甘受する覚悟があるからこそ死を恐れない自分がいる。謀叛人の摘発を棚上げした所以は、この思考が根底にあるからだった。

 そして先般行われた宿老会議においては、義持はそういった考えを一同で共有し

「与同者の糾明は不要」

 この方針を決定したはずだった。

 そこへ

「それがしの取調べにより新たな与同者が判明いたしました」

 そう注進する者がある。誰かと思えば加賀国南半国守護冨樫とがし満成みつなりである。

「余計なことをするでない。これ以上の糾問不要は宿老会議で決定されたこと。そなた如きが覆すことまかりならぬ。決してならぬぞ」

 義持は釘を刺したが満成は構わず続けた。

「その宿老こそが与同者でした。それがしが語阿ごあを取り調べましたところ……」

「言うでない。余計なことをするなと申したであろう」

「取り調べましたところ、語阿は与同者として管領細川右京大夫(満元)殿、斯波武衛(義教)殿、赤松入道(義則)殿の名を白状したのでございます」

 聞く気がなくても聞いてもらうぞ。そう言わんばかりに強引に言い切った満成。

「はぁ~」

 深いため息を吐きながら頭を抱える義持。聞いてしまった以上はこの疑惑をなんとか打ち消してしまわねばならなかった。

 先に、身分秩序が固定化されていた時代の出世方法を記した。累進著しい個人の権威や権力に寄生する方法だ。

 もうひとつ多用されたのが

「政敵を讒訴ざんそして引き摺りおろす」

 これである。

 代々加賀国に根を張ってきた冨樫家は武家の名族ではあったが、幕府内での位置づけは三管領(斯波、細川、畠山)、四職(赤松、山名、一色、京極)ほどではなかった。満成が語阿から聞き出したという与同者の名前を聞けば、それが彼等を引き摺りおろすための讒言だということがはっきり分かる。

 なので義持は、いま満成が言ったようなことを信じてはいなかった。しかし満成は、室町殿が信じようが信じまいがそんなことはどちらでもよく、これら幕閣重鎮の足を引っ張るために語阿の供述なるものをそこかしこで吹聴すればただそれだけでよかった。

 案の定であった。

「細川右京大夫他数名、新御所謀反に加担」

 スキャンダルを好む京童の口に乗って、あっという間に蔓延する噂話。動揺を抑えようと思えば疑惑のある人物を一網打尽に屠り去るのが手っ取り早いが、関東争乱が混迷の度を深める折節、室町殿お膝元で新たな騒動を起こしている場合ではなかった。

「武衛陣へ参る」

 義持が各幕閣邸宅への御成おなりを言い出したのはこのころのことだ。

「御成」とは、主従関係を再確認するために室町殿が幕閣の邸宅に赴いてその歓待を受ける、この時代に習慣化された儀礼の一種である。室町殿の御成ともなると各大名は俄然発奮するので、供される酒食は豪奢を極めた。

 しかしいまは話が別だ。酒食には毒が盛られているかもしれず、そうでなかったにしても浴びるほど飲まされ足腰が立たなくなったところを見計らって刺客を差し向けられる恐れがあった。

 供廻りのなかには

「武衛殿には謀叛の疑いがあります。やめておきましょう」

 と押し止める者もあったが、義持は

「我に北野明神の御加護あり。この身に危難ありしかば御加護の失われし証なり」

 自分が死ねば北野明神の御加護もそれまでだったということだ、と取り合わなかった。

 義持は結局、この年(応永二三年、一四一六)一二月一二日の斯波武衛陣を皮切りに、義嗣事件の与同者糾明を棚上げにしたまま翌年二月まで幕閣各邸宅に御成を繰り返すことになる。関東争乱や義嗣事件によって浮き足立つ幕政を落ち着かせるためとはいえ、謀叛の疑いが持たれている幕閣各邸宅に赴いて、毒が盛られているかもしれない酒食の提供を受けてみせたのだから並大抵の胆力ではない。事態沈静化に向けた義持の強い決意が垣間見える。

 一連の御成が始まるころ、義持は細川満元、冨樫満成、そして相国寺護持僧三宝院満済の三者で会談を行わせている。

 その場では改めて

「義嗣事件への与同者の糾明は不要」

 との方針が申し合わされたという。讒訴に狂奔する満成に改めて釘を刺した形である。

 この三者会談の翌日、園城寺から一通の怪文書が披露された。義嗣が、南都北嶺(興福寺と延暦寺)に与同を募った回文であった。発送者は慈松(日野持光)とある。

 義持は、廃屋の中で寂しげに語った義嗣の言葉を思い出していた。

「兄上はやはり私を許せなくなるに違いありません」

 このことだったのかと思う。

 自衛のために各階層が武装していたこの時代、仏教界もその潮流と無縁ではなかった。彼等はそれぞれ衆徒しゅと大衆だいしゅとも)、国民とよばれた自前の武力集団を保有していたのであり、これらは自衛の用に供されるのみならず、みやこで発生した権力闘争に利用されるのが常であった。幕閣とのつながりが薄かった義嗣陣営が、不足する武力を寺社勢力のそれで補おうとしたものか。

 義持は怪文書摘発に関連して、慈松等を冨樫満成の知行国である加賀に配流して処分に代えている。再び慈松をスケープゴートにすることで、なんとか義嗣を救おうとしたように思われてならない。

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