第八話

 赤松牢人衆があらかじめ調査しておいたところによれば、上北山行宮かみきたやまあんぐうから伯母谷までは七、八里の距離。さらに伯母谷から河野郷までも同等であり、いずれも道は険しく騎乗での踏破は一部を除いて不可能であった。

 中世日本においては一里は約三・九キロメートルとされていたから、七、八里ということは約二七キロメートルから約三一キロメートルということになるが、半刻(約一時間)歩いた距離を一里とする数え方もあった。起伏の激しい南山一帯の距離感を他人と共有しようと思えば、後者がより実態に近い数え方だったのではなかろうか。昼の短い季節なら、文字どおり朝出発して日没ころに到着する距離感である。

 中村弾正は両宮殺害と神璽奪取の日をちょうど一年後の一二月二日と定めた。あらかじめ決行の日を決めておかなければ、ずるずると先延ばしにしてしまい、いつまで経っても踏ん切りがつかないと考えられたためであった。

 一二月といえば、南山一帯は深い雪に覆われる季節であった。南帝の頸と神璽を抱いて逃げるには甚だしい困難が予想されたが、起伏の激しい道中の困難は夏場でも変わらないのだから、敵にとっても障害となり得る深雪の存在について今からあれこれと思い悩むよりも、思い切って決行日を一年後と定めてしまった方が何かと都合が良かった。厳しい任務も期間限定だと割り切ることが出来るからであった。

 実際、決行日をあらかじめ定めておいたことは赤松牢人衆にとって心理的に有効といえた。

 赤松牢人衆は、訓練と称して河野郷から上北山までの山道を往来すること頻繁であった。南山の人々の中には、こういった赤松牢人衆の動きを訝しんで問いただす者もあったが、

「北の賊徒が攻め寄せてきたときの準備でござる」

 と言い返されては継ぐべき言葉もなかった。いかさま、目的こそ違えど行軍訓練には違いなく、虚実がない交ぜになった嘘はやはりその真偽のほどを見極めることが困難であった。

 赤松牢人丹生屋にうのや帶刀左衛門尉たてわきさえもんのじょうは井口太郎に頼んで行宮における宿直とのいの役を申し出た。むろん南帝に少しでも近づこうという目論見に基づく申し出であったが、

「その忠節、賞讃にあたいするが、未だまかりならぬ」

 体よく断られた。

 それでも井口太郎やその弟三郎が交代で宿直に就くパターンを丹生屋帶刀は記録し、決行日の宿直が井口三郎左衛門尉であることを早い段階で割り出した。南帝を討ち取るためには宿直を放置しておくわけにいかず、一年後には南帝もろとも殺してしまわなければならない井口三郎と必要以上に親しくなることを、丹生屋は自身に戒めなければならなかった。

 赤松牢人衆が難渋したのは神璽の在処ありかの探索であった。行宮自体はさほど広域にわたっておらず建物の数も知れていたが、南山の中でも限られた人物にしか知らされていなかった神璽の在処が、新参の赤松牢人衆ごときに知らされる道理がなかった。しぶしぶ受け容れられこそしたものの、やはり警戒されていたのである。

 あるとき中村弾正が身を置いていた河野郷に上北山からの使者があった。南帝御母結衣ゆいからの使者であった。

「はて、何用でござろう」

 中村弾正は結衣から呼び立てられる心当たりはなんらなく、使者に用向きを尋ねてみても

「ただ在所に参られよとのみことづかっております」

 詳しくは何も知らされていない様子であった。

 中村弾正は一昼夜をかけて河野郷から上北山村まで行かなければならなかった。

 南帝御母在所は小橡川ことちがわ東岸に位置しており、まるで行宮の東正門を固めるように立地していた。

「御母上におかせられましてはご機嫌麗しう……」

 型どおりの挨拶が我ながら白々しく感じられるほど愁いに沈んだ結衣の顔色。

 先述したとおり結衣は上北山村の郷士に過ぎなかった中岡新兵衛入道の娘、つまり地下人じげにんに過ぎず、ほんらい玉川宮と引き合う身分ではないはずだったが、その美しさを見初みそめられ、女御として入内じゅだいし、一宮と二宮をもうけた経緯があった。

(なるほど恐ろしいほどの美しさだ……)

 南帝の年のころから考えて四〇に届こうというところだろうが、透明度の極めて高い肌は結衣を実際よりずっと若く感じさせた。

 挨拶を口にしたきり、結衣の美しさに目を奪われた中村弾正が継ぐべき言葉を失っていると、その不意を衝くようにして結衣が言った言葉は中村弾正を酷く狼狽させた。

「宝物は、神璽は行宮の北の庫裏に置いてございます」

「は……はい、いまなんと……?」

「神璽は行宮の北の庫裏に隠していると申したのです」

「……」

「私の言っている意味が分かりますか」

 神璽の在処は教えたのだから、それを持ってここからさっさと立ち去ってくれ――。

「い……意味? はて、とんと分かりかねますが……」

 中村弾正はこの美しい人に嘘をかねばならなかった。

(やむを得ないではないか。我等はもう十分に苦労してきたのだ)

 今日食べる物にまで事欠き、山名被官人の影に怯えながら薄い粥をすする毎日はもう御免だった。

 とはいえ目の前には、神璽の在処を教えることと引き換えに、我が子の命乞いをする結衣。

 神璽奪取のみならず一宮、二宮生害もまた御家再興の条件に含まれている。

 母の子を思う気持ちを裏切らなければならない中村弾正は、

(これはやむを得ないことなのだ。避けがたい運命なのだ)

 そうやって、何度も何度も心の中で言い訳をしなければならなかった。

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